惑星の音、流星の旅。
旅人は屋根の元を離れ、空の下を冒険する。屋根の元で待つ者は、離れた人を想いその場所を温める。時に儚く散るその人の息災を、糸を編むよう恋しく願いながら。 自由と切望。不平等だと思うだろうか。或いは注ぐばかりの愛だと感じるだろうか。それはある意味では真実だ。 しかし旅人は眠る場所を幾つか持っている事を、待つ者もまた空へ飛び立ち戻らなくなる事を、旅人であり宿舎である僕は何方も等しく知っていた。つまりそう、何方にしろ道を定めるのは己の意思に他ならない。両者の間に違いなど無いという現実を――否、それが織布のはためく様に翻る真実を、僕はよく知っていたのだった。
「ただいま」 その訪問は突然だった。事前の連絡もなければ、呼び鈴さえもなかった。当たり前のようにその人は門扉を解錠し、扉が閉まる時の鈴がからんと鳴って、それで初めて僕は彼女を振り返った。かけられた声は再会の喜びも旅の疲労も孕まず、ただ自然で落ち着いた色を纏っていた。 「おかえり、ステラ」 僕の声もまた透明なまま、その家族を受け入れた。うん、とだけ返した彼女はやはり迷いもなく長椅子へ沈み込む。腕の中でクッションが皺を寄せた。 ああもう。僕のお気に入りはあっという間にモンクの剛力でぺしゃんこになってしまった。これは後で糸を解き、綿を寄せ直さねばならないだろう。 「……アルス、また失礼な事考えてるでしょ」 「ん? ううん、ステラは力持ちだなって。それだけだよ」 「アルスに比べれば誰だってそうじゃん。素直に潰すなって言えばいいのに。面倒くさ……」 「言っても、ステラはそれを抱きしめるのをやめない」 「当たり前。これ、いい香りするし」 それはまあ、僕が定期的に中へポプリを仕込んでいるからね。 ステラが抱きしめている物は、言うなれば大きな香り袋なのである。調合してあるのは不安や孤独を和らげるためのハーブだ。僕自身と同じくそれを抱く彼女を見ていると、胸の奥がきゅうと鳴くような気がした。 まあ、実際に彼女が何を思い顔を埋めるのかなんて僕には分からない。案外、実家の香りだ程度にしか思っていないかもしれない。それを問うてみたことはないし、現実として僕と彼女は別の人間なのだ。それぞれに違う感性と価値観を持ち己の道を歩いている。 だからこの感覚は押し付けないとしても、それでも結局僕はクッションのあげる悲鳴を黙殺することにした。ステラがもう一度面倒くさと僕に言った。僕はそれがおかしくてくすくすと笑ったけれど、うん、彼女は何がおかしいのと思ったに違いない。これは確信のもとで、何故ってそう、ぺしりぺしりと尾が揺れたから。 さて、そろそろ彼女の紹介をせねばなるまい。名はステラ。彼女は桃色を纏うサンシーカーで、くっきりとした目鼻立ちとはっきりとした意思を持つ少女である。年齢は僕と殆ど変わらない。出会いはエリィを介してだったけれど、今や彼女は僕にとって血の繋がらない妹の様な存在だ。それも、もう共に生きる人を見つけて実家を出た妹なのだった。 そんな妹は、突然実家――つまり僕の元へ現れては、ただ寛いで帰ってゆく。皆慣れたもので、僕どころか萬里やちびですらステラを客扱いしなかった。 そう、客扱いはしないけれど、妹みたいなものなので。 「それで、ステラ。紅茶でいいの? ミルクや砂糖は」 「ミルクだけ。砂糖はいらない」 家族へお茶を出すのは大体いつも僕だ。だからと尋ねてみれば、こちらを見もせずにステラが答えた。暖炉に向かいぷらぷらと軽く脚を揺らす。まったく気ままなお姫様だ。 僕も人のこと言えないかな。家族に対する日頃の振る舞いを思い出しながらキッチンへ向かう。僕とステラは、少し似ている。 故に彼女の態度を気にかける事もなく、戸棚から手製の茶葉を選んだ。今日はアールグレイにしよう。ジャスミンの香りのもの。この間ハーブも加えたばかりで、鼻の悪いちびにも好評だった。柔らかな香りが、彼女の旅の疲れを少しでも癒してくれたらいいと思う。 「ん。あとは……林檎、食べるよね」 「え、それは別に」 「食べるよね?」 「……随分と推すね」 「ちびが、また大量に採ってきて……。