万病に効くと君が言うので
久しぶりにひどい風邪をひいた。 これはつまり僕が普段から健康であるという意味ではなく、病気になるのは久しぶりだ、ということだ。その久しぶりというのは萬里のような数年単位の話ではなくて、半年ぶりだとかその程度のことを指すけれど、起き上がれる時間の方が少なかった幼少期の記憶と比べれば快挙だと思う。そう言ったら萬里に溜息をつかれた。うるさいな、お前と一緒にしないでよね。 結局のところ、体調を崩したのではなく風邪を引いたのだ。僕の体調不良といえば、弱い体に強いた無理が反動のように出た結果が殆どなのだけれど、今回は外的要因であり僕が悪いわけではない。そう言ったら威張るなと萬里が僕の眉間を叩いた。ひどい。だって本当の事だもの。ちびは泣いていた。これはうん、僕が吐いたせいだと思う。 そもそも、その依頼を受ける事を僕は反対されていた。強行したのは必要だと判断したからに他ならない。僕はこういう時に我が身可愛さに逃げる事を好まない――そういうの、君たちは理解してくれていると思ったけれど。帰ってきた言葉は、この馬鹿、だった。僕の方がお前より頭いいよ。 そう、これは必要なことだった。ウルダハ近郊に未だぽつぽつと残るスラムで感冒が発生したのだ。それは瞬く間に広がり、外壁付近の彫金工房にまで迫らんとしていた。そうなれば、僕が見逃しておける訳もない。納品を済ませて顔を出したついでに現状を聞いた僕は、ちびをそこに残して一人診察へ向かう事を決めた。一応僕だって医者の端くれだし、これは胸を張れるけれど、ウルダハで認められる錬金術師なのだ。ここで仕事をせずいつするという。ちびはだって、でも、と視線を彷徨わせた。そんなところにアルスが行くなんて、ミイラになりに行くようなもんだろ。ちびはそう言って、そのあと肩を跳ね上げた。そんな顔をするなら、うん、言葉は口に出す前に精査した方がいいね。師匠からお前へ、一つ教えてあげるよ。 耳を下げたちびをひと睨みで黙らせて、つつがなく僕は仕事を終えた。きちんと衛生的に処置をしたし、家族の暮らす家に病魔を持ち込む訳にはいかないと服なども全て即時洗浄した。けれど結局翌日の昼になると僕は全てを吐き戻して、揺れて歪む視界に高熱を出した己を自覚する羽目になったのである。 「なあアルス、大丈夫か? 大丈夫じゃないよな、俺なにか出来ることないか? あっ、お茶飲むか? 何か食べるか?」 「大丈夫だか――っ、ごほっ、ッう、」 「うわぁああアルス、血が、どうすんだこれ、萬里!」 止められなかったという気持ちがあるのだろう、ちびはずっと僕が眠る寝台の周囲を彷徨い続けていた。出来るならば一人にして欲しい、なんて流石に言えるわけもない。心配をかけた自覚は流石にあった。そもそもちびの声を黙殺したのは僕自身だ。君が気にすることなんてないと伝えたいのに、そんな長い文節を今の僕は紡げない。分かっている筈の萬里がこちらを静観するばかりなのは、身勝手な僕への戒めに違いなかった。 「ちび、おちつ、っぐ――んッ!」 お願いだから落ち着いて、静かにして。それすら咳に飲み込まれて音にならない。苦痛のあまり丸めた身体がびくりと震えた。指の間からぱたぱたと血が溢れていくのが心底不愉快だ。鉄の匂いが鼻をついてうんざりする。 繰り返しすぎて手を洗うのも嫌になってきた。食べれば吐くし、食べなくても弱い身体が耐えられないし、そうすると今度は血を吐くし。 咳き込む度に傷んだ内腑が足りない血液を外に捨ててしまう。それは吐きすぎたせいでもあり、純粋にエーテルの不足に因るものもあるだろう。