柔らかな温もり |
この日も、ロイエンタールが自邸にたどり着いたのは、すでに11時を過ぎた頃だった。律儀な執事にねぎらいの言葉を掛けられ、軍服の上着を預ける。日頃はそう感じたことのない軍用ケープの重さから解放され、張りつめていたものがふうっと溶け出すのを感じる。 少尉に任官して以来、軍務に追われ家に帰れぬことなど、それこそ日常であったのに、ここ数日の自分の疲弊具合はなんたることか、とロイエンタールは自嘲した。 −−俺も年を取ったと言うことか・・・・・・。 もし、このロイエンタールの心の言葉を、レッケンドルフなどが聞いたならば、滅相もないと目を丸くしたことだろう。それくらい、現在のロイエンタールは多忙であった。そして、その一つ一つに対する責任の重さが、以前には比べるべくもなかったのだ。 「閣下はいつ、帝国宰相におなりになったのですか?」 うずたかく積まれた雑多な書類を仕分けしながら、レッケンドルフは苦笑しつつそう口にしたことがある。平時下における統帥本部総長の仕事など、たかが知れている。しかし、現在ロイエンタールが差配する案件を見渡してみると、軍事を離れた民事や財務関係など多岐にわたる。現在のローエングラム王朝には置かれていない帝国宰相の位であるが、その任に当たっているのはロイエンタールだと、身近で補佐するレッケンドルフは痛切に感じるのだ。 −−閣下が軍服を脱がれる日も、そう遠くはあるまいな。 一抹の寂しさを感じながら、有能は副官はそう確信するのだった。 とにかく、ここ数日のロイエンタールは多忙を極め、同じ屋敷に起居しながらも言葉を交わすこともほとんど無かった。3歳のフェリックスは仕方がないとしても、エルフリーデまで自分を待たずに寝てしまっていることに不満を感じたのはほんの一時期、今ではいつ帰るとも知れぬ自分を待たせているよりも、先に寝てくれている方がありがたかった。 「もう寝たか?」 「はい、もうお休みです」 そして、 「旦那様がお帰りになるのを、ずっと待っていらっしゃったのですが・・・」 と、付け加えた。 「そうか」 素っ気なく答えたロイエンタ−ルだが、その口許がわずかに緩んだのを、執事は見逃さなかった。顔を会わせれば言い争いをしているような夫婦だが、その実、深い愛情で結ばれているのだ。 それにしても、と主人思いの執事は思う。いつまでこの忙しさは続くのだろうかと。どんなに遅くなっても、この屋敷に戻ってくる主人に、少しでもその疲れがとれるように心を配っている。もともと職業軍人などをしているだけに、肉体的な疲労には強い方である。しかし、それだけに、表面からは窺い知れない精神の疲労はいかばかりだろうか。家族の時間すらも持てないロイエンタ−ルに、せめてもと、執事は語る。 「若様は、お優しくお育ちですね。今晩はこのようなことがあったのですよ」 ロイエンタ−ルは、ベッドに埋もれた二人の寝顔を見詰めていた。エルフリーデとフェリックス。ここは夫婦の寝室である。貴族の慣習を踏襲するロイエンタ−ル家では、子供は子供部屋で眠っているはずであった。 ロイエンタ−ルは、先程執事から聞いた出来事を想像してみる。 『ファーターがいなくて寂しいでしょ?』 『僕がファーターの代わりに、一緒にねんねしてあげる!』 『ムッター、僕がいるから怖くないよ!』 ーー寂しいのはどちらなのだか…… ロイエンタ−ルは上掛からちょこんとはみ出た、ダークブラウンの髪を撫でた。まだまだ赤ちゃんだと思っていたが、随分しっかりしてきたものだ。布団を少しめくれば、頬の丸みの可愛らしい寝顔がのぞく。目を瞑った顔は、まだまだ赤ちゃんだがな、と愛しい。その頬にキスして、ロイエンタ−ルはフェリックスとは反対側の上掛けをめくり、身を滑り込ませた。フェリックスと抱き合うように眠るエルフリーデを、起こさぬように背中からそっと抱き締める。白く細い襟足に口付けしようとしたら、腕の中の体がもぞりと動いた。 「……帰ってきたの?」 「ああ、ただいま」 「あ、フェリックス、動かさなきゃ……」 少し覚醒して、フェリックスが同じベッドに眠ることを思い出したのだろう。 「いや、よく寝ているし、もう夜も遅い。今日はいいだろう。それに、俺の代わりなんだろう?」 「ふふっ」 エルフリーデは数時間前の、可愛らしいやり取りを思い出し、微笑んだ。 「優しい子よ、この子は。誰に似たんだか……」 「俺だろ?」 「ウソ」 「俺だよ、フェリックスは俺によく似ている」 ロイエンタ−ルの腕の中で、エルフリーデの体がくるりと回った。柔らかなクリーム色の髪が胸に押し付けられる。 「そっくりだけど、駄目なところは似てほしくない……」 ーー俺の、駄目なところ………。 ロイエンタ−ルは内省してみた。そう言えば、昔はよくこうして自分自身のことを考えていたなと思い出した。それだけ今は、囚われていたものがなくなったのか、それともただ忙しいだけか。 ーーフェリックスに、似て、ほしくない……。 そこにポイントを絞って心の中を覗いてみると、思い当たることが多すぎて、愕然とした。 「何考えてるの? 明日も早いンでしょ? 早く寝なさいよ」 声と同時に胴に巻き付けられた腕の温かさに、ロイエンタ−ルの沈み込むような思考は消滅した。顎を擽る柔らかい髪を指ですき、エルフリーデの幼さの残る華奢な体を抱き締めた。血管や細胞の隅々にたまった澱が溶け出すようだった。身体中に張りつめていた緊張が解れ、暖かいものに満たされていく。 ロイエンタ−ルは、柔らかな温もりに包まれ癒されて、眠りについた。 〈おしまい〉 |