Index/Top/About/New/Novel/Original Novel/Album/Blog/Mail/Clap/Link





 










  



  
空に溶けた別れの言葉-5



空に溶けた別れの言葉-5



「こんにちは、幸村くん。今日はね、ビターチョコでトリュフ作って来たぜ! 甘さ控えめがいいんだろぃ?」
そう言って病室に顔をだしたのは丸井だった。幸村は何となく視線を向けて溜息をつく。昨日あれだけいったのにまた来たのか、ここまで懲りないといっそ賞賛に値する。
……いや、むしろテニスをするには必要な気質なのかも。
幸村は無言で体を起こした。その体は何故かすこぶる軽く、まぁそれは良い。しかしだ、その所為で面倒が増えたのもまた事実だった。急な回復を訝しんであれやこれやと検査漬け。
そう、回復である。どうやらこの体、気のせいでなく生き続けるつもりがあるらしい。
どうせ回復するなら始めから死刑宣告なんてしないで欲しいのだけれど。
なにはともあれ、そんな理由で幸村の中にも僅かな余裕が生まれてきていた。しかし何故か丸井の顔を見ると苛立ちが湧いてくる。
それは、本当に死の淵にあった時に聞いた「何でもできる」の所為に違いない。人は一度癇に障ると中々それを捨てられないものだ。
それらの事情から、幸村は相変わらず丸井には苛立ちを抱えながら応対する羽目になっていた。
何の苦もなく流れるような動作で身を起こす幸村を見て丸井が微笑む。
「幸村くん、顔色が良いみたいだ。よかった」
「よかった? 何だか白々しいな」
「そんな事ないよ。もう少しで退院できるね」
入口の所で、それはもう太陽のようにキラキラと。だからそれが嫌いだと、どうすれば伝わるのだろう。
今快方に向かっていても、そもそもの原因が不明なのだから、いつまた死に直面することになるかわかったものではないのに。
「よくまぁそうも、無責任な事ばかり言えるんだねブン太は」
「無責任?」
幸村の言葉に丸井は目を瞬いて、それから納得が言ったように笑った。
だから、なぜそういう顔ばかりする。
「無責任なんかじゃないよ、幸村くん。絶対大丈夫、俺が約束する」
それに幸村は本日も絶句する。まだ言い募るか。
丸井はいつものようにお菓子セットを広げることもしないで、ただ静かにベッドの横の椅子に腰掛けた。そして、は、と短く息をつく。その顔色はひどく悪くて、幸村はストレスであろうかと当たりをつけた。人の顔色をとやかく言う前に鏡をみたらどうだろうか。
当の丸井は特にそれを気にかけるようすもなく、そっと窓の向こうに目をやった。
「だって俺たちには魔法使いがついてるし」
そして、まるで何でもない事のように、一言。
幸村の口許がひくりと震えた。それに肩を落とさなかった事を褒めて欲しいくらいだ。言うに事欠いて魔法使いだ? ふざけるのも大概にしてほしい。
「ブン太あのさぁ、俺を馬鹿にするのもうやめない? 不快だし見苦しいよ。そもそも魔法使いって分かってる? 魔法と言うからには邪道なんだ。神様どころか悪魔かもしれないものに頼むなんて、いくらなんでも酷いんじゃない?」
「そうだね幸村くん。魔法使いは神様ではないから、何かをしようとすればそれなりの代償を支払う事になるね」
なんだ、分かっているではないか。結局願うだけ願っても何も変わらない。願いを叶えるには努力がいるし、それだって代償と言えるかもしれない。そんな美しいものですら代償を必要とするのだから、悪魔のそれなどとても良いものとは思えなかった。
まぁ、そもそもが御伽噺であるのだけれども。
そう言おうとした矢先に、ブン太がにっこりと笑った。
「ならさ、その代償を自分で払わなくてもいい魔法をかけてもらえばいいだろぃ」
だから、ならばその為の代償はどこへいくんだ。
幸村はとうとう溜息をついた。丸井はそこまで頭が悪い方では無かったと思うのだが……どこぞのワカメならともかく。
幸村の苛立ちの中に諦めが混ざる。突っ込むのにも疲れてきて、もういっそスルーしてもいいかな、とまで思った。正直不快なので早く出て行って欲しい。
そもそも、誰に代償を肩代わりさせる前提で話しているのやら。
「なら例えばブン太とか?」
「そう、例えば俺とか」
試しに訊いてみれば、やはりさらっとそんな事を言う。この流れは二回目だ。一回目はつい昨日の事だった。
「はぁ、俺さ、お前に俺の代わりに死ねとまで言ったんだけど、まだそう言う事いうの?」
「言うよ。何度だって肯定するし、何度だって繰り返すよ。もう今が最後だけど」
「最後?」
鸚鵡返しで訊くと、丸井は得意げに胸をはった。
「そう、最後。だって幸村くん退院するもん。――あっ、話しが冒頭に戻っちゃった」
そして、照れたように頭をかく。仕切り直すかのように咳払いをする丸井。気のせいであろうが、その音はどこか重たく聞こえた。
「まぁ、ともかくさ。この世界は残酷だけど、こんなにも優しいんだよ。俺たちの側には優しい魔法使いがついてて、みんなの願いを叶えてくれる。だから、幸村くんも大丈夫、大丈夫、絶対に、俺が――」
「ブン太!?」
