積もりゆくもの、溶けゆくもの。
積もりゆくもの、溶けゆくもの。
その人が訪れたのは、しんしんと白い光が降り積もる夜の事だった。 何の前触れもなく現れたその人は、しかしやはりその辺りをおざなりにする事はできないようで、 コンコンという遠慮がちなノックの音だけを静けさの支配する教会に響かせた。 それに驚きはしなかったし、また、返事だってしなかった。 調教されたこの身はとうに来訪者の存在を捉えており、またその割り出しも滞りなく完了していたのである。 扉の向こうから流れる、返事が無い事に対する微妙な沈黙。それで充分だった。付き合いだけは長いのだから。 やがてそっと扉は開かれて、予想した通りの人物がその姿を晒す。月光を反射して煌めく雪が、同じく真っ白に煌めく彼を後ろから照らしていた。 その光景に思わず目を細める。舞い降りたのは薄紅を溶かした白亜の王。蝋燭の一つすら灯さぬ闇に抱かれた身には酷く眩しく、尊かった。 彼は扉を閉めて、真っ直ぐこちらに視線を合わせた。相変わらずそれは、穢れを知って尚穢れぬ、綺麗なままの色だった。 「随分と暑そうだ、アードライ」 「そう言う君は随分と寒そうだ、エルエルフ」 来訪者――アードライは、真っ白いコートを着てふわふわの耳当てをし、首にはぐるぐると高価そうなマフラーを巻きつけていた。 対するエルエルフは、暖房一つ無い教会の中、黒い衣一枚しか身に纏っていない。 挨拶はその一言で終わった。お互いに、久しぶりとも、元気だったかとも言わなかった。 もう随分と長く会っていなかったような気がするけれど、それは互いを敵としたあの日々くらいの長さかもしれなかったし、また、それよりもずっと短いのかもしれなかった。 ただそう、目の前の彼に変わりが無く、彼が尋ねないと言う事は恐らく自分も最後にあった時からそう変わってはいなくて、それならば無駄な会話は不要だろうと、それだけ。 それくらいには、相手に心を許している。 アードライは、説教台の後ろ、ステンドグラスというにはお粗末な硝子の下に腰を下ろすエルエルフの側まで歩み寄った。 エルエルフはアードライを見て雪に溶けてしまいそうだと思ったのだけれど、アードライもまたエルエルフを見て、月光に溶けてしまいそうだと思ったのだった。 膝を着いたアードライの瞳が、エルエルフの薄氷と同じ高さで揺れた。白い指が白い指を取って、絡み合う。 「冷たいな」 「そうか」 「しかし、指が冷たい人間は心が暖かいのだとこの間教わった」 「それは間違っている」 「何故だ、エルエルフ」 「お前の指はこんなにも暖かい、アードライ」 エルエルフが淡々と返した言葉にぱちくりと瞬いたアードライは、その意味を解した途端、その整った顔に花を咲かせた。 エルエルフにはやはりそれが眩しくて、再び目を細める事しか出来ない。 「なら、その温もりを君にも」 そう言ってコートを脱いだアードライはそれをエルエルフの肩にかけ、相手に失礼にならぬようにと耳当てを外した。 冷えた硝子からエルエルフを少し引き剥がして、自分もその隣に座る。エルエルフは大人しくアードライのしたいようにさせてやった。 今度は随分と寒そうだ、と呟くと、先程の君ほどではない、と返ってきて、指先を再び捉えられる。 温もりが肩から素肌から伝わって、闇が僅かに色付いた気がした。 アードライが自分の首から長いマフラーも外し、二人の首にかかるように巻き直す。随分と気障な事をする、とエルエルフは喉の奥で小さく笑った。 「温もりを半分こ、か」 「まだ半分こは嫌いか、エルエルフ」 「嫌いではない、アードライ」 ただ、とエルエルフは視線を落とし、ただ? とアードライが訊くのに合わせ、今度は煌めきもない高いだけの天蓋を見やった。 石造りのアーチ、その向こうに広がる寒空は背中に触れ合って、床に出来る硝子の模様でしか光の存在を目視出来ない。 「ただ、半分こだけが、暖かな世界ではないと、思う」 「それは向こうで見つけた答えなのか」 「そんな顔をするな、別にそんなんじゃない。それに、結局思い当たったのは、この手から煩わしかった筈のモノ全てが零れ落ちて行った後だった」 「なら、向こうでは何を、その瞳に映してきた」 「色々だ、本当に、色々……。災難ばっかりだったな。災難、ばかり」 「しかし、それだけではない、と」 小さくエルエルフは頷き、例えばと隣の存在が問うた。