黄昏に揺れる星雲
その人を見た時、正直失敗したと男は思った。 鮮烈でしかし昏い髪は赤。同じ色の瞳が冷ややかにこちらを睥睨していた。 「それで。随分なところに呼び出されたものだけど、ちゃんと報酬は出るんでしょうね」 砂都の路地の奥、襤褸が詰め込まれた荒屋のような倉庫。そこにそぐわぬ彩りを持ち、しかしそこに溶け込む闇色の衣で、彼女はまずそう宣った。つい無言で頷きながら、それでも顔を顰めてしまう。 これを一言で表すのなら、威圧感だ。視覚的に立ち昇って見えるような圧倒的なその覇気に、やはり男は失敗したと思ったのである。 もっとこう、傭兵としては使いやすい人員を寄越して欲しかったのだが。 しかし男が提出した要望は、まず何より腕っぷしが強く、それから、ああもうその先はいい。やる事をやってくれるのならよかろう、ここにいる時点で腕前は証明されているのだから。 「へ、へえ、勿論で。こんな別嬪さんが来るとは思わなかったんで、汚いところですんません。どこから相手に情報が漏れるか分からないんで、念には念をで普段の事務所から離れたところにしたんでさぁ」 相変わらず睨んでくる相手に対し、これでもかと下手に出る。男は元々そこまで気が強い方でない自覚があった。証明されているその素晴らしい腕前で、こちらの首が切り離されたら堪ったものではない。 「ふぅん。まあいいわ。それよりこの後すぐ行動と聞いたけど、そんなに急ぐならさっさと内容を説明して頂戴」 すると彼女は些か機嫌を向上させたのだから、まあ、こんなおべっかでも無いよりはましというものだろう。事実彼女は美人であったし、これくらいは言われ慣れているに違いないが、まあそれはそれ、賛美は多いくらいが丁度だ。 故に媚び、またへえと情けない返事をして後ろ頭を掻いた。 「ウルダハの裏路地を牛耳る一団に市民が誘拐されたんで、ご要人を連れ戻しに。相手の生死はどうでもいい。ちゃちゃっと殺れば終わり、単純なもんです。当然うちの連中も姐さんの下につけますがね、どうにもうちだけじゃ決め手にかける。相手が実力者を雇ったという噂もあるもんで」 人質を確実に救出し、同じような行為を繰り返して金品を巻き上げる悪質な集団をここで捕らえなければならない。失敗は許されず、その為にはギルドへ高い金を払ってでも実力の保証された統率者が必要であったのだ。 男が説明しきると、彼女はかつんかつんと机を爪で叩いた。血濡れたような赤い染料が恐ろしいほどよく似合っていた。 かつん、かつん。それは威圧だ。奏でられる高くて軽いその音は、しかし咎めるような響きを以て男に緊張を齎す。 「貴方ね。殺していいって、それは国からの指示なのかしら」 「そりゃあ、勿論。相手はもう何人も殺している極悪人で、情報より人命救助優先。今回冒険者を雇い討伐する事は提出済み、確認しませんでしたかね」 ぺろり、その旨が記された募集要項を広げてみせる。発行された依頼には公の印が押され、当然本物であった。 彼女が疑わしい顔のまま書類を指でなぞる。ギルドの役員、国の役人、それぞれサインの綴りを脳裏に刻み込むように。するりと伸びた美しい手が、その奥のものを掴み暴かんとしていた。 故に男は思わず身を震わせた。小さな身動ぎに相手が気付いたかは分からない。精査する瞳はただ苛烈だった。刺すような視線を浴びる紙。燃え落とさんとするが如く鋭い赤。 暮れる空を染める美しい光が、凛としてそこに在った。いずれ訪れる闇夜を感じさせるそれは、恐ろしくも綺麗な炎だった。見惚れたら火傷をすると知ってなお。 しかしどんなに睨めども、証書は紛れもなく本物なのだ。 彼女が溜息をつく。それは諦めたというよりも、見逃してやったと表現する方が相応しい重さをしていた。 「確かに、欲張れば命も財布も路地裏に溶けるんでしょうね。――ここは、そういう場所だわ」 まあいいわ、ともう一度彼女は言った。そう、それでいい。まもなく突入時刻なのだ。