副官の心得(6)


レッケンドルフは振り返りトリスタンを仰ぎ見た。自分が三日三晩かかって血管を通した艦だと思うと、無機質な軍艦が愛し子のように思える。これでトリスタンは餓えることはない。いや、トリスタンが率いる艦隊も同様だ。
隣で同じようにロイエンタールもトリスタンを見詰めている。旗艦は下賜されれば司令官と命運を共にするのが通例だ。幾多の戦火を潜り抜け、司令官がめでたく退役すれば、旗艦もその役目を終えるが、そうでないときは……。
ーーどことなく閣下に似ているだろう?
似ているどころではない。トリスタンは閣下そのものだ。トリスタンを見ていたはずが、気付かぬうちにロイエンタールを見詰めていた。
ーー少しはお役にたてただろうか?
睡眠不足の彼の目に、ロイエンタールが微笑んでいるように映った。


演習から戻ってきた当日と翌日は休暇が与えられる。レッケンドルフは、これからの我が家となる官舎へ荷物を運び終えると、軍服のままベッドに倒れこんだ。三日分の睡眠を補って、目覚めたのはもう昼過ぎだった。取り敢えず、口に入れられるもので空腹を満たし、荷ほどきをした。一人分の荷物は簡単に片付き、日用品の買い出しに出掛けた。帝都は彼の故郷ではあるが、離れてもう20年近くになる。物珍しさにあちこちと歩き回り、官舎に戻った時には、もう暗くなっていた。
「あれ?」
自分の部屋の前に人影を認め、部屋を間違えたかと思った。しかし、振り向いたその人は、ここオーディンで彼が見知る数少ない人の一人だった。
「バルトハウザー中佐! どうしてこちらに?」
「いやぁ、卿の歓迎会をしようと思って、官舎に連絡したんだが通じなくてな。直接迎えに来たんだ。 これから大丈夫だろうか?」