その時に白に溶けた桃色が揺れて輝き、そう言えば光はここにもあったのだとエルエルフは思い当たる。 「イチかゼロか? でなければその半分? どれも違う。どれを求めた所で結果は変わりはしない。 甘ったれた事ばかり言ってたあいつは、甘ったれなりの成果を上げたものの、結局自身をゼロとして、今ここには居ない。 ならば半分こというものは、悪くはないが良くもない、という事になる」 「ならば、何を良しとする」 「なぜ、人はその三択しか選べないのだろうか、と。なぜイチのままで在ろうとしない。半分にせず、イチに収まれない。 いつも半分に出来る訳では無いのと同じく、いつでもイチに収まる事も出来はしない。しかし、確実にある、イチに収まる瞬間は、いつも」 「好ましく思うが、それは矛盾ではないのか」 「いつも収まれるのと、いつも収まる瞬間があるのとは同じではない。半分こと共有もまた、同じではない」 「つまり」 「お前のその手袋を二人で一つずつ使うのと、お前のこのマフラーを今こうしているように使うのとでは、違うとは思わないか。 半分というのは、分ける、という事だ。結局は、分ける。ハムエッグと同じだ」 「なるほど、その通りだ。しかしそれにしても、珍しい事をいうな」 「似合わないか」 「いいや、今の私になら、君らしいと思える。……それが、いま、君がここに居る理由なのか」 さあ、とエルエルフは自らアードライと目を合わせた。アードライがそれに僅かにたじろいで、しかし次いで明らかな喜色を浮かべる。 昔からいつもそうだ、何故かアードライは真っ直ぐ見つめてやると喜ぶ。 「分からない。きっと、そんな大それた理由ではない。しかし、喪ったものもあれば得たものもある、それが事実だ。 それがこの身をここに留め置く。……今更、他に戻る場所もない」 「エルエルフ、それは――っ」 ここにあるだろうと。お前の居場所は「ここ」にあるだろうと。 言いたくて言えなかった、ここに来た理由そのものである言葉がこぼれかけ、しかし音になる前にエルエルフに奪われた。 エルエルフがぐいとアードライの胸元を掴んで引き寄せ、くちびるに触れるだけのキスを贈る。 それにアードライは目を見開いて固まって、エルエルフの思惑通りに思考を放棄した。 「だまって、アードライ」 エルエルフにしては柔らかく、囁くように窘める。薄氷の瞳が確かな意志を宿し、更にアードライをも映し込んで、分かたれた色がイチになった。 銀色のエルエルフと、藍の空。それはなんて美しく、儚く、凛々しい。 アードライはその優しい妖しさに耐えきれず、今度はぐいとエルエルフの胸元を掴み返し、優しさを留めつつも熱をもって唇を奪った。 エルエルフはぴくりと僅かな驚きを表したものの、抵抗もなく薄く唇を開く。アードライは招かれるままにそこに割り入って、絡めとる。 「んぁ……ふ……」 「っく……ん」 「ぅ……、ふぁ……あ、どらい、」 「エルエルフ、エルエルフ……!」 「しつこい」 「えっ」 しかし、しつこくなる前にとアードライはエルエルフに胸を押され、寄る辺無く剥がされてしまった。 こんなのってない、とアードライは眉をハの字にして、それでも大人しく言う事をきく。 今はこの景色だけで諦めろ、とでも言うのか。 見下ろした視界の中で色気もへったくれもない顔をしたエルエルフは、しかし付き合いの長い者だけが分かる程度に顔を情事のそれに染め、未だに唇を銀糸でアードライのものと繋げていた。 もう一度だけエルエルフからのバードキスを受け取り、アードライが尋ねる。 「あの、良かったのか、エルエルフ」 「何がだ」 「ここは教会で、君は牧師だ」 「あぁ……そんな事なら問題ない、それに今更だ」 「そ、そうだな、やる前に確認を、」 そうじゃない、と明らかに慌てたアードライをエルエルフは溜息をついて宥める。それもそうだが、今はそうではないのだ。 「知っているだろう、その片棒を担ぎ、多少違えどそれなりには同じ道を歩いてきたのであれば。 今更だ、不道徳ならもう嫌という程重ねてきた。奪い奪われ奪い返し、これ以上どう汚れればいい」 「そんな事はない、君は綺麗だ、エルエルフ」 「綺麗なのはお前だよ、アードライ」 またアードライがバードキスをエルエルフに。 「どこが。もう守るために使えるようになった手を、私は未だに血で汚している。 