病の影響を受けた身体が内側から軋み、凡ゆる不調を訴えて喚き散らす。荒れ狂い僕を飲み込まんとする星の荒波、その淵に立つ僕の器は、ふとした事で簡単に境界を超えてしまうのだ。罅割れた硝子の器。あぁもう本当に、鬱陶しい。 苛々と赤い手のひらを睨み付ける。思うようにならない身体が煩わしくて、いっそ砕き壊してやりたくなる。そっと萬里が果物ナイフを片付けた。何も音にしていないはずなのに、僕のそういうところを見逃してくれないの、お前は。 「極端なんだよな、アルスは。イライラするとすーぐそういう事するの、ほんと昔から変わんないのなー。意味ないのに」 「ッ、うるさいな……」 舌打ちを一つ。理不尽だなんて分かっている、そんな事。僕の態度は昔からこんな僕を知っている萬里への甘えでしかない。萬里もそれを分かっている。 その萬里が硝子の器に水を入れ、僕のところまで運んでくる。自分の手も赤く染めながら、握りしめた僕の指をひとつずつひらいた。ぽとん、ぽとん。透明な水にごく小さな赤い雫が降る。じわりと滲み、溶けて、萬里がそれを追いかければあっという間に濁る色が世界を塗り替えた。僕と違い完全な形を保つ硝子の器が、砕けそうな僕の吐いた色で穢れてゆくのが、よく、見える。 「ばん、り」 「なにー」 「それ……ッ、やだ」 「やじゃありませーん」 だってそれ、と僕はそこまで吐き出して、けれど続くはずだった音は全て赤くなった。最後まで言えなかった言葉を引き継いだ萬里が、僕と目も合わせずに否定する。 「きたなくない」 「――っ、」 「きたなくなんか、ない。あんまりしつこいと面倒見ないよー」 透明な世界を汚す罪悪感を、いっそ冷たくすらある台詞で切り捨てられる。合わない目線。そういう態度にこそ救われるんだから、本当に、僕も大概だ。 静かな声音に半ば脅されるようにして続く足掻きを飲み込んだ。僕は僕を斬りつける言の葉を数多持っていたけれど、それは萬里が遠くへ片付けてしまった。鈍く光る果物ナイフと同じ様に。 「どうにもなんないこと、気にすんのはやめな」 「……だって、っごほ、」 「だってじゃない。お前がそう思う本当の理由って何? お前がする事の結果で、俺たちがどうするのか、おちびさんとかがどう思うのか、考えな。それ、お前が望むこと?」 「っう、でも、でも、」 「はいはい、泣かないのー」 「泣いてなんか、ない」 「はー、強情っていうかさあ。なきゃあいいのに、馬鹿だなお前も」 「うるさい……、いいのか、悪い、のか。どっちだよ、ばか……」 泣くなとか泣けだとか、無理な要求を繰り返す相手を睨む。アルスは都合が悪くなるとすぐそれだ、と萬里が言った。僕はついまた舌打ちをして、そんな自分を嫌悪する。だって、でも、本当に悲しくなんて――ない。 身体が痛むのはいつものことで、息が苦しいのも普段と変わらないはずで。この器が終わりへ向かっていることなんか、とっくに分かっているから、だから、泣くようなことなんか何もない。 萬里が水から引き上げた手を二人分一緒くたに拭き、乾いた指を僕の目尻に添えた。僕はそれを濡らすこともできず、空回る音ばかりをぽろぽろ降らせる。 けれど、それでも、お前があまりにあたたかいから。 大丈夫と、繰り返すそばから崩れゆく虚勢の形骸。 「ほら、来いよこの嘘つき」 「――ぁ、」 黄金の太陽が、そんな僕の真実を見ていた。太平な海が、僕自身では認められぬものを受容せんと煌めいて、そうしたら、そんなことをされてしまったら。 