成すべきは成されなければ。 「そういう訳なんで。討伐の後あいつらの肥やした私腹は山分け、売るも配るも好きにしてくれりゃいい」 だから黙って働けと、つまりはそういう事だ。これは正式な依頼で、公の許可を得ていて、だからただ頷けばいい。 故に問う。 「この稼ぎに、命をかけるか」 そりゃあ、勿論。奇しくも彼女が継いだ言葉は、先に男が放ったのと同じ音をしていた。 彼女はやはり同じ台詞を紡ぐ。謳うように美しい声音が空気を振るわせ、荒屋を貫いた。 「――勿論、そうさせてもらうわよ」 赤い一対の黄昏が、冷ややかに熱く、闇の中で燃えていた。
その人を見た時、正直失敗したと男は思った。 夜空のような黒髪に散る彩りは花緑青。同じ色の瞳がただ静かにこちらを貫いていた。 「それで。随分と君たちは羽振りがいいようだけれど、そんなに切羽詰まった状況なのかな」 砂都の表通りから少し逸れた邸宅の、これから宴を催すかのような豪奢な客間。そこに馴染みすぎた綺麗なスーツの青年は、しかし望むものとは正反対の出立でそこに在った。 目の眩むような報酬、目を眩ませる豪奢な屋敷。中でも一等に格式高い椅子へ腰掛けそいつを値踏みした。小さくて、華奢で、白い。 彼の柔らかな問いに無言で頷きつつ、思い切り顔を顰めてやる。 「仕事はこのあとすぐだ。お前、そんな女みてえなナリで本当に戦えるんだろうな」 「ふぅん。君は自分が伝手を頼った先を信頼していないと、つまりそういう事なんだね。どうやら王宮の人間すら疑わなければならない程に、光明は君の手から遠いらしい」 「減らず口を叩くな、冒険者如きが偉そうに。黙ってこの俺に従え。傭兵は俺の駒だ。それがお高く止まりやがって」 「確かにね。今の僕は雇われの兵力にすぎない。でもそれが何だって言うの? 僕は君が出した要項を満たしたから此処に居て、君は僕が仕事と報酬に納得したからこの戦力を得た。ただそれだけの話だよ」 職人道具を持った、精々が学者にしか見えないその青年が淡々と言った。彼の嘲りとすら思える台詞はしかし凪いで、怒りの嵐をやり過ごされてしまう。 屋敷の威光でも己の威圧感でも征服されない、饒舌に沈黙する星。 そうするとやはり失敗したのだ。この役目を負う傭兵は熱く血を滾らせ、周りすら見えぬほど眩く、正義の威光で首を落とせるものでなければならない。 なのに寄越されたのが、こんな顔ばかり綺麗な人形では! 何としても成功させねばならない計画が潰える音がした。それを掻き消すように勢いよく机を殴る。奴はぴくりとも動きやしなかった。静かな星が試すように見つめてくるのが、くそ、そんな目でみやがって、そんな目で、そうだその顔で。 くそ、ともう一度怒鳴る。きっと先方も誑かされたのだ。でなければ何だってこんな事になる。 「何をしてやがるんだ、アイツらは! おいお前、金欲しさにその身体でも売ったんじゃないだろうな。女みたいに擦り寄ればさぞや――」 「さぞや、何かな」 その先の言葉は飲み込んだ。いいや、奪われたのだ。喉元に切先が据えられていた。華奢な体から考えられないような大剣が、皮膚を一枚切り裂いて止まっていた。 黒い洒落た衣装は長い外套に変わり、エーテルの波を受けはためいている。色はやはり黒。 そこだけが夜だった。眩しいくらいの豪奢なシャンデリアの下、確かにそれは星空だった。 「別にね、君が僕をどう解釈しようが知った事じゃない、どうでもいいよ。そんなことに拘うほど僕は馬鹿じゃないしね」 そう言いつつ、花緑青は酷く冷たい光を宿してこちらを睥睨している。 「けれどね、実力を信じられないのは問題だ。僕が王宮で仕事をしてそのままの格好で来ちゃったから、戦えると思えなかったんだよね? ごめんね。でもこれなら安心してくれたかな。うん、僕はちゃんと君の首を落とせるよ。信頼の穴から組織は瓦解する。