副官の心得(11)



レッケンドルフがロイエンタールの執務室に戻ろうと、エレベータ前で立っていると、背後から声をかけられた。驚いて振り返ると、そこに漸く見慣れてきた金銀妖瞳の上官がいた。このシチュエーションがトラウマになりかけているとの自覚のあるレッケンドルフは、我知らず緊張で体が強ばってしまった。それにしても、高級士官食堂に行っていたはずのロイエンタールが、なぜロビーにいるのだろうか。
「ミッターマイヤーを見送りに来たのだ」
それならば、ここにいるのがわかる。ならば、先程のやり取りも見られていたのかもしれない。
「あれはミュンヒハウゼンだな?」
「はい、左様です」
現上官に対するかなり不敬な発言までは、聞かれていないとは思うが、それでもこちらが思いもしないような切り口で、嫌みや皮肉のひとつや二つは言われることを覚悟した。しかし、あとに言葉は続かず、ただ何となくもの問いたげな視線に晒され、居心地の悪さを感じる。エレベータの扉が開き、ロイエンタールの後ろに控える形で乗り込んだ。
結局、何も言葉を交わさないまま執務室にたどり着いた。レッケンドルフは前をいく背中が、いつもとどこか違うように感じていた。どこが違うか明確に表せないが、何かか違う。言葉で言い表せないほどの微妙な変化に気づくほどに、自分も毒されたのかなと思っていると、耳障りのよいバリトンの声がした。
「戻りたいのか?」
「えっ?」
「いや、なんでもない」
そのまま扉の向こうに姿を消したロイエンタールを、レッケンドルフは呆然と見送った。
――戻りたいのか、か。
戻りたいはずがない。あんな、自分にとっての暗黒の時代を、再び送りたいなどと誰が思うものか。ロイエンタールは 自分を信頼し、重要な遣り甲斐のある任務を与えてくれる 。ロイエンタールの側にいると、軍人を志し、士官学校の門を潜ったときの高揚感が、沸々と蘇ってくるのだ。少しく軍歴を重ね、自分が大軍を率いて闘えるような器ではないことは自覚している。しかし、ロイエンタールは違う。自分と変わらぬ年齢で、帝国軍でその名を知らない者がないほどの勇将だ。そして、将来性もある。自分は上ることのない階を上るロイエンタールを、側で見届けたい。そして、自分の微力をもってそれを後押し出来れば、それ以上の軍人としての幸せはあるまい、とレッケンドルフは思う。
――それが、副官の醍醐味ではないか!

