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空に溶けた別れの言葉-2



か細い音を立ててドアが開いた。その静けさに、顔をそちらに向けずとも全員で無い事が分かる。
「ねぇ仁王。ブン太はどうしたの?」
幸村はベッドから半分身を起こし、瞳には空を映したままで抑揚なくそれだけを告げた。
「そんなの、お前さんが一番よく分かってるじゃろうに」
対して答える仁王の声も淡々としている。彼はドアが閉まってからそこを一歩も動かず、しかし真っ直ぐ幸村を見つめていた。そこに丸井に向けたような優しさは欠片もない。それこそ射抜くように苛烈な、しかし波立たぬ冷徹さを秘めた視線だった。
「そうだね、知ってるよ。とってもよくね」
そんな視線を受けても幸村は全く動じない。相変わらず独り言のようにぽつりと言葉を落とすだけだ。
「自分の事も、知ってた。三日よりもっと前から結果なんて出ていたんだから」
まぁ出なくても何となくそんな予感はしてたけど、と幸村は声に笑みを含ませて言う。仁王は何も返さなかった。ただ只管に無言で彼を責めるのである。
なぜ、と。
「ブン太に結果が出た事を教えたのが三日前。俺が結果を知ったのは更にその三日前。ケーキを食べさせてもらって、見送ったその後。ああ最悪だよ、浮ついた気分も台無しじゃないか。ブン太がいる時でなくてよかったという見解もあるだろうけど」
幸村の瞳は、やはり高く澄み渡る青を捉えて放さない。雲一つない冬晴れ。穏やかな景色はあまりにこの病室にそぐわなかった。光差すここは、しかし一切の光を遮断した空間だったからだ。窓の外で囀る小鳥の歌ですら、響く事なく翼をがれて地に墜ちる。
幸村精市、笑顔の奥に残酷さを秘めるその人によって。
「最初の一日は何故俺がとそればかりを考えた。次の一日は皆にどう言おうかと考えた。最後の一日はブン太について考えた。ブン太は泣いちゃうだろうね。どうしてなの幸村くん、って。可愛いブン太、でもそれはこっちの台詞だよ。泣きたいのはこっちの方だ。優しいブン太、俺の痛みを感じとってしまうんだろうね。あぁそれでも、それは俺の本当の痛みじゃないんだよ」
可哀想なブン太、俺はお前が鬱陶しくなってしまった。
同じ調子でさり気なく吐き出された台詞に仁王はぴくりと反応を示した。またそれと同時に幸村も初めて仁王の方を向いた。
その顔に浮かぶのは、まるで声の調子を裏切らない笑顔だった。
空恐ろしい程普段通りに、しかし色を一切無くした微笑で彼は告げたのである。
「だから、ブン太にとって最も残酷な方法を取りたくて仕方が無くなってしまったんだよね」
面白い悪戯を思いついた。それくらい軽く投げられた言葉は仁王の中で何倍も重たくなって、それから思い切りバウンドした。仁王としては、もうそれだけで貴様と胸ぐらを掴んでやりたいらくらいだった。それでも感情を出来得る限り殺し、ただ瞳の奥で炎を揺らす。幸村の奥でも揺れる焔。炙られているのは果たしてどちらか。
「これまでと変わらない態度でブン太には接した。何事もなかったかのように検査終了を告げたら狙い通り良い結果を勝手に信じ込んだ。誰もそうは言っていないのに、なんて調子がいいんだか。お馬鹿さんのブン太、彼を一日浮つかせて今日摘み取る。最初からお願いしていたんだよね、まずはブン太にだけに言って欲しいってさ」
幸村は自嘲を愉しみながら丸井を嘲笑した。そんな幸村を睨め付ける仁王。彼がどんな行動をとったのか想像するのは容易な事だった。