硝子の器は机上へ追いやられ、僕らの間にもう邪魔なものはない。萬里が寝台に乗り上げたまま、思考を読んだかのように両腕を拡げた。だから僕はそこに飛び込んで、だって、こんな風に誘われたら抗うことなんか出来る訳がない。だから、これは仕方がなくて。 抱きついた腕の真実が、縋りついた迷子のそれだということを、最後の線引きで僕は認めることが出来ない。 「――ばんり。萬里……、萬里」 「はいはい、ここにいますよー。風邪を引くと心細くなるっていうし、いいんじゃないの? まあアルスの場合、我慢できなくなっちゃうだけなんだろーけど」 萬里はそれ以上何も言わず、ただ僕の背を撫でていた。僕も返事をしなかった。ただ名を呼ぶことしか出来なかった。呼ぶことで繋ぎ止めていたのは、千切れてなくなりそうな僕自身であったのかもしれない。 ――否。僕は大丈夫だ。我慢なんてしていない。限界の近い器は、それでもまだ鼓動を刻んでいる。まだ大丈夫。痛くなんてない。 繰り返す。繰り返し胸中で唱える自己暗示。砕け散りそうな夜にいつも隣にあった温度が僕をあたためる。だからまだ挫けずにいられる。だからまだ信じていられる。大丈夫だと、お前がいるから、まだ走り続けられると。 だって、認めてしまったらきっと、僕は赤を吐き出す傷を抱えていられなくなる。助けてと、決して音にしてはならぬ泣き言を溢してしまう。僕にそれは許されない。僕はあの幼い日から随分遠くへ歩いてきてしまったのだから。泣いてばかりでなどいられなかった。英雄は孤高であらねばならない。 故にそう、僕は一輪の百合だ。その供花は誇り高く咲く。 そっと、名残惜しくも温もりを手放す。一人で立った世界は酷く寒かった。けれど太陽が沈んだわけではないから、僕はまだ。 「おちついた?」 「――ん、ごめん」 「いーよ。でもそろそろあっちも相手してやんな。視線が痛いのなんのってさあ」 やれやれと萬里が肩を竦めた。促されて振り返ると、そこには憮然とした表情で腕を組む弟子の姿がある。黒と白の前髪から覗く翡翠の目が、ひたりと僕らを見据えて光っていた。 その、鋭さに。 「っ、あ、えっと……、ごめん、ぼく、」 「あ! いや、怒ってないから。アルスには怒ってない」 ひくりと身体が震えた。僅かに首筋へ残る傷跡が引き攣ったような幻惑に、強烈な自己否定を想起する。思わず反射で謝るのは、あの頃の癖だ。 そんな僕に気がついて、ちびの顔が斜陽の光を湛えて歪んだ。鏡合わせの僕と向き合った途端、それは隠されてしまう。温もりを取り戻した翡翠、荒波を抑えつけた水面。気を、遣わせてしまった。鏡の向こうの僕が、耐えきれずまた湖を溢れさせていたせいで。 あっさりと覆される言葉、溢れる流星。 「ごめん、ごめんな。怒ってない。大丈夫だ、なんもないから」 「……ん、僕も、――っ、」 ちびの無骨な指先もやはり僕の目元に添えられて、今度は本当に星の雫が枝を濡らした。差し出された止まり木はこれで二人分。それだけ余裕がないと見られているのだろう。本当に僕は格好がつかない。 こうなれば、救いようがないのはいつだって僕の方だ。 普段は可愛くも手のかかる弟子だけれど、内に飼われた真の苛烈さを知っている。その刃の手にかかった事があるからだ。鋭く熱く炙る炎のような痛みは、そう易々と忘れられるものでもない。 それは凍る翡翠、食い込む茨。 深く刻まれた傷の存在を意識した途端、あるべき痛みと負うべき記憶に、誓いを知れども身が竦む。そうすると怯えた意識は理性の手綱を振り切り、僕を置き去りにして雨を降らせるばかりなのだ。 