黄金に染まる風波…Resonance**
「っは、あは、あははは!」 少女のように軽やかな笑い声がリビングに響いた。その人が声を立てて笑うのは珍しい。それどころか、人を指差す様なんて見た事がない。 成程それは彼が日頃から失礼のないよう気を付けているからで、つまり彼にはいまそれを気にする余裕がないという事で……。 まあ、それも仕方がないか。俺はその原因に目をやった。家を出るまではアルスとさして変わらぬ身長だったはずのそいつが、立ち上がった俺とほぼ変わらぬ目線の高さで釣竿を提げている。 ひう、と笑いすぎたアルスが呼吸を狂わせた。泣く程笑えばそうもなるだろう。そんな彼の向かいで。 「はふ、あー、あっは、えっ? お前、えっ? なに、お前今まで子猫だったの?」 リビングのドアの前でアルスに指を差されている萬里は、金色の瞳で困ったように後ろ頭をかいたのであった。
萬里。お姫様の家で共に過ごす家族について、改めてその概要を紹介しよう。 年齢はアルスと同じで、身長は僅かに小さな家主よりも高く、体格は華奢なアルスより多少いい。瞳の色はオーシャンブルーで、髪の色は気分で変わる。 好きなことは食べる事。仕事は鍛治甲冑職人、それから漁師。基本は家で寛いでいるが、アルスがいいならそれで良かろう。 性質を端的に表すのならそう、刹那主義の薄情者で快楽主義。かと思えばそんな奴の中にも譲れぬものは一応あるらしい。優しさや拘り、それから僅かな独占欲を、時に無自覚なまま有しているのだ。 そんな萬里は見事な一般人である。実に不可思議なこの世界では、各々の歩む物語の外側で、同じ物語を歩む別の存在と出会う事が可能だ。だから俺は英雄。アルスも英雄。萬里は一般人。 俺の時間とアルスの時間、それから萬里の時間。それらは厳密には重なってなどいない。俺が英雄である俺の人生を歩む一年は、外枠で過ごすアルスには一月でしかないという事があり得てしまう。時間と、それに付随する年齢や能力は、常に変動するものなのである。 俺とアルスにはそれが当てはまり、俺と萬里でも同じ事が言える。しかしアルスと萬里ではその乖離が小さい。それは萬里がアルスが英雄である世界に合流したからで、乖離が無くならないのはあくまでも本来は異なる世界に生きる存在であるからだ。やがてその差は埋まり、一つになるのかもしれないが――。 つまり、例えば急に身長が伸びただとか、顔つきが精悍になっただとか、そんな事は驚くに値しないのである。ただそれだけであればアルスが笑い崩れる事はなかっただろう。現に萬里が大きく成長したのはこれが初めてではないと聞く。髪型なんて見る度に違うのが普通だし。 それでもアルスが涙目で震えているには、相応の理由があるのだ。 「え、おっそ。お前今なの? おっそ。あはっ、え?」 場所をソファーへ移し、アルスは未だ同じ台詞を繰り返していた。ひく、と小さく喉を鳴らして震える。そろそろ笑いすぎではなかろうか。 萬里を憐れむでなくアルスの脆い身体に気を遣い、ハーブティーを淹れ彼に差し出す。普段この手の役割を果たすアルスがこの様子で、萬里がそれに捕まったままとなれば、満を持して俺の出番というわけである。 ありがとう、とカップを受け取りアルスが微笑んだ。彼は小さな唇を縁につけ、綺麗に整った眉をぴくりと上げる。そこから顔色を殆ど変えず、しかし一息に飲み切り、優雅にカップを置き。 「ちび。今度、僕と一緒にお茶の淹れ方を勉強しようか」 「う、す、すみません……」 「いいよ。気持ちは嬉しかったからね、カモミールを煮立てて絞ったような独特の味わいだったけど」 それはつまり大変に残念な出来だったという事だろう。