「なんて、言った」
それでも仁王は尋ねた。分かってくるせに、と幸村がクスクスと笑う。それが酷く不快だった。目を逸らしてやろうかとも思ったがここで屈するのは癪である。仁王の纏う空気が鋭さを増すが、一方の幸村はこの勝負に余裕を持て余しているようだ。
「皆ショックを受けちゃうだろうから、まずは誰よりも責任感が強くて兄貴肌のブン太にって。そうすれば彼が何とかしてくれます、それだけさ」
重苦しい仁王の詰問は、あっさり幸村の寒気がする穏やかさに角を削り取られてしまう。たったそれだけの一言だが、丸井に与えたダメージは甚大だった。それも当然の事である。それを分かっていてあえて、幸村はその言葉を選んで告げたのだから。
「医者がどう表現してくれたかは知らないけど間違い無く、態度からはっきりと伝わったはずだよ。面倒見がいいからね、たっぷり重荷を感じただろう。ブン太はこれから存分に苦しむんだ。皆がショックを受けるのは事実、だから自分がクッションにならないと。でもそれを告げられる程受け止められない。そんなふうに苦しんで苦しんで、悩んで、答えが出る前に俺は死ぬ。皆驚くだろうね。そして告げられなかったブン太は償いようのない更なる呵責に苦しむんだ。そうさ、ブン太は告げられないよ。一番ショックを受ける、クッションが必要な人間はブン太なんだからね」
神の子と謳われた彼の、あまりに不遜な発言。仁王は最早それを最後まで聞いてはいなかった。聞いた所でどうなるというのだろう。寧ろ聞き続けるという行為は自分の中の何かをごっそり幸村にくれてやるのと同じ事を意味するような気がした。
くるりと踵を返し、楽しそうにすら聞こえる声音を背後にドアへと向かう。
「幸村」
「なぁに、仁王」
「真田達は来ないじゃろ。俺が連絡して置いたからの」
振り向かずそれだけ告げると、幸村は嫌味を込めたとしか思えない形の礼を返してきた。思い通りにしてやったようで大変気に食わないが、そこだけは利害の一致をみているので仕方がない。
今ここで他の人間に幸村の病状を知られるのは都合が悪かった。医者を言いくるめるのは何とでもなる。あとは丸井の件だけだ。
仁王の脳裏に丸井の真摯な瞳が浮かぶ。幸村の非情な仕打ちに、そうとは知らず彼を思って凍り付いたその姿。
こんな奴のために、この事実を知ってもなお、彼はその苦しみを肩代わりしたいと思うのだろうか。こんな奴のために。
代わりたいと告げた彼のひたむきな想いはこのような形で裏切られた。病が幸村を変えたのか、病が幸村を引き摺り出したのか。どちらにせよ病が何かしらの引き金になっている事は間違いない。そして今、丸井は豹変した幸村の餌食になろうとしているのだ。
つい先程、仁王は彼の言葉に沈黙をもって返した。彼は慌てた様子だったが仁王が嫌悪感を抱いたという事は決してない。確かに彼の考え方は嫌いな人は徹底的に嫌うものであったのであろうが、それは仁王には当て嵌まらなかった。
仁王が気に食わないのは、その対象についてであった。だから繰り返し音にしない問いを投げかける。
なぜ幸村精市だったのか、と。
しかし今更どうにもならない話だ。自分は一歩出遅れた。そして紛れも無く彼らはお互いをかけがえのない相手と考えていたのだ。
ただ、思ったよりも神の子が脆かっただけで。
仁王は青白い廊下に一人、鮮やかな笑顔が光を失う様を思い返して俯いた。
自分がしようとしている事は果たして本当に優しい彼の為になるのか、その問いにすら答えを出せないまま歩くそこは酷く寒かった。