強烈な自己否定と拒絶の恐怖に身を焼かれ、けれどその度に可哀想な程ちびが恐縮するものだから、震えを隠し息をとめるよう努めた。繰り返すほどに慣れて、普段ならばこれくらいの嘘なんて簡単につけてしまう、そのはずだった。 ――けれどねえ、体調を崩すのと病に侵されるのとは、勝手が違うみたい。そんな顔をさせたい訳じゃ、なかったのに。 慌てて両手を振るちびに、ごめんと告げようとして失敗する。代わりに飛び出すのは重い咳ばかりで、そこに喀血が混ざった事を誤魔化した。そっと手を握り、見咎めた萬里に開かれる。あぁ、もう。 そんな僕らの前、ちびは肩を落としてそこに居た。 「俺、何も出来てないなって、そんだけだ。アルスに怒ってんじゃない。アルスの力になれない俺のことが、嫌なだけだ」 「そんっ、なことない。林檎を摺り下ろしてくれたのもちびだし、洗濯物……っ、けほっ、」 「無理すんなよ、馬鹿アルス」 懐かしい言い回しで、けれど言い聞かせるように、ちびがそう宣う。僕は咳き込むばかりで、やはり返事は何一つ実を結びなどしなかった。 そんな僕の背を撫でながら、ちびの言葉は澱みない。 「俺でも役に立ってるって、そう言ってくれるのは嬉しい。アルスは嘘吐きだけど、これは違うって分かるし。でも俺が納得できない。俺は、どんな時もアルスの側にいたい」 いればいいじゃない、と視線に言葉を込めた。実際は喉がかひゅりと鳴って、萬里が差し出した水を飲むばかりだったから仕様がない。熱を持った喉をほんの一瞬冷まして降る、透明なもの。 そんな僕に二つの陽光が降り注ぐ。その片割れが苛烈な赤に染まっている。その赤は補色の光を湛え、混ざりゆく矛盾を溶かし内包していた。 「そいつみたいにっていうのも腹立つ、でも実際そうだ。いつ何が必要で、どうするのか。俺、学んでくるから。だから、」 だから、君はどうするの。 その先はちびも音にしなかった。ただ静かに燃える翡翠が僕を見ていた。僕はその熱に晒されながら、きっそれは僕の体温より焼けるようであるのだろうと、そんなことを思って見返す。茹だり滲む視界の中で明滅する翠の宝石は、意識の地平が溶けあい、その斜陽が暮れゆくまで僕を照らしていた。 黒く塗りつぶされる視界、白く染まる意識。 やがて僕の世界は入れ替わり、今ひととき夜の中へと降りてゆく。
ひとつ、ふたつ、みっつ。指折り数えるのは君が家を出てからの日々。十日が経ち、そこからもう二回も日が暮れてしまった。昼の麗らかな日差しは、これで三回目。君がいない昼食も、それからきっと、夕食も。 早く帰ってくればいいのに。僕はもう、大丈夫なのに。 ぽつりと呟く。それは僕しかいない家の中にぽとりと落ちて、誰にも拾われず雪のように溶けて消えた。萬里は納品に出かけている。僕が寝込んでいる間に溜まった分だから、行かないでなんて言えるわけもなかった。 ひどい風邪をひいて、回復してからもう三日。いまだ空咳が軽く残るけれど、それもあと数日で消えるだろう。体力を失った身体は微熱を纏い軽率に眩暈を引き起こすけれど、それもまあ、普段とさして変わらないと言えるだろう。 自分で処方して回ったのと同じ薬を飲み下し、病自体はもう消えた。その間付き添ってくれた萬里へ感染することもなくて、馬鹿は風邪を引かないという言葉が真実であることを再確認したりもした。 だから、もう大丈夫なのに。 また同じ音を繰り返した、その時。 「んー、ししょーは嘘つきだからな」 信用できないと笑いを含んだ低い声が耳朶を擽った。 夜が巡り、太陽が再び昇る。 振り返れば、そこには部屋の扉を開け悪戯に目を細める家族。 