反対の手に残る萬里のカップを傾けてその地獄を覗き込む。恐々と一口。 「うへぇ……」 成程、野草を煮凝りになるまでに火かけたような、とびきりの青臭さである。 盛大に顔を顰めた俺の隣、いつの間にか立ち上がったアルスがするりと白い指を俺の方へ伸ばした。自然な動作でカップを優しく奪われる。アルスはそれも一息で飲み干して、ぱちりと片目を瞑って見せた。そんなもの飲むなでも優しい大好きだとか、様々な感情が胸中で渦巻く。しかし彼の振る舞いがあまりにも様になり、俺は何一つ言い出せない。 結局俺は無言の視線に促されてソファーへ腰掛けた。入れ替わりでアルスがキッチンへ消えてゆく。淹れ直してくれるのだろう。 いまいち据わり悪く手持ち無沙汰なまま、視線を萬里へと動かした。そこでかちあう、金。 「ぶっっは」 「おいおい〜、人の顔見て吹き出すなんて、失礼なおちびさんだなー?」 「そういうお前だって笑ってんじゃん」 「我ながら面白くなってきた」 顔が多少変わっても驚かない、そんな相手の何が面白いかと言えば、やはり萬里のその瞳なのであった。 生まれたばかりの子猫は青みを帯びた瞳をしている、とよく言う。そこから子供のうちに本来の色へ変化するのだそうだ。その幼い青をキトンブルーと呼ぶ。 萬里の背が伸びて体格が良くなり、その顔つきに精悍さが増した――同時に、目の色が青から金へ変わった。 それはどうしてもキトンブルーを連想させ、今更肉体が成人を迎えたという発想を得たアルスが笑い崩れてしまった訳である。 「――それにしても本当に、おっそ。お前何?」 漸く落ち着いたらしいアルスが真顔でリビングへ戻ってきた。可愛らしい盆の上に透明なカップが三つ、繊細なガラスのソーサーが一つ。彼はソーサーを机の真ん中に置いた。隣に飾られた白い鈴蘭が、ぽろりと歓迎するように咲く。 「はい、どうぞ。アイスティーだから熱くないよ」 その花より馨しく俺たちの百合が微笑む、この幸福。 配られたのは爽やかなレモングラスティーだった。萬里の瞳と同じ色。当然の様に美味しい。 「さて、萬里?」 その黄金に色付く液体を優しく揺らし、アルスの星が悪戯に瞬いた。俺は知っている、彼は家族の帰宅が嬉しくて堪らないのだ。今朝連絡が来てからずっと玄関を覗っていた。ゆらゆら揺れる尻尾が愛らしい。 素直じゃないやつ。構っての一言を要求できず絡みにいく天邪鬼を横目に、美しく爽やかな茶を口に含む。 「お前はこれにも砂糖が必要かな、子猫ちゃん?」 「はー、お前だって甘いもの大好きなくせによく言う〜」 「僕は好きなだけで、甘くないと飲めないわけじゃないもの」 「甘いものが好きってのが子供じゃないなら俺も一緒〜」 「でもお前僕より子供じゃん。お子様ランチ好きなくせに」 俺はその時までは半ば他人事の様な気持ちで眺めていた。いくら萬里が立派に育とうが、結局こいつは俺よりチビだし俺より年下なのだ。多少なんだ、これが大人の余裕というものである。 「でも、俺いま二十五よ?」 「えあっ⁉ 二十五⁉」 「はあっ⁉ 二十五⁉」 そう、萬里の一言が余裕を吹き飛ばす、この瞬間までは俺も冷静でいられたのだ。 それなのに、なんだって、二十五? 俺より上かよ。 俺とアルスの声が綺麗に重なりリビングに響いた。本人ばかりが余裕で、笑いながら後ろ頭に手を組む。 「年齢はちょっと前にアルスを追い越してる。そっから変わってないから、今回空けた時間は見たまんま。ただ体が追いついてなかったみたいでさー、いっぺんに来たからミシミシいってさぁー」 「んん、つまり年齢はゆっくりと枠の外で、それなのに身体は急に数年分枠の中で成長した……? 