嫉妬(4) |
簡単に身繕いをした後、ファーレンハイトは熱いタオルを手にしてベッドに戻った。汗で前髪が貼り付く額をそっと拭い、それから首筋、胸、腹とロイエンタールの体を清めていった。つい先程まで欲に濡れていたとは思われない、神々しさすら感じさせる寝顔に一つ口づけて、白い裸体に上掛けを掛けた。 「無体なことをいたしました、お許し下さい」 ファーレンハイトはロイエンタールの手をとってベッドの横に跪いた。 「しがない嫉妬だと、貴方は笑われるでしょうが、それほどまでに、私にとって貴方はかけがえのない存在なのです。貴方の幸せは私の幸せと思えると思っていましたのに……、情けないことです。叶わぬことと知りながらも、その相手が私でないことに、これほとまでに心を乱されるとは……」 指先にそっと口づけた。名残惜しくてその手を離せずにいたところ、力なく委ねられていた手がファーレンハイトの手を握り返した。驚いて顔を上げると、見慣れた二色の瞳が見つめていた。 「ファーレンハイト」 どんな叱責を受けることかと身構えたファーレンハイトに、穏やかな声色でロイエンタールは呼び掛けた。その声で名を呼ばれるだけで、涙が溢れた。 「閣下、お許し下さい……」 握り締めた手に頬を擦り寄せると、指先でそっと涙を拭われた。 「卿は思い違いをしている。あれはそんな女じゃないと言っただろう?」 「一夜限りのお相手ではないという意味ではなかったので?」 俯いたまま答えると、「違う」と、今度は明快に否定された。 「あれは、アガーテ・フォン・ロイエンタール。俺の従妹だ」 「えっ?」 驚くファーレンハイトを満足げに見下ろして、ロイエンタールはアガーテについて語った。 ロイエンタールの父の事業を引き継いだ父の弟、その末娘アガーテは今はフェザーンの大学に通っているという。実業家の一家に育ち根っからの商売人気質を持つ彼女は、帝国で商売する上で貴族社会は無視できないと考え、今年漸く社交界に出られる年齢に達し、その世界では名の通ったロイエンタールを頼ってきたらしい。 「経験もないくせに、鼻っ柱だけは強いやつでな、伯父も手を焼いているのだ」 ロイエンタールの本邸に滞在し、その間に社交界でのルールやダンスを教え込み、毒にも薬にもならない貴族主催の夜会を選んで、アガーテをデビューさせた。それが、今晩のヘルメスベルガー邸の夜会だった。 「目を離した隙に、何をしでかすかわからんからな。あれのせいで俺の評判まで下げられてはかなわん」 彼女を監視するロイエンタールの視線を、ファーレンハイトは誤解したらしい。 恥ずかしくて情けなくて俯いたままのファーレンハイトに、追い討ちをかけるようにロイエンタールは言った。 「あの後も、大変だったのだぞ」 嫉妬に駆られるままに、強引に口づけ、その姿をアガーテに見せつけているのだ。 「卿のせいだ」 ファーレンハイトはますます小さくなって、何度繰り返したかわからない謝罪の言葉を口にした。しかし、同時に沸き起こった小さな疑惑。ファーレンハイトはためらいがちにそれを口にした。 「あのことを気になさるということは、従兄である貴方に気があるのではありませんか?」 「ククッ、なるほど。嫉妬とは明晰な司令官の頭脳をも曇らせるようだな」 俺があんな子供を相手にすると思うのか、と心外だと言わんばかりの声で言った後、それに、と言葉を続けた。 「あれは根っからの商売人でな、軍人などという非生産的な職業に就いている俺などに、興味はないそうだ」 自分の最愛の人を興味がないと言われて、思わずムッとしたファーレンハイトを見て、ロイエンタールは堪えきれないようにクスクスと笑った。 「何が可笑しいのですか?」 何故か機嫌のよさそうなロイエンタールに、甘えていると自覚しながらファーレンハイトは尋ねてみた。 「鏡を見てみろよ。酷い顔だぞ」 「えっ?」 慌てて顔を撫でると、卿でもそんな顔をするんだなと、尚も笑い続けている。 「そういえば」 ファーレンハイトは重大なことに気づいた。 「いつから気づいていらっしゃったのですか?」 「ん?ああ、 ヘルメスベルガーの四阿だったかな」 ファーレンハイトが自覚するより前に、ロイエンタールはファーレンハイトの異変に気づいていたのだという。 「だったら何故、誤解を解いてくださらなかったのです?」 もしそうしてくれていれば、このような無礼を働くこともなかったのに……。 ロイエンタールにはファーレンハイトの心の動きが手に取るようにわかるらしい。恨めしげに見詰める目を、悪戯を見つかった子供のようにふとそらした。 「閣下?」 「よいではないか。卿の思いがけない一面も見ることができたし、それに…」 目を逸らしたまま、ロイエンタールはとんでもない言葉を口にした。 「別の男に抱かれているようだった。刺激的な一夜だったな」 「はあぁ」 ファーレンハイトは盛大に溜め息をついた。しかし、仕方がない。自分の愛する人は、こんな天の邪鬼で性悪な人なのだ。 「で」 ファーレンハイトは身を乗り出して、ロイエンタールの耳に囁いた。 「貴方はどちらの“男”がお好みです?」 ロイエンタールは堪らなく蟲惑的な表情で囁き返した。その答えにファーレンハイトの心は満たされた。その思いを込めて口付けると、下から胸を押されて行為を中断された。 「今日はもう駄目だ。体が持たない」 誰のせいだかわかっているのか、と無言で詰られファーレンハイトはロイエンタールを強く抱き締めた。 「おい!」 「わかっています。ただ今晩はこうして眠らせて下さい」 どうやら俺の掌中の珠は好き勝手に跳んだり跳ねたりする、厄介な宝玉のようだ。もう二度と溢さないためにも、抱き締めておくに限る。 身動ぎして嫌がるロイエンタールを腕のなかに収め、ファーレンハイトは目を閉じた。 〈了〉 |