「――っ、ちび!」 「これはこれは、熱烈な歓迎幸甚に存じます、お姫様?」 「ふふっ、どうしたの、難しい言葉なんて使って。そういうの苦手だと思っていたけれど、僕の騎士様は?」 「俺だって勉強してるんですー」 急ぎ立ち上がり駆け寄れば、ちびの力強い腕に迎え入れられそのまま閉じ込められた。分厚い胸板は、短い期間であるというのに、出会った頃より随分と成長したと思う。 綺麗に腕の中に収まってしまう事に悔しさを覚えながら、煌めく僕の太陽を見上げる。今日は苛烈ではなくて、外と同じ麗らかな日和だ。うれしい。 「ねえ、お昼ご飯は食べた? 何か食べる? お夕飯も一緒に食べるよね。何がいいかな、ねえ、何が食べたい?」 「まったく、落ち着けよ。俺は逃げないって、ししょー」 「うそ。君はすぐ家を出ちゃうもの。今回だって、僕すごく待ったもの」 「拗ねんなよ、ちゃんと帰ってきたろ?」 「拗ねてない。別に、そんなこと」 最早嘘ですらないそれは単なる我儘で、甘えでしかなかった。アルス、と君が低く名を呼びながら耳を引っ張るものだから、僕は小さく声を溢した。満足げに翡翠が煌めいて、あぁ、なんて眩しい。 君はそんな僕を軽々と抱き上げ、廊下へ出て歩き始める。僕の部屋を出て、ちびの部屋を通り過ぎ、居間さえも素通りして。 起こりそうな展開を予想するも全てを裏切る航路に、僕は舟に揺られながら首を傾げる。 「ねえちび、何処へ行くの?」 「ああ。アルスが帰宅の扉の鈴にも気付かないってのは、やっぱまだ本調子じゃねえんだなって」 「いや、あの、ちび? それじゃ返事になってないでしょ。僕は何ともないけど。ねえ、お昼食べないの?」 「食べる。でもその前に、やることやってからな」 「やる事ってなに、君は待っててくれればいいんだけど」 「それじゃ俺が出かけてた意味がないだろ」 全く心当たりがない、会話が噛み合わない。ちびは僕を見ておらず、翡翠は何かを宿して燃えていた。何かを決めた瞳なのだけれど、それは悲壮な覚悟ではない。そしてそれは喜ばしい事なのだけれど、僕は経験として碌な事にならないと知っていたのだ。 「じゃあアルス、これ。他は準備してあるからさ」 そう、弟子がこういう顔をしている時は碌な事にならないと、僕は知っていたのだ。 「…………は?」 それでもたっぷり三秒も言葉を失った後、僕が返せたのは呆けた一音だけだった。浴室の脱衣所にぺたりと降ろされて、鞄からにょきりと取り出したねぎを右手に押し付けられる。何これ。ねぎ……ねぎだ。 「あの、ちび……これ、何?」 「見てわかんないのか? ねぎだ」 「ねぎ……ん、そうだね、ねぎだね。そうじゃなくて、え、何?」 これを僕にどうしろと。 肝心な問いは混乱した頭ではまるで像を結ばず、やはり僕らの歯車は致命的にずれたまま展開だけが進んでゆく。止めなくてはならない。この辺りで止めておかないと、本当にどうしようもなくなる。 わかって、いるのだけれど。現実はいつもままならぬものだ。 「ええっと、その、ちび? じゃあこれ使ってご飯にしようか。だからほら、」 「何言ってるんだ、んなのダメに決まってるだろ」 「へぁ…………」 どうして。僕は紡げなかった言葉を逃がし立ち尽くす。最早何も継げない僕と向かい合った弟子。ちびが真剣な表情のまま僕の襟元へ手をかけた。するりとタイが緩む。まって。おねがい、待って。 「なっ、なに、ねぇ、ほんとになにっ!?」 「服、脱げよ」 「ぇあ、えっ、」 いやだから、なんで! 