何があったの」 暢気な萬里に対し、アルスは急に真剣な面持ちになり口元に手を当てた。揶揄う様子は消し飛んで、場の雰囲気が一変する。この家の主は、どんな意味でもやはりアルスなのだ。 「見た感じ、基本的には成長したという範囲の中だとは思うけど。気になるのはお前の瞳くらいで。ただ萬里はずっと体躯の釣り合いが取れてない様に感じていたみたいだから――」 星が萬里の金を見つめ、体格を確認した。思案する様に長い睫毛の下に伏せられる瞳。 真剣に心配され始めた気配を察したのだろう萬里が苦笑して。 「別に大した事はなかったんだけどさ、エールポートの段差になってるところあるじゃん、あそこで誰かコケて上からどっさり偏属性クリスタルが降ってきたんだよな。うわーって頭庇ったら腕に触って、ぴかー! て光って、目を覚ましたらこれ。逆に俺が聞きたいね、俺なんかした?」 「偏属性クリスタル……それが何個も触れて、反応したって事でいいの?」 「多分そうなんじゃん? 目が覚めたらリムサのベッドの上だし、そこの人雇ってた業者が謝罪に来て慰謝料置いてったくらいだから、よく分かんないんだよねー」 予定通りの仕事をして、そこから不意の事故に遭い目覚めるまで一日。痛みが引き動ける様になるまでもう一日。この時点で予定を二日過ぎているが、そこからもう二日遅れて萬里は帰宅している。 「で? 遅れた理由は何なんだよ」 俺は両手を腰に当てて立ち、不届者を見下ろした。心配そうにしているアルスは気付いていないのだろうが、俺はそうじゃない。 何があったのかなんて予想出来ており、その上でわざと問いただすのは、心配かけた分怒られてしまえという単純な動機に因るのだった。だってあんまりにもあんまりじゃんか。 「えーっと? 貰った金額が丁度良くってさあ、ゴールドソーサーに行って軍資金尽きるまでパチパチっとね? そこから一泊して本日めでたく帰宅致しました〜」 「……は?」 途端、奴の目の前は氷点下になった。美人が怒るととても怖いという事を、弟子の俺はよく、それはもうよく知っているのだ。なんなら少し前までは普通に泣いていたくらいである。 そんなアルスの星の瞳が、昏く鋭く煌めいた。突き刺すように萬里を見る。しかしその凶器を突きつけられている側といえば、なんて事もなさそうに表情一つ変えやしない。 「そしたら大負けしちゃってさあ、困ったよねー。俺ってもしかして運が悪い?」 「お前の運とかどーおでも、どーおでもいいんだけど。ほんっと、何? 無事なのに遊んでたの? 人に心配かけながら連絡一つしないで? 体に影響が残っているかもしれないのに? は?」 「心配してくれたんだ? やさしーじゃん、アルス」 「うるさい。この大馬鹿、考えなし! 今日のハンバーグお前にはもうあげない!」 「えっ、今日ハンバーグ⁉ やりぃ」 全力で拗ね始めたアルスを他所に、萬里は両手をあげて本日の夕飯への喜びを表明した。俺はがくりと肩を落とす。お前は知らないからそんな無邪気に喜べるんだ。喉から疲れた声が出る。 「……萬里、お前の帰宅予定日から、ウチは毎日ハンバーグ食ってんだけど」 「あっ、ちび!」 「ん? 毎日ハンバーグだったの? 四日間?」 その意味がお前に分かるかこのクソ野郎。しゅんとするアルスを見ながら毎日食ってた俺の気持ちも分かれよこのクソ野郎。 俺は萬里を軽く睨んだ。すると奴はにっかりと笑んだのだから堪らない。 「なにそれサイコーじゃん! それなら早く帰ってくればよかったわ。毎日アルスのハンバーグが食べれるなんてさあ!」 「もーっ、ばか! 萬里の馬鹿!」 