ぐらりといきなり丸井の体が傾いだ。突然の事に幸村も慌てる。幸村のベッドに身を預けるような形になった丸井を支えると、その体は前よりもさらに軽くなっていた。これはどういう事だろう。ストレスで片付けていいのだろうか。
一瞬だけ意識を失ったようである丸井の瞼が震え、再び瞳が覗く。
「あっ、ごめん、幸村くん」
そう言って体を起こす丸井は、あれだけ献身的に尽くしながら、どこか拒絶するようですらあった。幸村は今度こそ言葉をうしなって、ただ姿勢を正す丸井を見やる事しかできない。
「どうしたんだよ幸村くん。だだの貧血と寝不足だろい? 昨日チビたちにゲーム付き合わされてあんまり寝れてなくて、あとさっきご飯食べそびれて」
そういいつつ、丸井は小さな肩掛け鞄を漁る。目的のものを取り出しながら、丸井は再び幸村の方を見た。
「幸村くん、なんかすごい顔してる」
「ねぇ、ブン太、俺の病気って感染力もってたりするのかな」
「まさか。それに感染するくらいなら全部俺が貰う」
「…………」
今度は、幸村も反論しなかった。あれだけ苛立ってきた台詞と同等の事を言われたというのに、幸村の中で怒りが滾ることはなかった。寧ろ冷たい風が吹き荒れていた、という方が正しい。
何故だか、丸井の台詞を笑う事ができない。
感染するくらいなら全部、それは病気をそっくりそのまま移し替えるという事だ。日に日に回復していく自身と、顔色を青ざめさせていく丸井。認めようとしないだけで、答えはもう出ているのではないか? そんな馬鹿なこと、そんな馬鹿な事が。
いいや、あるはずない。
――ならさ、その代償を自分で払わなくてもいい魔法をかけてもらえばいいだろぃ。
自分の呪いの言葉が本当になったとか、そんな事も決して、決して――――。
「幸村くん、そんな顔しないで。幸村くんらしくない」
「ブン太、」
「ほら、笑ってよ。お前なんか死んじゃえって、もう一回言ってよ。幸村くんにはそうやって、」
夕焼けが窓の向こうに広がっていた。きらきらと降り注ぐ光は夜の使者だ。
「そうやって、俺を忘れてしまってほしいんだ」
闇の訪れを告げるものがブン太の表情を隠し、連れ去る。
幸村にはその言葉の真意が分からなかった。恨み言かと思ったが、丸井の声音はどこまでも柔らかい。
「俺がこうして毎日毎日きてるの、本当にウザかったと思うけど、これが最後だから、金輪際もう無いから、許して欲しい。俺の言葉は全てにおいて幸村くんを苛立たせたかもしれないけど、全てにおいて真実だから、どうか受け入れて欲しい。傲慢だって事は分かってる。三つの問答に震えなかった訳じゃない。毎日トイレに色んなものぶちまけながら、そんな自分の浅ましさを嗤ったりもした。それでも俺はいまここでこうしていて、目の前には幸村くんがいる。それで充分だ」
丸井の、いつの間にか白くなった細い指がお菓子の包みをほどいていく。その音と丸井の声以外の一切が静まり返った空間。呼吸をする事さえ憚られる。
「俺の身勝手で幸村くんが悲しむくらいなら、俺の身勝手で幸村くんに呪って貰いたい。幸村くんが俺を嫌ってくれて、これからずっと幸せでいてくれるのなら、俺はそれが何より嬉しいのに。それなのに」
夕焼けの光が和らいだ。抑えられた光のなか、歪に悲しそうに笑っている丸井と、透明な雫が見えた。
「幸村くんがそんな顔するから、言っちゃっただろい……?」
だめだよ幸村くん、幸村くんは最期まで俺を憎んでいてよ。
そう、ぽろりと漏らす。
幸村には何が何だかまるで分からなかった。しかしこのままでいて良い訳がなかった。ブン太、と開きかけた口、しかしそれを丸井に塞がれる。まるで幸村の言葉を奪い去るかのようなタイミングであった。
幸村はしかしそれに大人しく従った。そうしなければならないような気がした。それ程までに丸井からは必死さが伝わってきたからだ。
甘い香りがした。舌の上で蕩けるチョコレート。たしかにビターで甘さは控え目と言えなくはないけれど、丸井自身がこうも甘くては仕方が無いではないか。
気が付いたら、幸村の中から苛立ちは消えていた。それよりも幸村は丸井が欲しくて堪らなくて、チョコレートがなくなったタイミングで舌を差し戻す。
「ん、ふぁ……っ!?」
驚いた丸井の目が見開かれ、それから悲愴に揺れた。きっと自分も似たような顔をしている事だろうと幸村は思う。
「ぅ……あ、……っん、」
なぜ苛立っていたのだろう。丸井の何が嫌だったのだろう。意味を解す事ができない彼の言葉が頭の中で渦をまいて、囚われて、答えを出す事ができない。何故この苛立ちが消え去って、再び彼が欲しいのか、分からないまでも、自分のあまりの身勝手さに心の内では嘲笑ばかりが溢れ出す。
「あっ、は……ぅ、はぁ!!」
唇が離れ、二人を繋ぐ銀糸もぷつりと途切れた。
それは全ての終わりを告げる音。
丸井はそれを合図にしたかのように、身だしなみを整えて立ち上がった。再び大きくその体が傾いだが、彼は幸村の支えを拒絶した。
はっきりと、幸村を拒絶したのだ。
「幸村くん、もう時間だ」
「ブン太、それはどういう事」
「今までずっと寄り掛かってきてごめんね。もう幸村くんだけに背負わせたりなんてしない。全てその苦しみは遠くへ攫ってゆくから、だから、どうか、俺を憎んでください。憎んで憎んで、忘れて、それでまた、笑ってください。俺の大好きな笑顔で、生きていてください」