困惑は言葉を解いてしまい、意味のない抵抗だけが僅かに空気を震わせた。耳に届く低音に僕は体ばかりを震わせて、往生際悪く壁際まで後退る。背中の扉をちびが押せば、浴室からもわりと湯気が溢れ出た。 そこにのる、生姜の香り。 「ち、ちび? なんかあの、東方の料理みたいな香りがするんだけど」 「生姜湯だ。準備、しといた。すり潰して混ぜた。あと鰹節。ねぎも忘れるなよ」 「そっかあ……」 立派な上腕二頭筋で僕を浴室へぐいぐい押し込みながら、ちびが爽やかに笑った。生姜だけならまだいいとして、なんで鰹節。意味がわからなかった。考えてみても、粉砕される素材の姿がほんの僅か脳裏を掠めただけだった。 「さあ、入れよ、ししょー」 「はい、るの。僕が、ここへ」 「そのために用意したんだから、当たり前だろ」 タイを解きかけた彼の手を押し留めるべく更に手を添え、ちらりと背後を確認する。うん、摺り下ろした生姜を濃く溶いてあるね。浮いてるのは、うん、鰹節だ。君の言葉に間違いはないようだ、中身の是非は兎も角としてね。 「ねえ君、僕の煮付けでも作るつもり……?」 「え、なんでだ?」 なんでって、そんなの、これは風呂というよりも。 生姜湯は確か、細かく刻んだ生姜を布の袋に入れ、それを湯を張った風呂へ沈めるものではなかっただろうか。あるいは生姜を溶いた湯を飲料として飲むものだ。 僕だったら、摺り下ろした生姜と林檎をマグカップへ入れ、沸かした天然水と蜂蜜を加えかき混ぜて作るだろう。場合によってはシナモンがあってもいい。こういうレシピを考え出すと止まらない――残念なことに、君はこの発想には至らなかったみたいだけれど。 しかしこれはもう、なんというか、僕を具材にした鍋だ。ねぎ、あるし。ねぎは確か、首に巻けとかそんな逸話があったような。正直これも食べた方が栄養になる気がする。結局僕はこのねぎをどうすればいいのだろうか。齧ればいいのだろうか。そのまま。それは、その、絶対に遠慮したい。 もう一度振り返る。やはり存在する斜め上にずれた東洋医学の成れの果てに頰が引き攣った。無理やり笑みの形に整え、違和感のないよう気をつけながら普段通りに首を傾げる。ついでにねぎが揺れてうんざりした。 「あの、何でこうなっちゃったの?」 「俺、アルスの力になりたくて。ドマで調べた。風邪を引いたら生姜とねぎがいいんだってさ。あと風呂に入ってあったまって、寝る」 「うん、それは間違ってはないんだけど。でも遠慮するよ。やり方違うもん」 「アルスはまだ体調戻ってないだろ。ならちゃんと治療して休まないとだめだ。風呂入ってねぎを食べれば治るってきいた」 「だからそれが間違っ、こほっ、」 軽く咳き込む。今ここで込み上げてきたものを殺せなかったのは酷い過失だ。案の定ちびが僕を睨んだ。最悪だ。 「ほら、治ってない」 「それはまあ、あの、そうなんだけど」 「だろ? 体にいいもん集めたんだ。だからほら、脱げよ」 「組み合わせ方がね、違――って、ねぇ!? 服破れるんだけど!」 「アルスが素直に脱がないからだろ」 「脱がないってば! ちょっと、もぉ!ッんの、馬鹿力……!」 ちび相手には滅多にしない舌打ちを浴室に響かせる。ちびの手が釦にかかり、僕は全力で阻止に動いた。あぁ、認めよう。その時僕らは完全に当初の目的を忘れていた。ちびは用意した計画を何としても貫こうとし、僕は何としてもそれを回避したかったのだ。 僕はエーテルを操作し、敵う訳もないその力関係の逆転を図った。察したちびの無骨な指が襟首に侵入し、ぎちりと布が鳴る。 