王族がやりたい放題するために邪魔者を粛清している。そう言われても何も言い返せはしない」 「結局この世界は、その本質の部分で半分こなどできはしないんだ。 今だってそう、力を持たぬ多数が数を力とし、力を持った異端たる少数を潰して回っている。 一方が一方を駆逐して成り立つ世界」 「君は、半分この先のイチを信じるのではないのか」 「信じる。かも、しれない。あってもいい、と思えた。それだけだ」 「それだけ、が大切なんだろう?」 「分かっているじゃないか、王子様」 ああもう王様なんだったか。そんな事を嘯くエルエルフ。 まだ正式に王位には、いやもう変わらないだろう、なんていうやり取りを経て。 「大切だよ。大切だ。それを知ってるか知らないかで世界は、変わる。だから、手を血で染めている事を知っているお前は綺麗だ、アードライ」 「もしそうなら、それを教えてくれるのは君だ、エルエルフ」 「そんな器じゃないさ」 「いいや、君は最高の、最高の――」 アードライはエルエルフをきつく抱きしめた。きつい、痛い、なんて情緒をぶち壊す発言をしながら、エルエルフがその腕を解きにかかる事はなかった。 エルエルフもまたアードライの置かれた立場を理解していたし、ここに来た理由だって、本当は分かっていたのだから。 味方という味方を先の戦いで亡くし、もう散々右腕に右腕にと追い続けた仲間がたった一人だけ。それしか、残っていない。 そんな中でやる事だけは山積み、民を守るためにと誓ったその手を、その為に血に染め、他所で弱音を吐く事も許されない。 そんなアードライが求めた温もり、求め続けた繋がり。 エルエルフにだって分かっている。 分かっているが、リーゼロッテを亡くし結果としてハルトをも犠牲にしたと言えるかもしれない自分がそこに立っていいのか、エルエルフにはそれが分からない。 悩み考えても導きだされる結論は未だ迷路の先で、喪に服し、黒に眠り、しかしそれなりに穏やかに過ごしてきた。 これは逃げだろうか、それとも。 いや、そんな日々も、もう終わらせなければならないのかもしれない。潮時なのかも、しれない。 暫く、二人は無言で抱き合っていた。本当は一方的にアードライがエルエルフに抱きついていただけなのだけれど、悪い気はしなかったから、それでもいいかな、とエルエルフは静かに虚空を見つめてた。 アードライはそっとエルエルフを離し、白く細い手を取って唇を落とす。 暫く戦場を離れていたエルエルフの手は繊細で美しく、反対に、先頭に立って戦場を駆けるアードライの手はかつてよりも僅かに荒れていた。 エルエルフはそれに目を伏せ、手を奪い返し、そして。 「これで満足か」 アードライが、今度こそ、零れんばかりに瞳を見開いた。 絶句し、唇の端が震えて、エルエルフを唇が触れた手を宝物でも見るような目で穴が空きそうな程凝視し、最後に歓喜で名前を呼びながら再度抱きついた。 エルエルフは慣れ切ったのか気にしていないのかよく分からない表情で受け止め、苦笑交じりの溜息で容認する。 「で、これで満足なのか」 「ああ……こんな素晴らしい事はない、こんなに素晴らしい事は」 「まだ決定じゃないぞ、王様」 「あっ、いや、そうではないんだ」 「何がだ」 「君には隣に立ってもらいたいんだ、エルエルフ」 「わがままだな、アードライ」 「わがままでもいいんだ、これくらいのワガママなら」 「とんだ為政者だ」 それにまだ俺は何も言っていない。そっぽ向くエルエルフに、アードライが微笑む。 いいさ、何度だって通おう、ここへ、君の元へ。 今はまだ分からなくても、今はまだ見えなくても。どんな夜にも暁の光が差すように。
二人の後ろ、冷え切った硝子の向こうではしんしんと白い光が降り積もりゆく。舞い降りたのは薄紅を溶かした白亜の王。 闇の中へ、薄氷に眠る懐刀たる右腕を探して、溢れんばかりの光を伴い降りてきた。 音を奪う白は煌めきを反射して、教会に寄り添う二つの影を作る。 煌めきは夜更けの冴えた月から朝焼けのそれに変わり、闇を切り裂いた。
こうして月が綺麗な星空の広がる夜更け、その教会には蝋燭の暖かな火が灯る。 その数は、二つ。 しかしやがて溶け、混ざり合い、炎は一つになるのだろう。
願いは一つに、なるのだろう。
END*
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