俺はこれ以上落ちる余地もない筈の肩をさらに落とした。アルスは真っ赤になって、怒りと羞恥で萬里の胸を叩く。こりゃ今日もハンバーグだな。嬉しさを隠せない横顔。それも仕方がないか。だって、彼は本当に家族が大好きだから。 「それで、何。その間体に違和感とかはなかったって事、それだけ呑気に遊んでいられたなら」 「やー、むしろ今までになくいいね。思ったように身体が動くってさー、こんな感じなんだな」 顔の熱を冷まそうと意識したような声でアルスが問う。そのあからさま努力を指摘する事もなく萬里が両手を握って答えた。あれは気遣いではなく阿呆なだけであると俺は思っている。 その阿呆の幼馴染兼家族は更に身を乗り出し、ずいと金を覗き込んだ。咄嗟に目を逸らさず笑って覗き返せる奴は、きっと心臓に剛毛が生えているに違いなかった。単なる診察の一環とはいえ、距離感がおかしい。 「ふぅん、そう……」 少々戸惑う俺を他所に、アルスが低く呟き口元に手を当て黙り込む。彼がああいう声を出すのは思考に沈む時か怒っている時。彼がこの仕草をするのはやはり思考中か、あるいは吐きそうな時。体調は悪くなさそうだし、まあ、結局は萬里のことが心配で仕方がないだけなのだった。つまり過保護である。 その萬里が肩を竦め、俺に向かい片目を瞑ってみせた。あまりにも様になり腹が立つ。アルスも然り、この二人は自分の見目がいい事実を自覚している側の人間に違いなかった。 俺は負けじと同じ仕草を奴へ返してやったが、悲しいかな、吹き出されてしまった。力みすぎたかもしれない。 ところで俺たち二人がこんな仕様もなく巫山戯ているのは、そうする他にないからである。俺は変顔を向けようと試みる萬里を無視してアルスへ視線をやった。真剣そのものの花緑青は星の様に煌めくばかりで、俺の翡翠とは交わらない。弟子も構えよ。こっちを向けと思うが、思うに留める。 「……ん、まって、つまりエーテルが」 ぽつり、柔らかな鈴の音で紡がれる思考。 こうなったら納得するまで言うことを聞かないし、邪魔をすると怒られるのだ。それを俺たち二人は身をもって知っていた。家の中だと途端に我儘になる彼は、例えるのなら俺たちのお姫様という訳だった。 その彼の瞳が瞬かれ、強く煌めいた。視線を戻した先の変顔。 「――ッ、何?」 「わ、ひでーの」 アルスが咄嗟に出ましたとしか言いようのない舌打ちをかました。向けられた側はまるで気にした様子もなく形だけ嘆いてみせる。やっぱ馬鹿なんだなこいつ。 この感想は共通であったのだろう、アルスが深く溜息をついた。同時に頭に手を当てて――その手を、萬里が制す。先を越された。この様子だと絶対に爪を立てると俺も思ったのだが、奴の方がやはり早かった。敵わない。 「どーしたの、イライラしてんじゃん。俺は何ともないよ」 「……なんとも、なかったからよかっただけで、」 僕のせいで、と呟かれた声は珍しく掠れていた。彼がたどり着いた結論は、彼が自身を非難するようなものだったのだ。 「アルスのせいじゃない」 正しく苛立ちの理由を射抜き、萬里がアルスの腰を抱いた。宥められている側は普段よりも低い声で、でもとまた繰り返す。 「でも。何ともなくない可能性だってあった。……たぶん、お前はエーテルがずっと乱れていたんだと思う。身体を巡るものが詰まっていたか、偏っていたか。結果的に成長が妨げられて、お前が思うお前の身体と現実との間に齟齬が生まれるから、身体操作が上手くいかない。それは僅かな綻びで、けれど器と魂を確かに隔てるものだ。それが今回エーテルの衝撃を受けて整ったという認識でいい。僕はずっとそばにいたのに気が付かなかった。