ひび割れた瞳で空を見つめる。何だこれは、どうしてこうなってしまったのか。映る色が黒いのは時間だけのせいなのだろうか、それとも。
丸井はぼうっとベッドの上から天井を仰いだ。その姿勢のまま一体何時間が経過したのかは分からない。そもそもどの様に自宅へ帰り着いたかすらも記憶にはなかった。ふらふらと目的を何一つ果たさぬまま、何時の間にやら通い慣れてしまった道を歩いた事。覚えているのは本当にそれだけだった。
それ程までに丸井の思考を支配する残酷な宣告。
幸村精市が、近いうちに覚める事のない永遠の眠りにつく。
その事実が鳴り止む事ないサイレンのように丸井を追い詰めるのである。頭の中では医者の言葉がもう何度も繰り返されていた。既に深夜であるのにも関わらず瞼を閉じる事が出来ない。閉じれば思い描いてしまうからだ。見たくもない、その様を。
丸井はふらりと立ち上がった。もう何時間も飲み食いしていない。普段からすれば考えられない事だった。一歩踏み出すと共に視界がぶれる。貧血だろうか、何であれ直接的な原因は明らかにエネルギー不足であろう。
と、体勢を立て直そうとした所でずっと放置していた携帯が軽快なメロディーを奏でた。真っ暗な部屋に流行りの新曲が空気を読まずに鳴り響く。不運な事にそれに驚いた丸井は途中であった試みに失敗して躓き、勢いよく膝をついた。膝にぴりりと走る痛み。そういえば帰宅途中に一度似たような事があったような気がする。その時に出来た傷を抉ってしまったようだ。
今はもう、その痛みすら切ない。
痛みを放置したままで、顔をしかめつつも携帯を手に取る。
「……はい」
『ブンちゃん、えらくへばった声やの……』
「るっせぇ……お前が起こしたんだろぃ」
それからコールに答えようとしたら、酷く掠れた声が出た。それに電話の向こうの相手が苦笑する様子が伝わってくる。普段のものより沈んだそれは、仁王のものだった。
『そんな事言って、本当に寝とったのかのぅ』
「……寝て、た」
絞り出した答え。ブンちゃん、と優しい声音が名を呼ぶ。仁王相手に嘘を付くのはやはり無謀な試みに終わった。だから仁王は労わるように、そして包み込むように名を唱えたのだ。それはどこか幸村がそうするときの響きと似たものがあった。
『ちゃーんと寝ないとだめじゃ。明日はブンちゃんに大切な話があるんだから』
「大切な話……? 何だよそれ」
突然の一言に胡乱げな口調で問いかける。働かない頭で紡ぐそれはゆっくりたどたどしいものであったけれど、仁王が丸井を咎める事はなかった。代わりに一言だけ簡潔に、丸井が心の底から求めたその台詞を差し出してきたのである。
『ブンちゃんが望むように結末を変えられるかもしれない、って話じゃ』
それは、この誰も望まぬ結末を捻じ曲げてしまうというもの。
「仁王、それ、本当に?」
『こんな時に詐欺なんて真似はしないぜよ』
理由も手段もその時には疑問に思わなかった。不思議な程その言葉はすとんと胸に落ち、そしてそれだけの会話が丸井ブン太をここへ呼び戻す。それに気付いた仁王がクスクスと電波の向こうで笑った。ほんとにブンちゃんは幸村部長が大好きなんじゃの、そう呟く声音が自嘲の色を含んでいたのは恐らく気のせいではない。
『明日の朝七時、ブンちゃんの家の近くの公園で待っとるぜよ』
促されるようにして丸井は時計に内蔵されたカレンダーを確認した。しっかり平日である。部活があるのは勿論の事、その時間から話していては最終的な登校時間に間に合うかすらも怪しい。いや、寧ろ。
「仁王、明日のその時間じゃ間に合わない……」
『勿論サボりじゃ。そんな事より大事なものがブンちゃんにはある、違うかの?』
その様、まさにしれっと。確かにサボりなんて二人にとっては今更であった。そう、今更そんな事を気にしても仕方がないではないか。そもそも明日普通に登校できるかすら分からない精神状態であるのに。
「……うん」
だからこそ頷いた。じゃあ決定、と仁王がその会話を締め括り、それにもう一度頷く。
『だからブンちゃん、しっかり寝る事』
「寝れない……」
『そういう時はホットミルクが一番ぜよ。ブンちゃん牛乳は?』
「牛乳は、好き」
『ならそれ飲んではよ寝んしゃい』
「分かった…」
仁王はお母さんよりお母さんみたいだ、そんな事を考えながら返答する。仁王の声のお陰で漸く飽きる程描いた最悪の情景は遠ざかりつつあった。
『お休み、ブンちゃん』
それを最後にその電話は切れた。つー、という機械音がどことなく心地よい。
そしてそのまま、語る者の居なくなったそれを片手に丸井は立ち尽くした。ものの数時間であまりに多くの事が起こったせいで、頭の中はぐちゃぐちゃだった。やっぱり高かったケーキ、待ち時間のロビー、突然の宣告。重量の差こそあれ、それら全てが丸井を縛る錘である。
ただ一つ、唯一の救いになりそうな深夜の電話を除いて。
丸井は立ち上がった時と同じ動作でゆっくりとベッドに腰掛けた。途端に襲いくる睡魔が嘘のようであった。
そのままそれに身を任せて目を閉じる。急速に消えていく音の中で見た部屋はもうただ暗いだけではなかった。窓の向こうにささやかな星空が見える。
寒々しい空に凍るように光る星は、あまりに頼りなくも確かにそこにあった。


*3へ続く*






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[mokuji]











 


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