寒気がするほど清潔な病室の白と鼻に付く消毒液の臭いばかりが、水彩画のように朧げな世界の中に現実的なものとして残っている。

「大好きな幸村くん、叶うのならば、また、来世で」

視界を滲ませるそれは、果たしてどちらのものであったのだろう。








キラキラとソラが光っていた。満点の星空、いいや、あれは街頭だろうか。
海に程近い公園、煉瓦の橋、その上で、自分の他に人っ子一人居ないその上で、今全てを手放すのだ。
潮風に木々が揺れていた。視界も滲んで揺れていた。とはいえ、もう霞んでよく見えない。顔だって多分、透明だったり赤かったりするものでグシャグシャだ。ここに幸村くんがいなくてよかった。こんな汚い顔、綺麗な幸村くんには見せられないもの。

なつかしいね、幸村くん。よくここで、夢を語り合ったよね。全国優勝、応援してるからね。
またあの日々が当然に毎日やってくる事を、この穏やかな時間が永遠に続く事を信じて疑わなかった。ここは小さな小さな聖域で、幼さが作り出す幻想の象徴でもあった。今はその儚さを誰よりも身を以て知っているけれど。
いいや、本当は分かっていたのかもしれない。わかっていて目をそらしていたのかもしれない。いつかきっと、どんな形であれこの日は訪れたであろう。
だってそもそも、自分と彼とではつりあう訳もなかったのだから。これはその報いなのかもしれない。
けれど、それでも。
「おれ、は……こうなったことに、こうかい、なんて、してない、から」
そっと、今できる精一杯で笑った。隣には、いつの間にか仁王がいた。見上げてみるけれど、滲む街の灯くらいしかそれと判別できない。
この命の灯はもう消えるというのに、それでも光ばかり見えるなんて何だかおかしい。
「さよなら……は、おれの、みがって、だけど、いわな、から」
仁王はきっと、すごく痛そうな顔をしているのだろう。ごめんね、仁王。ありがとう、俺の優しい魔法使い。
悪魔なんてとんでもなくて、もう崇め奉ってもいいかもしれないけど、あっ、でもやっぱりそれは無理かなぁ。
「ゆき、むら、くん……また、ね……」
だって、俺の神様は幸村くんなんだもの。