お前にエーテルを分け与えてもらいながら、ずっと、気が付かないで、」 曇る星が伏せられ、彼の肩が震えた。俺はそんな彼の背をそっとあたためる。萬里がきつく握られた手をとんと叩けば、あぁ、それは緩やかに解れてゆく。 「俺も気づかなかった。なんともなかったし、何ともない。俺は笑ってもらうくらいでいーよ。爪は怪我するからやめな。ハンバーグ作れなくなるじゃん」 「……もう、下拵え終わってるし」 「明日もハンバーグじゃないの? 俺がいなかった分の四日間」 「ばかじゃないの……」 「俺は毎日ハンバーグでいいよー」 ばか、ともう一度彼は小さく呟いた。それは愛の告白と何ら変わらぬ響きで家族の間を満たした。責任感が強く思い詰めやすい星を、楽観的な黄金の太陽が照らしていた。 もう一つの太陽である俺は、やはり光を家族へと注いでいた。萬里の海原に溶ける金は俺とは違い穏やかで、でも俺の気持ちだって負けていない。家族を丸ごと愛している。 家族を守ると決めた。体だけじゃなくて、心も全部。 選択の責任は各々で負うこと。アルスがそれを己の責と思うのもまた、選択の末の結論なのだろう。 そういう事だろうと告げれば、彼はやはり小さく頷くのだ。 「これは僕のけじめの問題だから。ちゃんと、しないと」 その言葉と共に繋がれたままの手が淡く光る。花緑青の煌めきが萬里の全身をなぞる様にゆっくりと伝いはじめた。星が室内で瞬く。ささやかで神聖な光。 「なあ、アルス。なんか変な感じなんだけど、なにこれ」 「僕のエーテルを薄くお前に通してるの。お前に異常がないか診てるんだから、動かないで。今度は、ちゃんと。見落とさないようにするから」 「ぐわ〜、視線だけなのに擽ったい気がする。わあ〜」 「うるさいな、何?」 再度舌打ちをするアルスに、萬里がついに黙った。ふざけるのは一旦やめるらしい。 だってそう、煌めく星は酷く真剣だったから。そこに在るのが愛だと知っている。 「――ん。もう、いいよ。ごめん……、大丈夫みたいだね。ごめん、ごめんね」 やがて丁寧に診察を終えたアルスがまた深く息を吐いた。それは紛れもなく安堵からくるもので、彼がどれだけ己を責めたのかが分かる程だった。だからこそ萬里も大人しく従ったのだ。 「いーよー」 代わりに繰り出した台詞はそれだけだった。労わって頭を撫でる手は優しく、ただ穏やかに花を愛でていた。 俺はただそこに居て、その穏やかな空気を守った。そっと彼の肩を後ろから叩く。するとアルスが俺を振り返り、それから萬里へまた視線を戻した。それからまた振り返る。思案する瞳。 その意味を察して、俺は彼より先に口を開くことにした。 「んで? 萬里、俺より年上ってどういう事だよ」 アルスがいまだ浮かない表情のまま、こくりと頷いた。俺は単純に聞き捨てならぬ話の説明が欲しく、アルスは心配事の種を全て潰しておきたいのだろうと思われた。 ああそれ、と返す萬里の語調はあまりにも軽く、 「アルス、お前昏倒してた時期あるじゃん。何週間も意識が戻らなくて、家に帰れるまで一月かかった。あの朝から暫く、本当に状態が危なかった時期があったんだろうなー。アルスが世界から離れかけたから、俺たちの道も少し解れた。その間にね」 しかしその内容は、あまりに重く。 俺は声を上げかけ、しかし生唾ごと飲み込んだ。視線を伏せたアルスの顔からは表情が抜け落ち、星ばかりが昏く煌めいていた。 何故と問いたかった。けれど絶対に彼は答えをくれない。頑なに俺の方を見ようとしない姿勢が全てを物語っていた。 もしかしたら、きっと、やがて。俺もその道を辿るのだろう。 