あの子は何をしてもどこか豪快だから」 仕方ないなとステラが言った。声音は台詞を裏切り、仄かに喜色をのせて居間に灯った。すくりと立ち上がると僕の隣までやってくる。そして蔓で編まれたバスケットを取り上げて揺らした。中には林檎が六つ。 「アルス。この籠持てないでしょ」 「君ね、僕の事なんだと思ってるの……」 「モヤシ」 僕は何も答えなかった。無言で籠を受け取る。それは思ったよりも重かった。まあ、林檎がこれだけ入っているのだし、仕方がない。ステラがこれを軽々と持っていたのは彼女がモンクだからで、つまり僕の筋力が貧弱だからではない、はず。 そもそも、ステラは初対面の時酷い暴言を僕に吐いている。曰く、 ――ヒョロ。これで戦えるの? である。第一声でだ。君にそう見えるならそれもまた真実かもね、と僕は笑った。ステラはそれに、言いたいことがあるならはっきりと言え、なんて返事で僕を睨んだのだった。 そこからまあ、よくもこんな兄妹のような関係に落ち着いたものだと思う。僕らは互いに遠慮も配慮も何もない。気が付けば彼女は家にいるし、気が済めばまたふと出ていく。いつの間にかそんな日常が出来上がっていたのであった。 「ステラ、林檎は幾つ食べるの」 「ひとつ」 そう。簡潔に答えて僕は山から一つを取り、銀色の刃を添えた。その隣でステラが当たり前の様にまな板とナイフを取り出す。彼女もまた寄り添う人へ真心を差し出す立場にあるのだろうから、うん、安心して任せられる。 そんな僕の横、彼女は僕が二つに割った片割れに手を伸ばすでなく山から一つを掴み上げた。いや君、食べるのは一つって言ったよね。どうやら林檎の数え方が君と僕では異なるらしい。 奇怪な行動をとるステラが、僕を横目で見て舌打ちをした。 「うわっ、なんでそんな切り方してるの。時間かかるじゃん」 「え、だって可愛いもの」 「アルスって、私のお姉ちゃんだった?」 何を言っているのだか。僕は反応すら与えずに手元でまた一羽の兎を産んだ。 「べつに、同じ形に切らなくてもいいよ? ステラがしたい様にすればいいと思うけど」 「負けた気がするから、いや」 ああそう。結局それだけで、以降は二人で黙々と兎を量産した。林檎二つ分の命が皿の上で跳ねている。ステラに配膳を指示し、僕は茶を淹れて後から追いかけた。既にもうクッションは再びへこんでいた。あのね、綿が。ううん、言っても無駄なのは確認済みだったか。 「はい、どうぞ」 「どうも。アルスも、はい、どうぞ」 「え、要らないけど」 紅茶を差し出すと、代わりにとステラが皿を寄せてきた。二人で作った一皿は、いつの間にか大きな群れと小さな群れに分けられて存在感を示していた。つまるところ、これだけでもいいから食べろという訳だ。 「今日何か食べた?」 「食べてないけど?」 「何で生きてんの?」 「言い方酷くない?」 真顔でなんて事を宣うのか、この妹は。彼女はああ違うと己の額を軽く叩いた。ステラの言葉は気持ちが素直に現れていて、僕は嫌いではない。言いたい事は分かってるから、いいよ。 伝えたけれど、結局ステラは眉間に皺を寄せて僕を見た。 「分かっててそういう言い方すんの、きらい。つべこべ言わないで、この私が、わざわざ、アルスのために剥いたリンゴを食べなさい」 「いや、あの、僕本当に、」 「また倒れてエリィに心配かけたいの?」 「……わかった、わかったから。ねぇ、この半分でもいい? お願いだから」 僕のそれが半ば、いや、紛う事なき懇願であると彼女は気がついただろうか。きっと分かってしまっただろう。ステラは何とも形容し難い色を瞳に浮かべ、しかし何の表情も作らずに僕を見つめていた。問うような、内側に潜り込む様な眼だった。それでも彼女は何も言わない。僕の虚勢を全て暴いたりなんてしない。こんなに率直な性格をしているくせに、いっそ苛烈なまでの振る舞いをするくせに、彼女は心を土足で踏み荒らさない。 「――いいよ。今度来た時は、ちゃんとハンバーグだしてくれるなら。今日は座ってなよ」 「うん、ありがと」 君は、優しいね。 僕は紅茶へ視線を落としたまま、ぽつりと呟いた。彼女はバカじゃないのと返事をした。やはり視線は林檎へ向いたままだった。