夢みる男(side A-1)



 その日、ロイエンタールはいつもより20分遅れて登庁した。昨晩飲み過ぎたのか、それとも帰らないでと引き留める美女がいたのか、いつもの軽口で出迎えようと準備していたが、扉を開けて入ってきた姿を見て、そんな浮ついた気持ちは消散した。
「閣下、いかがなさったのですか?」
返事はなく、軽く頭を振ってそのまま執務室に入っていってしまった。
 本日のお迎え当番であるベルゲングリューン中将のほうを見やると、同じように頭を横に振る。おそらくロイエンタールの屋敷で今と同じようなやりとりがあったのだろう。
 ロイエンタールのこととなると、過保護なこと1・2を争うベルゲングリューンが、これほど顔色の悪い上官を登庁させることなど、本来ならばあるはずがない。特に今日は午後から定例の幕僚会議があるだけで、これといった急ぎの仕事もないのだから。
 となると、これはロイエンタールが忠臣の進言を聞き入れず、無理を言っているに違いない。
 レッケンドルフは、執務室の扉をノックし、いつものように朝の挨拶をし一日の予定を伝え、再度ロイエンタールに尋ねてみた。
「閣下、本当にどこかお加減が悪いのではありませんか?」
 ロイエンタールは机の上に積まれた書類をパラパラと見るともなしに見ていたが、ふとレッケンドルフを見上げていった。
「どこも悪くなどない」
 悪くなどないなどと言ってはいるが、声にいつもの張りがないし、上目遣いの金銀妖瞳にもいつもの鋭さが欠けている。調子が悪いのは歴然であったが、ここまで意固地になったこの上官を、どうこうすることが難しいのは、久しく副官を勤めているレッケンドルフには、分かりすぎるほど分かっていた。
 いつも通り、仕事をこなしているようには見えるが、その実、平素の半分にもみたない量しか書類をさばけていない。顔色は依然として悪く、時折深いため息をついては、胸や腹部を押さえるような仕草をする。
 レッケンドルフは彼の上官を案ずる心を抑えられなくなり、叱責を覚悟の上、意を決してもう一度ロイエンタールの前に立った。
「閣下、やはり今日はもうお休みになられた方がよいのではございませんか?」
 ロイエンタールは力なくレッケンドルフを見上げた。その金銀妖瞳は朝よりも熱っぽく潤んでいて、なんだかとても色っぽく感じた。
ーー抱きしめたい。いやいや、苦しんでいらっしゃる閣下になんてことを・・・。
 常にもまして蠱惑的なロイエンタールの姿をレッケンドルフは直視できなかった。
「・・・大丈夫だと言っている」
 やっぱりな返事を聞きながら、時計を見ると11時半をすこし回ろうとしていた。
「わかりました。しかし閣下、少しお休みください。少々早くはございますが、昼休憩のお時間です。その間だけでも隣で横になっていただきたく思います」
 つられるように時計を見たロイエンタールも、有無をいわさぬレッケンドルフの言葉に、珍しく従うことにしたらしい。
 それほど、具合がお悪いということか・・・。
 机に両手をつき、ゆらりと席を立ったロイエンタールに手を貸しながら、レッケンドルフは執務室と休憩室との境の扉を開け、中にロイエンタールを引き入れ、そっとベッドに腰掛けさせた。
 ロイエンタールは青白い顔を白い両手で覆って動かない。今日の上官はなぜだか儚げに見えてしまう。
 抱きしめて、お背中をさすって差し上げられたら・・・。
 叶うこともないことを思いながら、横になれるようベッドの上掛けを捲り上げようとしたとき、突然、ロイエンタールが立ち上がった。立ち上がり、左手で口元を覆い、ふらつきながら向かった先はトイレだった。
 先回りをして扉を開けるや否や、ロイエンタールは中に駆け込み胃の中のものを吐き出した。
「閣下!」
 嘔吐するロイエンタールの背中をなでてやる。軍服の生地ごしにロイエンタールの息づかいが感じられる。伝わる体温がロイエンタールに触れているということを生々しく感じさせる。
 吐き気が収まったのを見計らって、レッケンドルフは紙ナプキンと水の入ったグラスを差し出した。
「閣下、戻れますか?」
無言で頷いたロイエンタールを抱えるようにしてベッドに運んだ。
 ロイエンタールをベッドに横たわらせ、少しでも楽になるよう、襟のホックを外し、ベルトをゆるめてやろうとした。つと、ベルトにかかったレッケンドルフの手をロイエンタールが捕らえた。驚いてロイエンタールの顔を見ると、思い詰めたような目とぶつかった。
「レッケンドルフ」
 ロイエンタールの体調が悪くさえなければ、こんなにおいしい場面はないなどと、ほんのちょっぴり思っていたレッケンドルフはドギマギした。
「閣下・・・」
 ロイエンタールの不調につけ込むわけではないが、期待するところがないではないレッケンドルフは、上擦った声で返事をした。



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