星の偽証 赤の逆理…Resonance*
その日常が真実幸福であると知っている。 だから消え逝く刹那を永遠に愛そう。 星の偽証を暴く赤の逆理を、胸中に抱えたまま。
「ぅ、ん……ッ、ごほ、っ、ぅえ、」 床に咲く花。御しきれなかった痛みが赤く喉から溢れた。 壊れかけの器が軋んで音を立てている。そんなのは日常でしかなく、取り立てて言及する程の事でもない。けれど、今ばかりは。この時ばかりは都合が悪かった。 穏やかな屋根の下、いつもの居間で。大切な家族と過ごす時間に、それはあまりにも相応しくない。 「ごほっ、ぁ、う……ッ」 けれど痛みはいつも突然だった。儘ならぬ現実は容易く理想を切り裂いてゆく。 あぁだめ、だって彼が見ているから。そう思えども刺し貫く様な内腑の不調は消えてなんかくれず、せめてと口元に手を押し付けたまま蹲る。 ぱたり、ぱたり。誤魔化しようのない現実が鮮やかに僕の嘘を汚していた。本当に、不愉快だ。 そんな僕の元へ駆け寄る足音。 「……大丈夫?」 肩への温もりと共に、ちびの低く優しい声が降ってくる。大切な家族。いつも隣にある幸福は、今日も僕に寄り添う。 ほら、ね。絶対に心配させてしまうと分かっているから、今は都合が悪かったのに。僕の思惑なんて置き去りに器は壊れゆく。それでも嘘を吐こうとしている僕の方が、いいや、だって本当にまだ――大丈夫だから。 「………ッげほっ……、大丈夫……そんなことより掃除しなきゃ」 だから、これは嘘なんかじゃない。 全てを裏切り追加で込み上げたものを撒き散らして僕は嗤った。説得力なんて微塵もありはしないこの状況が、呆れるほどにおかしかった。 暗い感情を誤魔化してそのまま彼へ笑いかける。ほら、大丈夫だよ。安心して、お願い、笑っていて。 僕の強がりの先で、君は手元の布を振る。 「拭くものは持ってきた。あと、薬はこれだろ? ほら、ソファに座って」 こくりと言葉にせず頷いた。先んじて立ちあがろうとするのに結局上手くいかず、ちびに支えられたままソファーへ沈み込む。手の届く範囲に常備している一式で身の回りだけ清め、重い息を吐く。 手渡された薬を受け取り飲み下した。これで発作的な痛みは引いていくはずだ。 「――っ、ふ……」 強制的に整う身体の軋みをやり過ごす。後少し休めばまたいつも通りに笑える様になるから、いまだけ、今だけは僕を見ないでいて。 願いが届いたかの様に、ちびはあまりにも真剣な眼差しで床を睨みつけている。それがなんだか面白い。暫く見つめるうちに耐えきれなくなり、思わず笑みが溢れた。 「ふふ、そんなに強く拭いてたら床が抜けそう」 何かの仇であるかの如く床に乱暴を働く弟子を上から眺める。ソファーから立ち上がる事も出来ない僕は手伝いすらしないで、そんな揶揄を彼へ投げるのである。 「壊しても俺が直すからいいのー、……そんだけ冗談言える余裕あるなら大丈夫だな」 掃除を終えて立ち上がった翡翠が僕を見下ろす。僕はその綺麗な色を見返した。森の色。その中に在れる事が嬉しくて、僕は感情のまま笑みを返す。 ちびの目がどこか――否、間違いなく観察する様子で僕に向いた。薬が効いてきたので僕は彼へ向けた微笑みを崩さず居直る。 「……もう少し待ってて、お茶でも飲もう」 どうやら信じてもらえたらしく、彼は後片付けをしながらキッチンへ歩いてゆく。僕はその背中を見守りながら、やはり溢れる喜びを隠しなんてしないのだ。 「今日は茶葉をいじめちゃだめだよ?」 繰り出した意地悪はそのまま愛だった。それを受けた君は少しだけ不本意そうな顔をして、しかしどこか自信がある様にも見える。前とは様子が違う。 「お任せあれ、お姫様」 そして両手を合わせた君を、うん、いいよ、信じてみるね。 僕はちびから一旦注意を逸らし、胸に手を当てて息を吐く。彼が慎重に茶葉を測っているのを分かっていて、見つからない様こっそり、懐から別の錠剤を取り出して素早く煽った。 念の為、これは念の為だから。まだ本当は大丈夫なんだけれど。 