ことり、綺麗な瞳が隠れて全身から力が抜けた。丸井の体が光に変わっていく。光の粒子が空へ登っていく。
それはさながら、地上から天上にかけられた天の河のように。
しかしその荘厳たる光景は、仁王以外には見えない。
そして、やがてそこには、仁王だけが残された。着ていた服も持っていたゴミ屑さえも、何一つ残さずに丸井はこの世から消え去った。
もう、彼がここに居たことを示すものはない。幸村精市の生以外、何一つとして、なくなってしまった。
それなのに、何故、あんなに満足そうに笑うのだ。

「ぶんちゃんの、ばかやろぉ……」

呟く名は、もう決して君には届かない。



この世界は優しいけれど、こんなにも残酷だ。





街の灯りが綺麗に見える橋の上だった。そこで二人並んで、街ではなく海を見つめて話す。海の方は暗いけれども、その分よく星の光りが見えるような気がした。気のせいでも、構わなかった。
「ここで、ブン太は消えてしまったんだね」
「そうじゃよ。それもこれも、ぜーんぶお前さんのせいじゃ」
「そうだね、俺のせいで、ブン太は消えてしまったんだね。それなのに俺は、ブン太に酷い言葉しか吐いてこなかった」
お互いがお互いを見る事なく、まるで独り言のように会話は展開されていた。
二人とも見ているのは、海でもなければ空でもなく、灯りでもない。
丸井ブン太という、今は闇の向こうに隠れている、太陽だった。
仁王が溜息をついた。その手の中にはブラックコーヒーの缶があり、温かな湯気を立ち上らせていた。
冬ならともかく、この夏場には少々ミスマッチな光景。
それでも仁王はそれを選んだ。幸村もそれを受け取った。
二人は黒々とした熱い液体に口をつけ、様々なものと一緒にその苦味を飲み下す。
「罪深い男じゃ」
「そうだ。俺は本当に罪深い」
「ならば死ぬか」
「いいや」
幸村は静かに頭を振った。
「俺は、生きなくてはいけない。俺は生きて、生きて生きて生きて、みっともなく足掻いて、地べたを這いずり回って、泥だらけになり血にまみれても、自らその生を手放したりなんてしない。最期まで生きて、ブン太に命を返してから、また、来世で。さようならは、言っていないから」
「そうじゃね。ブンちゃんもおんなじ事、いっとった」
「そっか。じゃあ、やるべき事はひとつだね」
幸村の瞳は空を見上げている。遥か遠い遠いところにある太陽に手を伸ばすかのように見上げる瞳。それは、その太陽に祝福されたかのように輝いていた。そこには強固な意志があった。
「明日の全国決勝、絶対に勝つ」
そこには、絶対の、誓いがあった。




華麗にきまるスマッシュ。風をきるラケット。パァンと心地よい音が耳の奥に響く。非の打ち所がないそれに、誰もが見惚れていた。
天才的なテニスセンスを持つ幸村精市。彼のテニスからあの独特の威圧感が消え去って、もう半年近くが経っただろうか。
しかしそれでいながら、彼は強い。誰よりも卓越した技量と、なにより、誰よりも高潔な魂を持っていて、誰よりも心が、清く美しい。だから、彼は強い。
そうして今日も、彼はコートのなかで穏やかに笑うのだ。


君がくれたものを、俺は決して忘れない。命も想いも、全て受け取ったから。
遠く遠く、あの街の灯の向こうに消えてしまった君だけど、さようならはしていないものね。
今は届かなくても、また、会える。
だから今は、この道を走るよ。君が繋げてくれて、君が照らしてくれているこの道を、今は全力で走ろう。

だからね、ブン太。
大好きなブン太、叶うのならば、また、来世で。
大切な大切な、俺の神様。


「どうかな、天才的だろう?」






全国決勝のコート、太陽に祝福されたそこに、溢れんばかりの歓声が降り注いだ。






END




[ 108/118 ]

[mokuji]











 


Index/Top/About/New/Novel/Original Novel/Album/Blog/Mail/Clap/Link






×