溶ける解ける、甘き白雪。*
最後の巡より少々穏やかで、もしもの巡より少々危うい。 それは螺旋の内を巡る、想い募る世界。
ああ、煩わしい。エースは早足に廊下を歩きながら溜息を吐く。ここ数日の魔導院の中は酷く浮き足立っているのだ。何処に行っても目に付くのは興奮気味に話す女子の姿。声を抑えているつもりなのだろうが、実際は尽くダダ漏れだ。 誰に何をあげる、誰が誰を好き、内緒ね。なぁにが「内緒ね」だか。それだけ大っぴらに言っておいて内緒も何もない。ああ、候補生が聞いて呆れる。唯一の救いは9組が混ざっていない事だろう。混ざっていたのならナギの首でも見せしめに送ってやるのだが。 そんな冗談はさておいて、この空気である。本格的な戦争にはなっていないと雖も、何故こうも緩く弛んでしまったのか。悲しい事にその理由は明らかで、明らかであるが故にエースの足取りを重くしていた。 明日はバレンタインデーである。 バレンタイン。恋人たちの甘ったるい一日。ちゃんと形になっていた市販品を態々もう一度溶かして固めて、それを手作りとか言ってしまう。そこにこう一言、「好きです、付き合ってください!」……だからどうしたという話だ。どうせ作るならもう少し手間をかけろよ、女子だろ。なんて思ったり思わなかったりもする。そもそも好きとはなんだ、好きとは。キャッキャウフフとそこら中で騒ぎ散らすのが恋なのか。どうせ死んだら忘れるくせに。そうでなくとも直ぐに別れるくせに。何が好きだ。軽々しく、真でもない言の葉を吐いて。 こんな世界ではあるが、勿論命の危険は常に付きまとう。大きな戦争や領土侵略はなくとも小さな小競り合いならしょっちゅうだ。基本的に候補生は戦場には出ないけれど、いつ事が大きくなり召集が掛かるかも分からない。皆はそれを忘れているのではないだろうか。この間だってビッグブリッジ付近では小規模ながらも軍事衝突があった。衝突そのものには関わっていないが、その後処理をしたのは自分たちだ。そう、後処理。この意味を真に理解している候補生は、徹底的な証拠隠滅の為に呼び出される事が多い0組と、諜報四課とほぼ籍を同じくする9組くらいのものだろう。 そんな世界情勢の中で遊び、浮かれ。全く嘆かわしい事ではないか。 だが、エース自身はよくチョコレートを貰ってしまう。行く先々で、或いは知らぬ内にロッカーがお菓子箱になっている事も珍しくはなかった。エースはそれが不思議でならない。第一、自分がそういう相手になり得るとは思えなかった。 つまり、晴れの日だと騒ぐ性分でない以上に、憎まれ口を胸の内で叩くほかに過ごし方が分からないのである。 向けられた思いをどうすればいい。その思いには答えられない。だって、この思いは、その行きつく先は。 返せぬ心を貰っても困る上に、突き返す事すら出来ない。そうやって毎年、渋々と大好きな甘いものを頬張る。……捨てたらチョコが勿体無いだろ。 だから端的に言うとバレンタインが嫌いになるのだが、それは結局別の苦手意識に因る。本当は、愛だの恋だのといった話をすることが出来ないのだ。好きな相手について思いを巡らそうとすると、扱いきれぬ焦燥と苦しみ、それをも凌駕する温もりに包まれて、正体の分からぬ感情に引き摺られてしまう。だから目を逸らしているだけで、そこにあるのは嫌悪感ではなく、本当は寧ろ――。 「だぁあああああああああッ!」 エースは頭を掻き毟って喚いた。辿り着いたのはテラス。誰もいないのをいい事にそのまま物思いに耽っていたのである。結局煮詰まり答えを得ることは叶わなかったのだが、ここは考え事には相応しい。 爽やかな風が乱されたエースの髪を梳いて行く。冷たい冬の風。熱くなった頬を冷まして過ぎ行く。熱くなった、頬。 「なんで……いつも、分からないのに」 ぽつり。口を吐いて出た独白は誰に拾われる事なく消えた。答えを差し出す者はない。エース自身ですら、その答えを持たない。 僕のこの想いは誰へ捧げるべきか、なんて。 こういう事を考えるといつも頬が熱くなる。