沈黙する彼と喉が凍りついた俺。萬里ばかりがからからと笑っていた。大丈夫だって。そう放り投げるような台詞はしかし陽光の温もりで冷えた居間を照らす。 「えっとー、アルスがぶっ倒れてた一ヶ月は、俺にとって数年だった、て話。俺とアルスの世界線が一緒になってからすぐの事だったからなぁ、アルスの時間はこれだけ過ぎたって分かるのに、俺の時間もまた別で動いてんのね。頭おかしくなりそーっていうかさあ。多分そのあたりの振れ幅も大きかったっていうかー」 色々やった、と萬里が長い指を折って数え始める。 「鍛治に甲冑、それから漁。斧と鎌もある程度は? たった五年ちょっとでかなり頑張ったと思うよ?」 奴はにかりと得意気な笑みを浮かべ、わざわざ体勢をずらしてアルスの顔を覗き込んだ。鬱陶しくさえあるその仕草はしかし嫌味ではなく、黄金が緩く花緑青と混ざり合う。 ああ、とどめをさしたのだ。太陽が音もなく的確に星を貫いた。 それは痛みを伴うが紛れもなく優しさだった。外に出してしまえと、耐えてなどいなくていいと。だから潤む瞳が包まれ、溶けてゆく。 英雄ではない、家族であるアルスの、本当の悲鳴。 「……っ、確かに……、萬里は急にいろんな事が出来るようになったなって思いはしたけど。お前、何も――いわない、から」 アルスの声は酷く弱々しくリビングに降った。虚勢はもう瓦解してしまった。最早彼が吐き出す台詞は嗚咽と相違なく、後半は震えて先を紡げない。 「いーよ、気にしなくて。俺も別に気にしてなかった。アルスが帰ってくるの分かってたし。そしたら深刻になる事なんか無いじゃん?」 沈む光、揺れる星。再度萬里の手が頭を撫でると、あぁ、ぽろりと星が降る。耐え続けてきたのだろう心が決壊し、溢れた。 俺は何も言わず、静かに泣くその人を想った。 倒れ伏して過ごした間に、大切な人の中に積み重なった五年。家族が昏倒したままで、五年。 ほんの一週間ばかりの遠出が寂しくて捻くれた甘え方をした俺の家族は、その五年をどう受け止めたのだろう。そればかりは俺にも分からない。 俺だったらどう過ごしただろうか。少しでも力になりたいのに、そんな小さな願いすら叶わない。消えそうな灯火を前に何一つ手につかず、ならばせめて毎日顔を見に行くかもしれない。そこに生産性がないと理解して尚、その行為をやめる事が出来ない。 しかしきっと、こいつはそうじゃなかったのだ。ただ信じ――いや、無事を確信してただ自分にできる事をした。その心に一点の曇りもなく。それは萬里の強さだ。欠点であり美点でもある。 刹那主義の薄情者で快楽主義。それは真実であるが、決して彼の全てではないということくらい、家族だから知っていた。 「な、だから泣くなってー。アルスも分かってるだろ、例えアルスが居なくなっても俺の日常は何も変わらない。それが俺なんだし。だからアルスが気に止むような事なんか何一つ無くね?」 「いやそこは泣いて悲しめよ」 「えー、そりゃ寂しくはあるけど、泣き喚かなきゃいけないもんでもなくない? おちびさんはそれこそこの世は地獄って反応するの想像できるけどさあ。俺は自由気ままに生きてるワケ。今日は今日、明日は明日、どーにもなんない事はどーにもなんないんだからさっさと諦めて次! だから俺の人生にお前たちが責任取ったりなんかしなくたっていーよ」 さっきの話も、いまの話も、どっちも一緒。萬里が言う。その価値観は俺と大きく異なるものだ。しかし大切な家族は同一の星。そう、こいつも俺と同じだ。 出てくる言葉は酷く冷たく感じられたが、アルスを撫でる手は優しく、金の瞳はあたたかい。家族を大切に思う気持ちを、なぜだかこいつは自覚していないようだけれど。