彼女の横顔、耳がほんのり赤くなっていたから、うん、やっぱり僕も見なかった事にしておくね。 事実それは優しさだった。分かっているのだ。今日の体調が普段より悪いことも、以前の訪問時より体力が落ちていることも。隠しようもなかった。ステラは、僕の寿命があと残り僅かであると知っているのだから。 しゃくり、林檎を咀嚼する。今の僕にはその程度のものすら食事と呼ぶに充分で、それでも一つ食べるには重すぎた。少しの無理をする。だって広がる甘さは幸福のそれで、ステラが口元を柔く緩ませるのが嬉しかったから。 果物を食べるには過剰な時間をかけてもう一片。その間にふと思い出して、小さな布を取り出した。赤と桃のそれを、包みもしないでステラに渡す。 「それ、あげる。この間もらった物のお礼」 「いいのに。でも貰う。ハンカチ?」 「そう。僕が織った布で作ったやつ」 もう一口林檎を齧り、僕は答えた。それは長い夜に思考を整理しながら編んだ想いだった。 暗く閉じた夜の帷の中、一人篭って物思いに耽るのが好きだった。窓から見える星が煌めいて、時に静かに雨が降りきしり、僕を包むあの時間。ここへ来てからは雪の方が多いけれど、白が後からあとから積もる様も、暖かな室内から眺めるならば贅沢な景色だと思えた。 「……夜にね。眠れずに思い出す事が多くて、胸が潰れそうになる。進む道が見えなくなって、振り返っても来た道がもう塗り潰されている、そんな夜がある。僕は昔より折れ難い自信があるけれど、何を信じ歩いて来たのか、何処へ行きたいのか、後悔と痛みで分からなくなってしまう事は未だにあるんだ。僕はね、そういう夜に、糸を編む。歩いてきた道を振り返りながら、そこに確かにあった光を紡ぐ。するといつの間にか布になって、織った時間と想いが形として残るんだ。そういう時間は苦しくて、同時に愛おしい。うん、日課という訳だね」 夜の帷。その内側は眠れぬ愚者の揺籠だった。悪夢が続いた。眠るのが恐ろしく膝を抱えた。今もそれは変わりない。けれど。 かつては孤独な夜だった。それは過去の物語に変わった。同じ屋根の元で暮らす者もあれば、旅立って行った者もいる。それは時に入れ替わり、僕の孤独をあたためた。 それでも。それでも、僕はその夜更けを好んだ。恐ろしくても、孤独でも、隣に愛があっても。 そっか、とステラが言った。うん、と僕は答えた。 「手を動かしてるのって落ち着くし、楽しいよね」 「出来たものを、こうして君が受け取ってくれたしね」 家族が出掛けている日に、一人帰りを待つ時。あるいは屋根の元から旅立った者が、空の下で駆け回っていることを願う時。想いは編まれ、形になる。 ステラにとって、ここが帰る場所の一つである事を僕は知っていた。彼女が世界に出たばかりの頃に色々と手助けをしたのが僕らだったからだ。僕はその事実を、未だこうして慕ってくれる現実を愛しく思う。彼女は惑星のように煌めきながら、自由に旅立ち、また此処へ巡りくる。僕は鍵を預け、光を灯して再来を待ち望むのだ。 僕もまた、ステラの星になれているだろうか。暗い夜道でも、仄かに照らす存在でありたい。微かな星光でも、僅かしか在れない流星であったとしても。 彼女の凛とした横顔の影にあるものを、少しだけ、知っていた。その強い心の柔い部分に、少しだけ、寄り添う立場をもらっていた。 彼女は僕の元から空の下へ飛び出していった家族だ。そして、僕の元へも帰り来る家族だった。それが事実と異なろうが、僕らは確かに兄妹なのだ。たとえとまり木だとしても。 そう、彼女の血縁者は旅団として世界を飛び回っているという。そんな彼女の実家として扱われている、その意味を理解している。心の拠り所である唯一無二の宝物と寄り添うステラだけれど、それでも、気軽にふらりと立ち寄れる場所は多い程いいから、だから僕は。 僕と彼女の間に血の繋がりはない。神に祝福された愛があるでもない。出会いは人を介してだし、第一印象が良かった訳でもない。 それでも、編んできた時間があり、妹のようなものなので。 「だからそれは、僕が君に向ける想いってことで。ね、妹のステラさん?」 「何それ重いんじゃないの、姉のアルスさん?」 