君が信じてくれないのなら、僕の手は小さいから、その命を取りこぼしてしまうかもしれないし」 ――そうなれば困るのは君の方だから、うん、これも仕方ないよね? 彼は微笑んで剣を引いた。抵抗どころではない。部屋は完全に制圧されていた。揃えた腕自慢の戦士が、誰一人として動くことが出来なかった。刃を向けられた怒りがわかないどころか、奴に滾らせていた感情さえもが鎮火されていた。 穏やかだ、静かだなどとんでもない。こいつは強情で、柔らかな声音のまま人を殺せる者だ。はは、そうか。ならばそれでいい。仕事を預けるには充分だ。 「は、やれば出来るじゃねえか。最初からそうしておけよ」 にいと笑んで見せると、彼は無言で肩を竦めた。それから机上に叩きつけられたままの要項を指差す。 「相手は人質をとって立て籠もり、金品の要求を繰り返す集団だったね。これが初めての事案ではなく、過去いずれも対価と引き換えに人質は無事解放されているけれど、賊も救助に向かった冒険者も共に死傷者を出している。犠牲を切り捨て逃げてゆくので、残るのは死体だけ。当然尋問は出来ず、未だ組織の母体はその実態を隠したままだ」 「ふん、よく分かっているようだがな。情けをかけりゃ千切れるのはお前の胴体だ。国は捕縛ではなく討伐を決めた」 「話は聞いている。僕は国から推薦されて此処にきたから。必要とあらば罪人の首を落としてあげるよ。ん、それが僕の仕事だからね」 まるで今日の天気を答えるような気軽さで彼はそう宣った。それから、黒い革手袋に包まれた長い指が二つの名前をなぞった。一つはギルドの、もう一つは国の担当者の名前である。なにも負い目などないはずのその書類は、しかし全てを詳らかにせんとする光の下ではあまりに暗かった。 彼は光だった。彼は闇だった。夜空の人、その花緑青は凛と咲く星だった。 ならば、お前の掲げた正義を血濡れても振り抜いて見せろ。 故に問う。 「この信条に、命をかけるか」 それは、勿論。彼は柔らかな声で告げ、それからふわりと蕾を綻ばせた。やはりそれは場の空気から酷く浮いていた。 「――勿論、そうさせてもらうよ」 しかし開いた花弁は、紛う事なく毒花のそれであったのだ。
――さて、選ばれたのは誰の手による脚本か。その真実を明かすにも、まずは役者を紹介せねばなるまい。 最後の要である人質の男は、暗くて広い屋敷に閉じ込められていた。一人きり、監視も何もない。扉には施錠さえもされていない。そんな砂都の裏路地の奥深く、不用心を絵に描いたような舞台がこの物語の結末を飾るのだという事を、男はよく知っている。 まったく、そこはよく出来た檻だった。部屋の入り口は中央に一つ、それから左右に一つずつ。広間を対角に別つ階段を上がれば、その合流地点が男の座る椅子である。後ろ手に括られながら、男は来るべきその時を待ち侘びていた。 吹き抜けの高い窓から斜めに橙が差し込んでいる。反対側の窓から見えるのは藍。その黄昏の終わり、待ち望んだ演者たちは現れたのである。 左右の扉が同時に開いた。どちらも先頭に黒、後ろに多くの粗野な男達を従えている。人質を挟み綺麗な三角形を描く舞台、その二等の頂点で光が煌めいた。 右の扉を開けたのは鮮烈な赤。黄昏色の聖騎士が剣を振り抜き炎の瞳を燃やしている。 左の扉を開けたのは玲瓏な緑。花緑青の暗黒騎士が魔法を纏い星の瞳を瞬かせている。 「あら。悪党というには随分と透明な眼をするのね」 「ふふ。君も悪党とは思えない程迷いのない眼だね」 補色の光が薄暗い屋敷に灯って揺れた。見るからに覇者である二名が、抜身の刃を向けあって此処に存在している。 「へえ、悪党に悪と認定されるとは思わなかったわね。それは本当で、馬鹿みたいな嘘だわ。ねえ貴方、知ってる? 正義なんていうものはね、旗印で幾らでも翻るものなのよ」 「あはっ、そうだね。君が僕を悪と呼べども、僕が振り被る刃は変わらずに正義の名の下だ。うん、宝石の断面が煌めく様に、光は屈折し幾らでもその色を変えるんだろうね」 その場から一歩も引かずに両者は微笑みあった。