「あぅ、ッ」 喉に食い込む苦しみに小さく喘げば、ちびがびくりと肩を震わせた。これで彼も冷静に戻るだろう、悪いけれど利用させてもらうよ。 敢えて耐える事もせず涙目のままちびを見上げる。当然手の力は緩めない。真っ直ぐかちあった瞳が困惑に揺らぎ、そして。 「あ、やべ」 「んッ!?」 動揺したちびが思わず込めた力が、ぶちりと糸を捻り切った。宙を剛速で飛ぶ釦。 「たっだいまあ〜腹へった飯なにぐへえ!?」 運悪く現れた萬里。その額にめり込む見慣れた釦。転がる猫。どんがらがっしゃん。最悪だ。 足元まで転がってきたのは、あの日僕の指を清めてくれた硝子の器だった。強い衝撃を受けた結果大きく罅割れ、砕ける寸前でその形を保っていた。僕とお揃いになってしまった、かつては完全だったその器。 ひらりひらりと刺繍を施したばかりの薄布が降りてくる。ぴちゃりと調合したばかりで床に垂れ流されたヘアオイルの中に墜落した。ハーブと花の香りが鍋のそれと混ざり、哀愁が漂うばかりだった。 僕は思わずそこに立ち尽くした。どうしてこうなってしまったのだろう。力なく握ったねぎを見下ろした。ねぎをそっと萬里の擦りむいた肘に当てる。エーテルを操作し、ねぎを通じてテトラグラマトンをかけてやった。ねぎを万能の何かだと勘違いしたちびが目を輝かせた。あのね、万能ねぎってそういう意味じゃないから。木の枝から杖を作る白魔法だから成立したのであって。何してるんだろう僕。 起き上がった萬里が酷く同情する目で僕を見た。ちらりと僕、ちび、浴室を見比べ、また金眼が僕に固定される。この僅かな間に起こった事を察したお前を、僕は尊敬するよ。だから可哀想なものへ向ける視線を僕に寄越すな。 「あ〜っとさあ。言いにくいんだけど。アルスお前、その服お気に入りだったな?」 「――え、」 萬里はやはり憐憫を視線に乗せたまま、釦が弾け飛んだ首元を指差した。鏡の方を向かい確認すれば、ざっくりと大きく胸元まで裂けている。千切れたタイが酷く切なくぶら下がっていた。 エーテルで縫い直しながら修理すれば、直らなくはない、けれど。 何もかもが想定外で、どうにもならなくて、何一つ理解できなくて、全部が統率の外で、もう、もう、もぉ。 「――っ、ぁ、」 「えっと、悪かった! アルスごめん! そんなつもりじゃ」 「あ〜ぁ、おちびさん泣かせてやんの〜」 「泣いてなんか、ない」 「いやお前思いっきり泣いてるかんね?」 「……っう、んぅ、うぅ〜!」 「ああもう、はいはい、泣かないの〜」 「んんー! どっちだよばかぁ!」 「おちびさんすごいねー、このぐずり方するアルス十年ぶりに見たわ」 「褒められてるはずなのに全然嬉しくない……」 僕は床に張り付いたままの萬里の腕の中へ飛び込んで、その胸にぐりぐりと頭をぶつけた。べしべしとねぎで叩く。なんだかもう、情けなくて、意味が分からなくて、無駄に涙が出た。多分熱も出ている。 はあ、と熱い息を吐く。気付いた頃には体に力が入らなくなっていて、萬里がよいせというじじくさい掛け声でそんな僕を支えなおした。もう何もかもする気にならず、全てを委ねる。 「あー、おちびさん。知識は正しく学べ? じゃないとこーなる」 「へい……」 「アルス、教えてやんな」 「……ねぎは首に巻く、らしい。生姜湯は、僕は飲む方が好き。刻んだものをポプリみたいにして風呂へ入れること、鰹節は使わない。何かを学んで試す時は、きちんと理由まで覚えるようにすること……」 「はい……」 「んで、ほんとは泣き虫のアルスさーん」 「うるさい……」 「お前、冷静なようでいて想定外に弱いのも、昔っから変わってないのなー。