「ねえ君、そこは兄にしてくれないかな……」 抗議に対し彼女は素知らぬ顔でハンカチを畳むに留めた。僕はやはり緩やかに笑んだ。それ以上の言葉は必要なかった。だってそう、僕らの間につまらない気遣いなど求められていないのだから。 柔らかな紅茶とハーブの香り。綿が偏ったクッション。桃の布、甘やかな林檎。満ち足りた世界だった。過不足のない閉じられた楽園だった。僕はそこを静かに温める。ぱきんと暖炉が呟いた。やはり僕らは何も応えず、揺蕩う時間を味わうばかりだった。 そう、ただ君がいてくれればよかった。きっと君も、僕――屋根の元で雨宿りができるならそれでよかったのだろう。その温度にどれほど救われるか、僕はよく知っていた。 彼女は旅人で、僕はそれを待つ者だ。 そして僕は旅人で、本当の世界は物語の中だった。 穏やかな椅子を僕はいずれ経つだろう。銀の刃で剥いた赤い果実。同じ手を赤く染め数多のものを摘み取るだろう。同じ分だけ、自分の中からも零れさせながら。 あと、何度。君をここで迎える事が出来るだろうか。君が次に訪れる時、僕はまだ己を保つ事ができているだろうか。きっとそれは難しく、けれどねえ、僕はそれを君に言い出せない。 連絡をすれば彼女はすぐにでも屋根の元へ帰り来る。終わりゆく姿から君は目を逸らしたりなんかしない。理解した上で見せたくないと思ってしまうのは、僕の我儘だ。君はきっと、面倒くさいと言うんだろう。そしてもしかしたら――君を泣かせてしまうかもしれない僕を、赦さなくても、いいよ。 「……ねえ、ステラ。また、来てね」 「当たり前。気が向いた時にまた、来るよ」 だからそれだけを願った。またここへ、僕の元へ。 君の訪れを僕は待つ。その気まぐれな女神の愛は、しかしいつもそこにあると知っていた。だから僕も、己の旅を続けられる。 君は惑星だった。煌めいて道をゆき、しかしここへ巡り来る君は、旅人である僕にとっても家だった。輝いて夜空に在るものと指を差される星。僕はその役目に就きながら、僕の夜空の惑星を家族と呼んだ。積もる夜の痛みも静けさも、太陽と惑星が入れ替わり胸に灯火を灯した。そんな時間を、愛していた。 「僕はね、君という家族をずっと、想っているから。だからね」 旅人は屋根の元を離れ、空の下を冒険する。屋根の元で待つ者は、離れた人を想いその場所を温める。時に儚く散るその人の息災を、糸を編むよう恋しく願いながら。 自由と切望。不平等だと思うだろうか。或いは注ぐばかりの愛だと感じるだろうか。それはある意味では真実だ。けれど、同時に。 「――だからね。また帰ってきて。それから、君はその物語を生きてね」 星は巡り、流れて消える。旅人は眠る場所を幾つか持っている事を、待つ者もまた空へ飛び立ち戻らなくなる事を、旅人であり宿舎である僕は何方も等しく知っていた。 つまりそう、何方にしろ道を定めるのは己の意思に他ならない。永遠なんかない。命は刹那で、物語は必ず終わりを迎えるものだ。故に両者の間に違いなど無いという現実を――否、それが織布のはためく様に翻る真実を、僕はよく知っていたのだった。
紡ぐ想い、織る物語。 君は惑星、僕は流星。 君はこくりと静かに頷いて、そして。
雪が降っていた。後からあとから降り続く白。音を奪う静寂の帷、薄氷の壁の向こうには手の届かない幸福がある。 家がそこにあった。知っている場所だった。けれど、見も知らぬ温度だった。名も知らぬ家族だった。そこにはかつて思い出があった。それは何もかも消え失せて、今やその屋根は他人のものと成り果てた。 久しぶりに帰った場所にいたのは、他の誰かで。尋ねた相手はもういない。帰郷の鈴の音はもう二度と響かない。星は流れ消えてしまった。君は空の向こうへ旅立ってしまった。 「――そっか。……死んだんだ」 ぽつりと溢れた。微かな声は、一瞬で塗り替えられて消えた。冷たい風が吹いていた。はたはたと、握った織布が飜るばかりだった。ひらひらと、編まれた想いが揺れるばかりだった。
[ 66/118 ] [mokuji]
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