胸の奥が軋み出す。好きな人など居ないはずなのに。それなのに、魂が思いとは裏腹に叫びだすのだ。自分にはあの人だけだと。まるで全く知らない他人を内に飼っているかのよう。 その日が近づけば近づくほど、空気が恋人たちのそれになれば成るほど、エースと何かが互いを疎外しあう感覚は強くなる。自分が半分に割れてしまうような、否、もう一人の住人に全てを奪われてしまうかのような感覚。本来のエースは、正体の分からぬ焦燥と理由の分からぬ喪失感に苛まれる。対処してやろうと眼を向ければ途端に呑まれかけ、かといって眼を背けてもジリジリとこちらを炙り続けてくる何か。 現状は後者だ。後者の方がマシなので耐えている、ただそれだけの話だった。 それにしても、なんて明日は盛り沢山なのだろう。明日はバレンタインであって、そうではない。そんなものよりもっと重要な事がある。 自分たち0組に、とうとう隊長が決まるのだ。 0組が作戦の後始末をして回る事は最近格段に多くなった。そろそろ本格的に戦争が始まるのかもしれないと、きょうだいたちは推測している。しかしそんな中、0組には隊長というべき存在が無かった。それは今後作戦を決行するのに致命的な欠点になりかねない。 候補生部隊の戦闘介入に関する計画はマザーから聞いた事があったが、それによると軍部と候補生とを繫ぐガイダンスとして非常に大きな役割を負うのが隊長という事であった。 指示する側とされる側との間に生じる齟齬をなくし、候補生を護り、また士気を保ち、教師としても機能する。特に遊軍の色が強い0組に於いては重要な役職といえるだろう。そんなこんなで、隊長を決めようという事になった訳だ。 信用できる人間かどうかは分からない。しかしマザーの決めた事に間違いはない。少なくともバレンタインなんていう物よりはよっぽど建設的な事項だろう。だから、とりあえず今は。 本当に、バレンタインなんて無くなってしまえばいいのに。
そして、その日は訪れる。 チョコレートの甘い香りは魔道院中に満ちて、最悪なことに0組の教室にまで入り込んでいた。とはいえ、さすがに他の候補生と違い多かれ少なかれ血を浴びている0組は、祭りの日でも落ち着いている。余計な刺激さえなければ。 ここで一つ訂正しておきたいのだが、こういった催し物そのものを否定しようというわけではない。ただ節度を弁えろという事だ。迷惑行為は慎み、訓練や作戦には真摯に参加する。そんなのは当たり前だろう。その当たり前を侵食するようなものなら辞めてしまえ、要するにそれだけ。別に行事そのものが憎いなんて一言も言っていない、本当だ。 実際、エースはきょうだいからの贈り物を毎年とても楽しみにしていた。今年もデュース達が何やら打ち合わせをしていたから、後でお菓子が貰えるかもしれない。 それはいい、それは。 ――だがしかしこの男、この雰囲気とあまりに見合わぬ。 「私が今日から諸君らの隊長となる、クラサメだ」 冷たく鋭い氷のようなその男は、クラサメ・スサヤと名乗った。甘く浮ついた空気を、その存在を持って凍てつかせるかのように、玲瓏に彼は現れた。彼こそが、満を辞して据えられた0組隊長である。 事前に聞いていたとはいえ、流石に教室が騒がしくなった。自分たちの上にマザー以外の人間が立つなど異例のことだ。それに何人かが明らかな反発を示した。一触即発の危うさが教室に広がる。 しかし、思い描いたような未来は訪れなかった。 詰め寄るナインをクサラメが手で制す。それから彼は、懐から何かを取り出しながら至極冷静な口調で、 「さて、親睦の証としてチョコレートを持参した。順番に配ろう。ここに並ぶように」 などと宣ったのである。 これは一体どういうことだ! クラサメ・スサヤ。その名前は聞いたことがある。氷剣の死神の異名で知られる優秀な軍人だ。その冴えた頭脳や卓越した氷魔法の腕前と美しい剣技、加えて堅物めいた雰囲気に因り、正直近寄り難いと言われていた。言われていたはずだ。 