副官の心得(4)



艦橋から飛び出したレッケンドルフは、トイレに駆け込んだ。頭から水を被りたい衝動を抑えて、蛇口をひねり、冷水で顔を洗った。鏡に写る男は情けない顔をしており、今にも泣きそうに見える。
しっかりしろ、エミール。士官候補生が練習航海に来ているわけではないんだぞ、と鼓舞するも、心は途端に萎んでしまいそうになる。孤独と不安。そんなものに押し潰されそうな自分が、情けなくて堪らない。
「見ない顔だな」
突然声をかけられ、レッケンドルフは驚いて振り向いた。奥の個室に人がいたらしい。慌てて取り繕おうとしたがうまくいかず、歪んだ表情を向けた。
「新しい副官殿かな?」
ポケットから取り出したハンカチで顔を拭き、独特の少佐の軍服を身に付けた士官に向かって頭を下げた。
「レッケンドルフ大尉です」
「ノール軍医少佐だ。閣下に泣かされたのか?」
単刀直入な表現に、レッケンドルフは胸に込み上げてくるものを堪えた。
「此度は医務室は暇なんだ。ちょっと寄っていくといい」
着いてこいと背中を向けたノールに引かれるように、レッケンドルフはトイレを後にした。

芳しい香りとともに、コーヒーが手渡された。まだ使われていない医務室は、その白さが眩しいくらいだ。レッケンドルフは回転椅子に腰掛け、湯気をたてる、カップを受け取った。
「洗うのが面倒だから、ソーサーはなしだ。構わないだろう? 閣下にはそうはいかんだろうがな」
ああ、閣下にはまだコーヒーすらお出ししていないことに、さらに落ち込んだレッケンドルフを見て、ノールはこれは重症だな、と思った。
「正直に言ってごらん。閣下に何と言われた?」
レッケンドルフは自分の顔を優しく見守るノール軍医をおずおずと見上げた。人並み以上には優れていた彼は、今まで人から労られたり優しくされたりした経験がなかった。よって自らの心のうちを他人に吐露したこともなかった。剥き出しの心を曝すような羞恥を感じながらも、レッケンドルフはこの差し出された手に、すがり付きたくなった。
「無能な副官には用はないと、言われました」
「ふうむ…」
ノールは腕を組んだ。
分かりにくい表情と裏のある言葉に、今までどれだけの人間が泣いてきたか。そのストレスが高じて胃薬やら安定剤やらを処方するこちらの身にもなってほしいものだ。しかし、そんな気難しい司令官だが不思議と自ら望んで異動を申し出る者は少ない。あの前の副官でさえも、療養のため後方への異動を命ぜられた時には、悔し涙を流していたほどだ。身近に仕えれば離れられないほどに魅了されてしまう。だがそれを言葉で表すのは難しい。さて、何と言ってこの新任の副官を慰めるか…。
「『無能な副官には用はない』ということは、有能な副官に用があるということであって、卿のことを無能とは仰ってはいないと思うのだがな」
「………そうでしょうか」
「そうさ。卿はいつ着任したのかな?」
「今日です」
「ほほう……」
これは先の言葉の他に何かあるな、とノールは思った。そこで軍医学校でわずかに学んだカウンセリングマインドを思い出しながら、この新任の副官の心を解してやれるよう会話を続けた。

ノール軍医に促されるままに心の内を吐き出したレッケンドルフは、自分が今朝のあの場面にひどく拘泥していることに気づいた。元帥府内のエレベーター前でのわずかなやり取り。完璧な美貌とともに自分に向けられた微かな失望の気配。
ーー あの方に見限られたくない。
そんな思いが、ついついレッケンドルフに上官の顔色を窺わせ、生来の働きをさせなかったのだ。レッケンドルフはもともと聡い男である。客観的に自分を見ることが出来れば、今日一日の自分がロイエンタール艦隊司令部に入るいうことに、どれ程構えていたかがわかった。こういうときは初心に帰るに限る。レッケンドルフは初めて副官として勤めることになったときのことを思い出した。士官学校では副官になるための教育など施されない。指揮官なり隊長なりを養成しているのだから当然かもしれない。しかし、現実には様々な補佐官というものが軍隊にもあるもので、それらの心得は先任者から受け継ぐことになっている。レッケンドルフも先任の副官から『副官の心得』たるものを教授された。細々としたやるべきこともあるが、ただひとつ、これだけを覚えておけと教えられたこと、それを彼はひたすら守ってきた。
閣下の御為と思われることに、全能力を以て取り組むべし。
――艦隊司令官である閣下の為に私が出来ること……。
水を得た魚のように、レッケンドルフの頭は久しぶりに回りだした。

ノールは冷めたコーヒーを旨そうに啜る目の前の若い士官を、感嘆の表情を浮かべて見詰めた。どうやらこのわずかな時間で、彼は自分の心に整理をつけたようだった。これはなかなかな拾い物をなさったな、と閣下の為に喜んでいると、ふとあることを思い出した。
「前の副官が、閣下の命でなにやらしておったはずだ。本人はその辛労で倒れたようなものだが…。副官室にその後が残っているかもしれないぞ」


「ん?」
ロイエンタールは指揮パネルに小さな違和感を感じた。その原因を突き止めようとパネルの端から確認した。それまで暗転したままであった副官室のコンピュータが立ち上げられ、保存されていたデータを次々に開いている。
――いよいよ始まったか。さて、どこまでのことをやってくれるのやら。
ロイエンタールは愉しそうに目を細めた。

〈続く〉


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