相手がおちびさんでも割り切る時はちゃんとしろ。本当は言い過ぎってくらい言える子だろー?」 「子って、なに……ばかにするな」 はいはいと萬里が僕の背を叩いた。はいは一回だろ、ばかにするな。僕は返事の代わりにねぎをぺしりぺしりと振った。制御を失った尻尾もまた、べしりべしりと床を叩く。 「えっと、ごめんなししょー。俺、上手くやりたかったんだ。元気になって欲しくて、それで」 耳を垂れさせ、ちびが隣に膝をついた。騎士が僕の手を取ろうとして、ねぎに気付き反対側へ回る。格好がつかない。 ちびの無骨な指先がまた僕の目元に添えられて、夜明けの空に残った最後の流星が枝を濡らした。 「――わかってる、から。ちゃんと。君の願いも、君の想いも。伝わっているから、ちゃんと」 「……あぁ」 「苦手なことは無理にしなくてもいい。でも挑戦しようという姿勢は好ましい。けれど知識は正しくたくわえて。どんな場面においても、その意識が君を守る」 「そうだな。その教え忘れないよ、ししょー」 「それに、僕は」 そこまでいって、ふらりと視線を彷徨わせた。気恥ずかしさが勝ちそうになるところを捩じ伏せる。言葉は音にしなくては。伝えようとせねば伝わらぬものがそこに在る。 「君のそういう素直に全部受け止めちゃうところ、可愛いと思うし、好きだよ、僕はね」 するほら、その翡翠が他のどの宝石より眩しく煌めくので。 昇った陽が部屋を明るく照らしていた。君がいない日を数える寂しい暗がりはもう存在しない。昼も夜も、僕の家族は此処に在る。 この騒がしくままならぬ日常を、僕がどんなに、どんなにか。 「本当はね、僕は。ただ君たちが隣にいてくれる、それだけでいいから。だから、」 だから、何を望むのか。後一歩勇気が出ず、僕はそれを音にしなかった。これは伝えてはならないものだ。だってそう、諦観という僕の弱さに他ならぬのだから。 終わりが来ると僕自身が認め、最期を看取って欲しいと乞う。すると途端に滑り落ちてゆく太陽を想う。海はただ太平に、しかし細波を僅か立てるのだろう。 だから認めてはならない。痛くない、苦しくない。僕は、大丈夫。故にそう、僕は一輪の百合だ。その供花は誇り高く咲く。 「さあ、食事にしよう。お腹、空いてるでしょ」 「きょーの飯、なにー?」 「んー、ねぎと生姜と鰹節」 頭の中を掻き乱した何もかもを小さな箱へ押し込んで蓋をした。わざとらしいまでに微笑む僕を、君たちは指摘したりなんてしなかった。 「だって、万病に効くんでしょう?」 振り返り、ねぎを振り、片目を瞑って見せる。 「あぁ、絶対元気になる。俺が保証する」 「正しく使えばねー」 家族が僕に応えてくれるから、その家族にまだ僕は応えることが出来るから、今はまだ。 立ち上がる僕を二つの太陽が支える。熱を出した身体に鞭打つ僕だったけれど、止める声はやはりなかった。ちびが少し手を伸ばして、萬里が静かに制す。うん、それでいい。成すべきも為さず、ただ存えることを望む僕ではない。 そして、それを知らぬ家族でもなかったのだ。 だから君たちは同じく微笑んで僕を見ている。どこか眩しそうに目を細めて、仕方のないものを見るように慈愛を滲ませて、罅割れた僕を見ている。 それは陽光だった。時に苛烈なそれは今はただ優しいばかりで、茹だり滲む視界を鮮明に彩った。煌めく翠と金の宝石が、星が瞬くまで柔く僕を照らしていた。 やがて僕らの世界は羽を休め、今ひととき夜の中へと降りてゆく。
[ 61/118 ] [mokuji]
|