連れていかれたのは宙港近くのビアホール。トリスタンの艦長やノール軍医の顔も見える。
「新しい我らが副官殿に乾杯!」
軍港近くの飲み屋らしく、中には軍服姿も多くいる。
「閣下にもお声をかけたのだが、所用がおありということで、残念だがと仰っていた」
シュラー中佐が言うと、一同から失笑が起こった。
「さすがに最前線の指揮官ともなると、お忙しいのですね」
レッケンドルフはミンネベルクに残してきた老司令官を思い出した。暇で暇で毎日何をして時間を潰すかに、頭を悩ませているような方だった。
「大尉」
呼び掛けられ、レッケンドルフは思い出に浸ろうとしていた意識を、目の前に向けた。なぜだか皆が自分を奇異なものを見るように見ている。
「それ、本気で言ってる?」
「ええ、はい」
何のことかわからないが、隣に陣取っていた艦長が「ま、おいおい卿にもわかるさ」と肩を叩いた。
「そう言えば、卿はミンネベルクにいたのだったな。そんな辺境にまであの噂が届いていれば、それこそ世も末だ」
ハハハと一頻り沸いたところで、ほどよく酔いの回り始めたレッケンドルフは胸に溜まっていた疑問をこぼし始めた。
「どうして小官だったのでしょう…。艦隊勤務の経験もない、それこそ辺境の補給基地の副官でしかなかったのに…」
「なんだ卿、聞いていないのか?」
こちらも顔を赤くした艦長が驚いたという表情で、ウイスキーを舐めるように飲んでいる。どうやらあまり酒に強くないようだ。
「てっきり、あのとき聞いていると思ったが。それ、閣下が卿に朝食を運ばれたときだ」
閣下が朝食を、というところで何人かが羨ましそうな顔をした。
「あのときは、特にそんなお話はありませんでした」
「そうか……。しかし、たまたま卿だったのではない。閣下は卿を選んで副官になされたのだ。もっと自信をも持つといい」
自分の精神状態をやんわりと指摘され、レッケンドルフは涙ぐみそうになった。例え艦長の言葉が自分を慰めるためだけのものであったとしても、ありがたかった。
「そう言えば、大尉。よく異動できたな。閣下が卿の異動が認められんと言って、一時荒れていらっしゃったが」
そうそうと何人かが頷く。レッケンドルフは僅か一月も経たないミンネベルクのことを、懐かしく思い出した。ミュンヒハウゼン閣下は自分の世話係として、レッケンドルフを重宝がり、異動願いを提出しても聞き入れられることはなかった、今までは。それが、今回に限り認められたのには理由があると、レッケンドルフは思っている。
「私も最初は驚いたのですが、実はミュンヒハウゼン閣下は、近々退役なさるらしいのです。それで私もお役御免になったようで」
「へえ、しかし、まだ退役まで数年あったろうに。ああいう御仁は死ぬまで地位にしがみつくものだと思ったがなぁ」
口の悪さは司令官譲りだろうが、この活気溢れる輪の中に自分もいることが嬉しかった。
「いえ、それが長らく離れていた恋人と、ご結婚なさるということです」
隣で艦長が酒を気管にでも入れたのか、むせ返った。そんなことにはお構い無く回りは盛り上がった。例えそれが見ず知らずの他人であっても、色恋の話題で盛り上るのが男というものだ。
「ミュンヒハウゼン閣下は、もういいお年だろう?」
「ええ、老いらくの恋だと、ご自分でも仰っていました」
「どんな相手だよ。そんなよぼよぼの爺さんと結婚なんてしようてのは!」
レッケンドルフは、ミュンヒハウゼンから聞いた話を総合して説明した。
「それが、とてもお美しい方なのだそうです。私が赴任する前に出会ったらしいのですが、その方は、司令官という地位と権力に靡きもせずに、ただ、一夜の慰みものになりたくないと言ったそうです。それで、閣下は今までの乱れた生活を改められて、その方が戻ってくるのを待っていたそうです」
「で、その美女が戻ってきたというのか?!」
「戻っては来られてはいませんが、最近になって連絡があったそうです。そこでご結婚というお話になったそうです。結納も交わされたということですので……」
「ブフッ」
艦長が酒を吹き出し、合わせたようにノール軍医が腹を抱えて笑いだした。
「もう限界だ。艦長! 種明かしをしてやれよ」
艦長は困った顔でレッケンドルフを見た。
「その老いらくの恋のお相手、どのような方か聞いているか?」
「はい。なんでも物凄い美人だそうです。故郷の昼と夜の空を思わせる類い稀な瞳が、印象的だったと」
レッケンドルフは常々聞かされていたことを口にしただけだが、彼の言葉は回りに衝撃を与えたようだ。
「昼と夜って、そりゃまるでうちの閣下のようではないか」
一同は説明を求めて艦長を見た。
「うちの閣下だ」
ああ、と、レッケンドルフは驚いた。今までの意味もわからず聞かされていた『故郷の空の瞳』が、今具体的なイメージとなって頭に浮かんでいる。昼と夜とは青と黒の金銀妖瞳だったのか?!
ーーしかし……。
レッケンドルフは感じた疑問を口にした。
「男同士で結婚などあるのでしょうか?それに、僅か四日ではありますが、ロイエンタール閣下のお側にいて、そのような話はお聞きしませんでしたし、そんな素振りも……」
艦長はニヤニヤ笑うノールにつつかれ、他言するなよと前置きしたうえで、あの時艦橋で交わされたロイエンタールとミュンヒハウゼンの会話の一部始終を話した。
「で、閣下は卿を結納代わりに貰ったという訳だ」
口をあんぐりと開けたレッケンドルフに、艦長は続けた。
「わかったろう? 閣下は卿の才幹を見込んで手元に呼ばれたのだ。自信を持っていい」
酔いが加速度的に回り始めたレッケンドルフは、「でも、そんな、男同士で」と、ぶつぶつ呟いた。それを聞き咎めたディッターズドルフが落ち着いた声で言った。
「ミュンヒハウゼン閣下が呆け始めていたこともあるだろうがな。だがな、レッケンドルフ大尉。うちの閣下に男も女も関係ない。閣下に惚れるのは女だけではないということだ」
ウンウンと頷いたシュラーが、言葉を継いだ。
「だから、俺たちは男だらけの軍隊の中で、閣下をどうこうしようという不届きな輩から、お守りせねばならん。大尉は副官として一番近くにお仕えするのだ。頼んだぞ」
勢いに押されカクカクと首を縦に振るしかないレッケンドルフを、バルトハウザーはジョッキ片手に酔いの回った目で見据えた。
「横取りされるなんて、真っ平御免だ。あの人は俺たちのもんだ………。俺のものになってくれればいいのに………」
とんでもない問題発言を聞いたように思ったが、周りはそれを聞き咎めていないようなので、レッケンドルフも聞かなかったことにした。
とんでもないところに来てしまったような、しかし、以前感じていた孤独感は今はなく、この喧騒も心地よい。ほどよく身体を冒し始めたアルコールのように、ロイエンタール艦隊の気風が、レッケンドルフに染み込み始めたような気がする。
閣下の御為になることに、全力で取り組むべし。
副官の心得を新たな気持ちで胸に刻んだ。

〈続く〉


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