重厚な扉の向こうに姿を消した上官に、彼はコーヒーを用意した。上官好みの少し濃いめに淹れたコーヒーを手に執務室の扉を開けると、そこにはいつも通りの上官がいた。
――戻りたいのか?
あの言葉には、突き放すような冷たさはなかった。どちらかというと、寂しげな響きを感じたのは、レッケンドルフの聞き違いではないはずだ。この人に必要とされているのかもそれないとの思いに、にやけそうになる口許を引き締めながら、無言でコーヒーを啜るロイエンタールに向かってレッケンドルフは言った。
「先程お尋ねの件ですが」
「ん?」
ロイエンタールに微かに緊張が走った。
「小官に、ミンネベルクに戻りたいとの気持ちは、微塵もありません」
「そうか」
「はい」
短い言葉にロイエンタールの安堵を感じとり、レッケンドルフは嬉しかった。自分もロイエンタール艦隊の一員としてロイエンタールに認められていたのだ。
しかし、クールな上官に意外な一面があるものだ、と驚いた。だが、バルトハウザー達が寄せる思いが、一方通行であるはずはなかった。ロイエンタールの部下に対する情のあつさがあればこそなのだ。
カップを置き、書類に目を落とすロイエンタールに、思い出したようにレッケンドルフは言葉をかけた。午後の始業時間までには、まだ少し時間がある。
「そう言えば、ミュンヒハウゼン中将が、何やら閣下とお約束されているとか」
「約束?」
ロイエンタールは顔をあげ、横に立つレッケンドルフを見上げてきた。心当たりがないという表情に、重ねて言う。
「約束の証に何かいただいてはいらっしゃいませんか?」
ロイエンタールの秀麗な片眉がピクリと動いた。
「で、奴はその約束が不履行になるならば、その品を返せと言ってきたのか?」
「返せと言われれば、お返しになりますか?」
ロイエンタールはレッケンドルフをじっと見詰めてきた。稀有な瞳に真正面から覗き込まれ、その鮮やかなコントラストに眩惑されそうになる。暫くそうして見つめあった後、ふっとロイエンタールが不敵に笑った。
「アレは既に俺のものだ。今さら返すことはできん」
アレが自分であることを知っているレッケンドルフは、心の中でガッツポーズをした。もちろん、表面上は平静を保ちながら。
「レッケンドルフ」
「……あ、はい」
突然呼び掛けられ、ふと我に返った。どうやら自分は相当舞い上がっていたらしい。気を付けなければ、と自分に言い聞かせる。その様子をじっと見ていたいロイエンタールが、徐に口を開いた。
「約束自体が正式に交わしたものでもないし、交わしたところで社会的にも法的にも認められるものではない。寧ろ、その品とやらの譲渡に関しては、俺は正式な手続きを踏んでいる。今さらミュンヒハウゼンが何を言ったところで返す筋合いなどはない」
確かにそうだ。男同士で結婚など、言い出した方が恥をかくに違いない。
「だが、耄碌した年寄りを騙したなどと騒ぎ立てられてはかなわん」
「はあ」
もうその虞はないとは思うが、その事をロイエンタールに言えないことがもどかしい。
「そこでだ、レッケンドルフ、卿に頼みがある」
頼みなどとは言っているが、上官からのご下命である。レッケンドルフは姿勢を正した。
「貰ったものを返すわけにはいかんから、それに見合ったものを代わりに送り返しておけ」
「!!」
贈られたものは自分とわかっていても、いや、わかっているからこそ、それに見合うものの見当が付かない。ましてや、今自分は前上官と現在の上官との間で交わされた約束の内容を、知らないことになっている。知らない体でロイエンタールの気持ちを確かめたのだ。
瞠目したまま立ち尽くすレッケンドルフを見て、ロイエンタールはニヤリとした。
「俺は嫁に行くのは真っ平だからな。卿もミンネベルクに戻りたくないのだったな」
「えっ?!」
レッケンドルフは身体中に嫌な汗をがいた。同時に、自分の意図が読まれていたことに、顔から火が出そうだった。
「閣下、いつから……」
それには答えず、ロイエンタールは長い指をつと顎にかけ、クククッと笑った。ヘテロクロミアが細められ、レッケンドルフが見る、本当に楽しそうなロイエンタールの姿である。
「卿は嘘が下手だな。そんなことでは俺の副官は勤まらんぞ」
「も、申し訳ありません」
「それで俺をからかおうなど、十年早い」
十年……。十年経てばからかえるようになっているのだろうか?
「それまでに、相当人が悪くなっていそうだ」
思わず口からこぼれ出ていたようだ。
「まるで、俺が人が悪いという口振りだな?」
大袈裟に溜め息をついて見せるロイエンタールに、十二分に人の悪さを感じながら、レッケンドルフも小さく溜め息をついた。
どんなにからかわれようとも、人になんと言われようとも、もうこの人以外に仕えている自分を想像できない。
「さ、仕事だ。今日中にこの書類の山を片付けるぞ」
「はい」
上官の要求に応えるのが副官の勤めだ。ロイエンタールがそれを望むなら、人も悪さも身に付けよう。
レッケンドルフは新たに書き加えた副官の心得を胸に、目の前の仕事にたち戻った。

〈了〉


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