副官の心得(3) |
「あのような言い方をなさって、よろしかったのですか?」 航路図を見たままの姿勢で、艦長はロイエンタールに言った。その声には、たしなめるような響きがあった。 「ん? あの程度で駄目になるようなら、端からものにはなるまい。残念だが奴がその気になるまで待ってやれる時間は、我らにはない」 近く大規模な出兵があるらしいことは、旗艦の調整や艦隊の再編を急がせているところからも窺える。 「ですが、せっかくご苦労なさって引き抜いたのではありませんか? 前の副官のように逃げられてしまったらもとも子もないでしょう」 先代の旗艦からの付き合いだ。艦長の言葉には遠慮がない。 「逃げられたのではない。ここよりも奴に相応しい部署に転属させてやったのだ」 実際は、高過ぎるロイエンタールの要求に応えられずに、 心身の不調を訴え前線から離脱してしまったのだが。しかしその時、ロイエンタールは切実に思ったのだ。後方を任せられる副官を一から育てるには時間と労力が掛かりすぎる。兵站に通じた士官が欲しい、と。 そこで目をつけたのがミンネベルク補給基地から異動願いを出していたレッケンドルフ大尉だった。 ミンネベルクにはロイエンタールが巡航艦の艦長をしていた中佐時代に立ち寄ったことがあった。辺境の補給基地のご多分に漏れず、ミンネベルクも取り敢えず補給ができる程度の御粗末な基地だった。収支が合っていればそれでよし、あとは艦の責任で物資を補給せよという人任せなやり方は、基地というより倉庫といった方が適切であった程だ。司令官のミュンヒハウゼンも、見目よい士官に色目を遣うしか能がないという、すべてにおいて機能不全の基地だった。ところが、近年ミンネベルクに立ち寄ったという僚友の話を聞くと、どうも印象が違う。辺境には珍しく「きちんとした」基地だったという。内部外部の評価を見ても僚友の話は正しいことがわかる。何かが、いや誰かがあの基地を変えたのだ。そなの「誰か」が2年前に着任した司令部副官であることは、少し調べさせるとすぐにわかった。 ロイエンタールはミンネベルクの副官が欲しい旨を軍務省に伝えた。彼方からも異動願いが出ているのだ。何も問題なく手に入ると思っていた。しかし、返事は「否」。何でもミュンヒハウゼンが離したがらないのだという。司令官の許可が出ないのだからどうにもならないと言う軍務省の官吏を、ヘテロクロミアで睨み付け震え上がらせ、直接交渉することを認めさせたのだった。 ミュンヒハウゼンは副官の手腕を買ってというよりも、身辺の世話係としてレッケンドルフを手離したくないようだ。まともに話をしても一向に埒が明かず、ロイエンタールは「そんなに世話が必要なら、腕の良い介護ヘルパーを用意しますよ。それとも老人ホームの方がよろしいですか」というような暴言を通信回路にのせそうになった。しかし、とんでもない発言はミュンヒハウゼンの方から飛び出てきた。 「卿はあの時の中佐だな。そのヘテロクロミア、よく覚えている。卿はあの時の約束を覚えておろうな?」 「約束?」 した覚えはない。近くで成り行きを見守っていた艦長も、思わず振り返って様子を窺っている。 「次に会うときまで身を清く保っておったら、卿は儂のものになるのだったな」 「は?」 艦長の白い目線が痛いが、ロイエンタールには全く覚えのない約束だ。そのような約束など知らないと言おうとするが、ミュンヒハウゼンはお構いなしにロイエンタールの美しさを称え始めた。まるで白い百合か青い薔薇のようだなどと言われて喜ぶ男などいるはずがない。上官が目の前で男に口説かれるなどという貴重な場面に立ち会うことになった艦長は、向こうを向いて肩をクツクツと震わせている。 「あ」 唐突にロイエンタールは思い出した。一介の巡航艦艦長に過ぎない彼が司令官室に内々に呼び出されたときのことを。権威を嵩に迫ってきた基地司令官に彼は何と言ったか。 ーー小官を一時の慰みものになさる気か。 あれをどう曲解すれば、ああいう約束になるのだろう? ハアァ、とロイエンタールはこれ見よがしな溜め息をついた。こんなに不毛なやり取りはいつまで続くのか。ただ、人事異動規定に従って副官の異動を許可さえしてくれればよいのに。しかし、ロイエンタールの溜め息は意外な効果を生んだ。 「そんなにあの副官が欲しいのか? ならば卿にやろう。儂のものは卿のものだ。いずれそうなるのだから、あれは結納代わりじゃ」 ロイエンタールは話の後半は聞かなかったことにして、テキパキと事務手続きの確認をミュンヒハウゼンと交わした。途中恍惚とした顔で、凛々しい卿も美しいや、乱れる卿が見てみたいなどの世迷い言を言う基地司令官を完全に無視し、数分後には、レッケンドルフ大尉の異動を許可する手続きが終わった。 「では」 モニターに向かい敬礼し、回線を切った。ミュンヒハウゼンの「マインリーベ」という言葉を最後に暗転したモニターを、ロイエンタールは思い切り叩きつけた。 「能無しの色ボケジジイが!」 ロイエンタールの手元のモニターが壊れていないかを確認しに来た艦長は、でもまあよかったではありませんか、と言った。 「ん? そうだな。まあ、結果オーライとうところか」 ロイエンタールが脳裡にこれからの流れを描いていると、艦長は電源の入らなくなってしまったモニターを取り出しながら、クツクツと笑っている。 「どうした?」 「いえ、おめでとうございますと申し上げるべきかと思いまして」 「めでたいといえば、めでたいな」 「はい。ミュンヒハウゼン伯爵家にお輿入れが決まったのですから」 「は?」 「そういうお話でしたが。では早速ミンネベルクに出発いたしますか?」 「………」 「閣下。くれぐれも結婚詐欺で訴えられないようにお気をつけください」 「………」 「苦労して手に入れたのだ。役に立ってもらわねばな」 「ならば、何かヒントをお与えなさったら如何ですか?」 「ヒント、ね」 ロイエンタールは指揮パネルの一角にある、暗いままのモニターを見た。 〈続く〉 |