見ればわかるのにな。 アルスはその間一言も喋らず、ただ萬里の肩に顔を伏せていた。いいよ、と萬里がもう一度言う。 「そんなに気にするなら、次は生きて帰れないとか言わないようにすればいーじゃん。な」 「……うん」 ぽつりと小さく頷くアルスに、俺もまた言葉を飲み込んだ。 それは当然言ってやりたい事なら山程あったのだが、今この小さな背中にぶつけるなど出来なかったからだ。 きっとそれぞれが己の中で何かしらを消化して生きているのだろう。言えないもの、言わないと決めたもの、伝える為に選んだ台詞。その全てに苦渋がついてまわる。 それが理解出来る様になったという事は、俺もまたかつてより大人になっているのだ。大切なものを失い、雪を踏み締めて進んだ。そして帰ってきた俺を静かに抱きしめたアルスもそう。 そして萬里も。 であれば、俺の役割は何だろう。俺はこの家族たちへ何をしてやれるだろう。考え、それから。 ところでさあ、と俺は声を張り上げた。同時にぽすりとアルスの背を優しく叩く。意図を汲んだアルスが顔を上げた。もうその瞳に曇りはない。ああもう、相変わらず嘘つきな意地っ張りだ。切り替えが早いというより、己に対して厳しすぎるのだろう。 心を殺し、嗚咽を捩じ伏せ前を向く。それがどんなに痛くとも。 俺はそんな彼の強さに敬意を示すため、敢えて大袈裟に両手を広げ呆れを表明して見せた。さあ、日常へかえろう。 「なあ、楽しいと全部忘れんの、わかるけどさ。次はちゃんと連絡よこせよ。なんのためのリンクパールだと思ってんだよ」 「お、なーに、おちびさん俺を待っててくれたんだ?」 「ああ、待ちくたびれちまったんでね――もう俺、そろそろ違うもん食いたいだからな。お前の好物以外のもんをさあ」 「そ、その話はもういいから……! 今日は魚料理にするから!」 途端、アルスの注意が悩みから逸れたことが分かった。悩みも余裕も強がりも全部俺が吹き飛ばしてやる。それでいい、これでいいんだよ。 引っ掻き回して、道化さえ演じて、愛する者の太陽でありたい。 二つの太陽で彼を守る。一つの太陽とこの星を、俺が守る。その誓いに変わりなどありはしない、だから。 「まって、まて! 今日はハンバーグだって!」 「萬里にとっては今日はでも、俺にとっては今日もなんだって!」 「もう、わかった、わかったから! どっちも出すから、ね?」 るには充分すぎた。慌てた彼が白い指を此方へ伸ばしてくるのは、あぁ、この優越感はたまんないな。 笑っていて欲しい、そして出来るならば、ずっと皆で幸せを紡ぎたい。だからほら、俺たちでこの星へぬくもりを注ごう。 お姫様が不安に震えぬよう二つの太陽が必要だと言うならば、喜んで。 「じゃあ勝負な〜。勝った方の食べたいもんが今日の夕飯」 「は、乗ってやるよその勝負。あとで文句言うなよな」 賑やかさで居間を包む。さあ、笑って。喜劇を求めて金の海原へ飛び込んだ。水面に太陽が溶け込み星を包む。俺とお前、それから導の星が一つ。さあ、その煌めきをより多く得られるのはどちらか、勝負といこうじゃないか。 ぎいとソファーの木が軋む。勝負の内容は腕相撲。なんて他愛もない、そんな日常を愛している。まったく、やっていることはいつまでも子供だな。 変わりゆくものがあり、変わらないものがある。 俺たちは既にそれを知っていて、もうここには優しさしかないから、だから。
隣の机上、透明な器の中。 黄金に染まる風波が、たぷん、と優しく揺らめいた。
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