体の不調は日増しにその存在感を増してゆく。薬を増やさねばならぬ程に、効果を強めても足りなくなる程に。それでも、一人で暮らしていた頃よりも生活はずっと楽になった。 苦しくてたまらない時、すぐに助けを差し出してもらえるこの環境が有り難かった。我儘を言うのなら一つだけ。あまりに頓服を繰り返すからちびが薬の効果を覚えてしまって、それが本当は少し痛手だって、そんな身勝手があるくらいで。 落ち着いていく鼓動に力を抜き、僕は改めてちびを伺い見た。 前お茶を出してもらった時は、そう、煮凝りカモミールティーだったと思う。彼がそこからどれだけ成長したのか、楽しみであり怖くもあった。そんな何気ない日常が、愛おしい。 ふわりと家の中に満ちる茶葉の香り。これはそう、アールグレイとオレンジのフレーバーティーだ。ストレートが一番美味しいのだけれど、ちびは大丈夫かな。そもそも、これがフレーバーティーって事にも気付いてなさそう。君って本当に嗅覚が鈍いんだもの。 「お待たせ致しました、お姫様」 失礼な思考へ沈む僕の元へ、トレイを持ったちびが訪れる。僕はそれを誤魔化す様に、少し拗ねた表情を作り彼へ向けた。 「待ちくたびれちゃった」 どんな反応を示すのかその挙動を楽しみにしながら、まずは開幕で一撃。すると君は意地悪に笑んで、 「でも、楽しみに待ってるお姫様に見惚れちゃってさ。茶葉をちょっといじめちまった」 そんな反撃を寄越してくる。もう、ずるいと思う。そんな風に言われたら、もう僕は君に勝てない。 「……さて、騎士様が僕の為に用意した紅茶を出してもらっても?」 悔し紛れのそんな台詞なんて、きっと見透かされているのだろうけれど。 そんな僕の様子をそれ以上指摘する事もなく、ちびは恐る恐るといった様子でカップを並べ始めた。僕は澄ました顔を取り繕って顔の熱を冷ます。向けた視線の先に、可愛らしいティーカップ。 「ミルクティーにしたから大丈夫、なはず。どうぞ……」 はず、なんだ。少し思ったけれど飲み込む。どうしてもちびの事を揶揄いたくなってしまうのは僕の悪い癖だ。あまりにも素直な反応を示すものだから、その表情をもっと引き出したくなる。 そのちびは僕の目の前に一式を並び終え、隣に座る。彼は判決を待つ囚人の様に僕を見ていた。 どこか畏怖を滲ませる視線に応えるべく、まずは一口。 ……思ったよりも全然、大丈夫かも。 相応の覚悟をして臨んだ割に、そこにあるのはありふれたミルクティーだった。しかしそれは、家族が僕へ向けてくれた唯一無二の愛だ。それを僕は知っている。 彼がそこまでどれだけの努力をしたのか、その優しい甘さが物語っていたのだから。 「……ん、美味しいよ」 だから僕はその愛を、そのまま彼へ注ぐのだ。 「良かった、練習した甲斐があった」 ちびの緊張した面持ちが崩れ、眩しい笑顔が咲く。愛しい君。子供の様な反応は出会ったばかりの頃を彷彿とさせた。 僕はそんな彼へまた少しの意地悪をする。 「でも次はストレートで、お願いね」 「善処しますヨ」 なにそれ、おかしなちび。 告げられた努力予定はまるきり巫山戯た響きを持っていて、僕は思わずくすりと笑った。どこにでもある穏やかな時間が僕らを包んで揺蕩う。紅茶の香りが安らぎを連れてくる。 アールグレイ、オレンジ、それから優しいミルク。溶ける砂糖。 それが残り香に近くなった頃、ちびの視線が再び僕へ向いた。 「身体はどう?」 耳朶に触れるその声は優しく、柔らかく。 彼が何気なさを装ってくれた事が伝わってしまったから、僕もまた日常のそれを君に返すのだ。 僕はちびに寄りかかっていた姿勢を正し、まっすぐその翡翠を見返した。 「大丈夫、もうどこも痛くなんてないし、苦しくもないよ」 嘘なんかじゃない。これは、本当。だってまだ薬も効く。 頑なに意地を張る僕の隣、君は思い切り伸びをして、 「ん、なら良かった。じゃあ、ゆっくりしようー」 そう、仄かな優しさを口にした。 けれど翡翠は相変わらず僕を伺うから、やはり彼は正直だった。