道を尋ねるような気軽さで、しかし声音だけで相手を威圧しながら、名のりを上げるでもなく見えぬ傷を刻み合う。 「引く気はないみたいね、残念だわ――けれど。ここで貴方を見逃せば、次にこの砂都の闇に溶けるのは私自身。それが分からないほど、私は愚かじゃないの」 「君こそ、逃げる気はないみたいだね。君のような心の強い人は嫌いじゃないよ、僕はね――けれど。ここで悪人の首を落とすのが僕の仕事だ。信頼は守るよ」 構え、地を蹴る。それは同時だった。広間の中央で切り結ぶ二人。追いかけて雪崩れ込む二つの勢力。場は乱戦となる。 黄昏と花緑青の剣舞。火花散る赤、星瞬く緑。 盾と大剣が衝突する。飛び退り際に赤の聖騎士が美しい魔法を放つ。緑の暗黒騎士がプランジカットで距離を詰め、迫る魔法をソウルイーターで喰った。解かれたエーテルは星のように瞬き、闇夜を纏い聖騎士へ牙を剥く。黒と紫、シャドウブリンガーの大波。聖騎士がインターヴィーンで宙へ飛ぶ。黒の世界に羽がひらき、青が天井から部屋を染め替えた。それは確かに空だった。その向こうから黄昏の光。降り注ぎ、貫いてなお止まらない。地平の狭間に剣が突き刺さる。 「んう……っ!」 ブレード・オブ・トゥルースが暗黒騎士のブラックナイトを突き破った。彼は腕から肩へ深手を負い、赤を撒き散らし片膝をつく。彼女はその隙を見逃さず、瞳を赤く煌めかせた。 「甘いわね。――賽を振るのは、この私よ!」 「――ッう、まだっ、決まった訳じゃ……!」 げほ、と暗黒騎士が咳き込んだ。その頭上に裁きの光。奥義たるブレード・オブ・ヴァラーが神聖なる雷の如く轟いた。 黒の騎士が練ったエーテルの壁が消し飛んでいく。ダークマインド、ダークミッショナリー、ブラックナイト。全てだ。 光が弾けた。現れた世界には降り注ぐ星のように粒子が舞っている。肉眼で捉えられる程に濃いエーテルの煌めき。 それが銀河さながらに渦巻いてゆく。ぱりん、かつん。 微かな音の向こう側で立ち上がる、影。 「はっ、うそ、無事な訳ないでしょ――!?」 「甘いよ。――運命を紡ぐのは、僕の手だ」 その声はすぐ背後から。黄昏は滑り時が進む。床に割れた小瓶、空に星。強大な剣の魔法を紐解くのは彼の影身。その力を喰った漆黒の夜が、背後から微笑みと共に魔法を放つ。アビサルドレイン、それはまるで心臓をねじ切るかの如く。 「っ、はは! やるじゃあないの。いいわ、認めてあげるわよ」 「あはっ、光栄だよ。赤の騎士様は随分と情熱的なんだね」 相手の生命力を奪った暗黒騎士が、深い闇を纏い凛と咲いた。その向かい、潔癖なる騎士は獰猛な炎を瞳に灯す。 成る程。見たところ、戦力はほぼ互角だ。煽りあい、傷つけあい、疲弊していく。全くもって素晴らしい舞台だった。過剰でなく、均等であるという意味でだ。これなら――うまく、二人とも死んでくれるだろう。 この時まで、人質の男は己の脚本を純粋に盲信していた。しかし選ばれたのは彼の見た夢ではない。歯車が回り、舞台の幕は勝手に翻る。 「貴方、やっぱりそうなのね?」 「君も、やはりそのようだね?」 ならばそれが、私達の、僕達の、仕事という訳か。 広間の中央、二つの声音が重なった。途端、首が飛ぶ。ひとつ、ふたつ。追い駆けるようにまた咲いて、朽ちてゆく。 転がる頭蓋が、驚愕を貼り付けたまま床を赤く汚した。 「――……は?」 一方の人質は、椅子に後ろ手に縛られたまま間抜けな声で疑問を呈した。だって、こんなのおかしいではないか。 なぜ敵を殲滅するはずの傭兵共が、自分の味方の首を落としているのだ。なぜ草でも刈るように己の配下を摘むのだ。 聖騎士の純潔たる剣が、滾る炎の苛烈さで荒屋の徒党を殲滅していた。どうして、とそこの頭が命を乞う。 暗黒騎士の血濡れの剣が、しかし静謐な魔法で豪邸の徒党を殲滅していた。なぜ、とそこの頭が命を乞う。 