その堅物が、一つずつ可愛らしくラッピングされたチョコレートを掲げている。トンベリの形をしたそれは透明な袋に収まって、リボンで化粧し揺れていた。 その挨拶に毒気を抜かれた、いや、率直に言えば買収されたとも表現できるだろう。なんとも残念な事に、0組は一瞬にしてチョコレートの前に陥落した。待ってくれ、朱の誇りはどこへやったんだ。ナインが一番にその勢いのまま受け取り、感情の行き場をなくして固まった。次にジャックとトレイが列を作る。その後ろにシンクとデュースが並び、クイーンが誘導を始めて――。 当然のように、誰一人いらないとは言わないのである。 そう、知っていた、知っていたとも。普通というものをあまり知らぬ0組は、少なくとも今回の0組は、その手の甘やかしに大変弱かった。お菓子をくれる大人はすべからく神だ。マザーだってきっとそう言うに違いなかった。そんなマザーのお菓子が一番に美味しいのだから。 でも、僕はどうしたらいい。 ああ、気付いてしまった、気付いてしまったんだ。 頭を抱えて机に伏せる。ひどい頭痛がした。それは比喩でも何でもなく、純粋にその通りの意味だった。どくどくと心臓が訳もなく脈打ち、理性と肉体が反発しあうかのようだ。 どうして、何故こんな事があるのだろう。好きな人、大切な人。思考の渦が体の内側で暴れまわり、脳裏にクラサメの顔が焼き付き離れない。こんな、こんな事が。 彼を見つめるほどにその歯車は狂っていく。歴史の裏側からその影は迫る。 そう、何故こうも胸が高鳴るのか、何故こうも心が軋むのか、その答えはもうこの手の中にあった。無暗にこの日を憎む理由は消えてしまった。愛していたから、愛しているから、ただそれだけの事だった。 ああ、自分であって自分でないもの、忘却の彼方にあって漂白されていないもの、魂の奥底は至極冷静に喜ぶ。 ――もう、なにやってるんだか。正直あまり似合ってないぞ、隊長。そういうのあんたがやると滑るんだよ、景色と台詞の乖離が酷くて理解が追いつかないんだ。せめて笑え。真顔で言う事じゃないだろ。まったく、かわらないな。 自分の中の何かが彼を知っていた。奥底で光るものがある。この心を捧げるべき相手が誰であるかを、それを喪い焦燥に駆られていたことを、確かに知っていた。知っていたのだ。 そして彼は、きっとより多くのことを知っている。 0組の事も、エースの事も、おそらくこの中の誰より理解しているに違いない。その証拠に、最後に一つ残ったチョコレートは特別仕様だ。チョコボとトンベリが手を繋いでいる。ああ、そんなの、紛う事なき本命じゃないか。 知っている、彼を知っている。それ以上に彼がよく知っている。彼は、他の皆が喪った記憶を保持しているのだ。魂の一番きれいな所にしまい込み、女神の目を搔い潜り、いいや違う、それでもよかろうと目溢しされて、ここにいるのだ。 それは確信だった。だって、そうだろう。 凍った心が解けていく。甘い香りの中に広がる歓喜と苦み。出会えた奇跡と忘却の罪と血濡れた歴史と。 しかしそんなものは、いつかの話だから、どうか今は。 いまこの世界は、最後の巡より少々穏やかで、もしもの巡より少々危うい。それは螺旋の内を巡る、想い募る世界。 ゆるゆると顔を上げる。澄んだ翡翠が煌めく。クラサメが声を出さずに唇を動かした。 ――エース。 ああ、彼はたしかに、そう唱えたのだった。
世界がいくつ廻っても、僕らの魂は惹かれ合う。 歴史がどれだけ血に塗れても、変わらぬ光が此処に在る。 僕はあんたを、あんたは僕を、ずっとずっと、愛している。 知っているよ、よく、知っている。
好きだよ、クラサメ。世界が何度繰り返しても、その度にあんたが死んで、僕が何度忘れても、この言葉に偽りはない。 だから、だから――。
溶けてゆく、解けてゆく。甘い想いが胸に広がり、そして。
[ 77/118 ] [mokuji]
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