隠しきれぬ心配が滲んだ視線。あぁもう、君のその優しさが時に僕を追い詰めるなんて、君は知らないんだろうけれど。 互いに護るものがある。ちびもまた胸中で数多のものを捩じ伏せてきたに違いない。分かっている。そうさせているのは僕だという事もまた理解した上で、それでも僕はその一線を譲らない。 「本当に、大丈夫だから」 彼の翡翠を射抜き、再度繰り返す。大丈夫。痛くなんてない。苦しくなんか、ない。 想いを煮詰めた視線が僕へと向いていた。分かっている。それが愛でしかない事を、本当によく、分かっている。それでも、僕は庇護される事を望みはしない。ただ護られるだけの存在であるつもりなどない。 君にこの想いが伝わっているだろうか。最期まで、出来うる限り長い間、隣に立ち続けたいと願う僕のこの矜持を。それこそが僕からの愛だという事を。 例えそれで、君の願いを反故にしたとしても。 ――それでも、僕はこの道を征く。 僕の向かい、ちびが体勢を変えた。二対の翠が真正面から交錯する。強い光。逸らさない、だってこれは、僕が選ぶ道だ。 暫くの間そうしていた。実際の時間は最早分からない。僕は意地を張り続けるのに必死だった。この偽りを真実と思い込まなければもう立ってなどいられなかったのだから。そして。 やがて向けられる視線が弱まった。赦されたのだと知る。ごめんね。でもこれが僕の物語だから、譲れない。 漸く視線を伏せた先で、優しい君の手が僕の右手に触れた。緩やかに、確実に。存在をなぞられる様にゆっくりと指が絡み合う。 刻み合う鼓動。血潮の躍動。 指先から伝わる生命の証に、僕の体温は違う意味で上がり始める。身に纏った鎧が崩れていく。柔らかな心が顔を出す。 だって、君が。そんなにも大切そうに僕を繋ぎ止めるから、求められていると分からずにはいられないでしょう。 ねぇ、君。こんなに頑なな僕でも、甘えていいの。こんな僕でも、君は家族でいてくれるの。 ちびに抱き寄せられ、更に距離が縮んだ。大切な家族。僕の一番の宝物たち。僕を本当の僕に戻してしまう存在。 「……大丈夫、わかってる」 低い声が耳元に落とされる。肯定しないで。思わず身体が震えた。全てを包み込む鷹揚なその声は、僕の嘘を切なく揺らした。 分かっている。そう君が言う。僕の嘘も、僕の意地も、譲れない想いも。分かっていると君が言ってくれるのなら、甘えても。 「そ、それならいいけど」 伝えたくて出した声は、僕もまた少し掠れていた。鼓動もまだ整わない。言い表せぬ気持ちを昇華させるように手を握り返した。 それしか出来なかったけれど、それで伝わると知っていた。 寄り添い合う温もり。 「……しばらく、このまま抱きしめさせて」 ちびのその言葉はどこか懇願にも似て、僕はなす術もなくただ頷いた。その祈りをいずれ手折る僕の残酷さを、どうか赦して。 彼の儚い祈りを受け入れる。繋ぎ止めるように、縋り付くように――けれど、護るように。そう君が僕を抱くから、僕は。 大丈夫だよ、僕はまた呟いた。絡む温もりをそっと撫でる。大丈夫、大丈夫だから――まだ。痛くなんかない、苦しくなんてない。だから僕は大丈夫、まだ、あと少し、もう少し。 それは本当は嘘だった。けれどそれは真実の願いだった。繰り返すほどに苦く痛むそれは、現実に赤を咲かせるのだけれど。 ねえ君、あと少しだから、僕の傍にいてね。 密やかに願い、静かに瞼を下ろした。吸った息に混ざる君の香水、いまだ燻る鉄の味。喪失を恐れる君と、必ず置いて逝く僕。纏う百合は葬送の道辺に揺れる。終幕を悟りながら、永遠を願う君の隣で刹那に酔う。 この罪を、君が赦してくれるのなら、それで。
その日常が真実幸福であると知っている。 だから消え逝く刹那を永遠に愛そう。 星の偽証を暴く赤の逆理を、胸中に抱えたまま。
確かに咲く真実を、存在を以って此所へ刻む。
[ 62/118 ] [mokuji]
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