振り向く光。やはりそれは、火花散る赤、星瞬く緑。 「どうしてって。この稼ぎに、命をかけるか。言ったのは貴方のほうでしょ。それはどっちの立場でも同じだわ」 「なぜなんて。この信条に、命をかけるか。問うたのは君のほうでしょう。それは何方の立場でも変わらないよ」 凛とした声だった。透明な囀りだった。しかしそれは酷く都合の悪い音色で屋敷に響いたのだ。 計画は上手く行っていた。今まで何もかもが順調だった。根回し済の国とギルドの協力者が、標的を送り続けてくれたからだ。騙し、戦わせ、殺し、金品を奪った。奪い甲斐がありそうな、実力の拮抗した二名を選出してもらい、後は疲弊するのを待つだけ。簡単な仕事だった。そのはずだった。 しかし今になって、獲物は狩人の目でこちらを見ている。 「私は冒険者ギルドで依頼を受けた。内部犯の通報と、人を騙して金を奪う徒党の殲滅がその内容だったわ」 「僕は国から直接依頼を受けて来た。内部犯の通報と、人を殺して金を奪う徒党の殲滅がその内容だったよ」 さて、悪党はどちらか。 二対の眼差しが暗い屋敷を制圧していた。睥睨する瞳。始めとは何もかもが逆だった。こんなはずでは、こんなはずではなかった。しかし間違いなく、失敗したのだ。 追うものは追われる側になった。かつての狩人は、今や切先を据えられた哀れな獣に他ならない。人質の男は真の意味でその立ち位置に座っていた。 「引き際を見誤り欲張れば、命も財布も路地裏に溶けるのよ。――ここは、そういう場所だわ」 「信頼の名のもとに約束したよね、罪人の首を落とすって。――これが、僕の負う仕事だよ」 吹き抜けの高い窓から斜めに橙が差し込んでいる。反対側の窓から見えるのは藍。その黄昏の終わり、夜の幕が下りる。倒れ伏す者、転がるもの。闇の中に黒々と赤が溶けていた。 世界には数多の物語があり、喜劇か悲劇かはそこで生きる者には分からない。俯瞰し統べる者の気概だけ薫らせようと、脚本は舞台の外側から演者を嘲笑うのである。 それを覆すだけのものを男は持たなかった。鮮烈なる光を、三人の捕虜はただ見上げていた。拷問の先に待つ終わりは、しかしきっと今程の恐怖は齎さぬだろう。そんな密やかな確信がひたりと胸に迫った。それは据えられた剣と同じ鋭さで余裕を削ぎ落としたのだった。 視線の先、主人公は華やかに咲く。ああそうだ、この物語は彼らの生きる舞台であった。それなら脇役に紡ぎ直せるものが有ろう筈もなかった。それでも彼らもまた描かれたものに過ぎない。ならばお前はこの世界をどう生きるというのだ。 稼ぎも命も、軽率に裏路地へ溶ける。荒屋も豪邸も、本質的な価値は変わらぬ。泡沫の夢だ。翻る栄誉と貧困。昇る陽はすぐに暮れ、夜の支配へ変わるだろう。 それをお前はどう生きる。
「持てる者、持たざる者。この世は不平等で歪だわ。それでも等しく持てるものが一つ有る。だから世界は美しいのよ」 「永らえる者、終わりゆく者。限られた時間と選択肢でも、紡ぐ詩と意志は僕自身のものだ。そんな世界を愛している」
音色が重なる。台詞は規定伝承にインクを滲ませ、運命の脚本を書き換えた。黄昏の世界を藍が染め替えてゆく。夜の世界、闇の中に瞬く仄かな光があった。溶けて混ざる物語。黄昏の空に星雲が揺れる。 心を燃やす赤と緑が、煌めいて地平に詩篇を紡いだ。 ああ。成る程確かに、我らは失敗をしたのだ。それはきっと、この道を己の力で歩むことを辞めた、あの日から。終わりは必然で、故にこそ彼らの舞台はまだ続くに違いなかった。
――ぱたり。牢獄の中、その男は手記を閉じ、やがて。
舞台は一つ幕を下ろしたが、終われば始まる世界がある。 道が途切れ、繋がり、人生という物語の交点に陽が沈んでいく。黄昏と星の出会う場所で大地は結晶を結び、運命はまた次の頁を繰るだろう。
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