嫉妬(2) |
「閣下」 背後からの呼び掛けに、ロイエンタールは振り向いた。そしてそこにファーレンハイトの姿を認めて、少し驚いたような表情をした。 「なんだ、卿も来ていたのか」 珍しいものを見るように、ファーレンハイトの夜会服姿に目を遣りつつ、心底意外という様子で呟いた。 「卿がこのような所に来る男とは思わなかった」 ーーだから、あの女を伴われたのですか? ファーレンハイトは自らの中にどす黒い感情が渦巻き始めたのを自覚した。 「私も、閣下があのようにお可愛らしい女性を伴っていらっしゃるとは、想像だにいたしませんでした」 「”お可愛らしい”、ね」 ファーレンハイトは見逃さなかった。言葉を切ったロイエンタールが、遠く離れた彼女の姿を目で追ったことを。そして、その稀有なヘテロクロミアに、いつもの「女」を見るときの、侮蔑の色が微塵にも混ざっていなかったことを。 ロイエンタールの連れの女は、好奇心旺盛な年嵩の女たちに取り巻かれている。未熟な彼女を導く風を装って、その実、ロイエンタールとの関係を問いただそうというのだろう。そして、自分達はと言えば、獲物を狙う幾多の目に晒されている。若い女たちが、ロイエンタールが一人になったこの機会をものにすべく、周囲と牽制しあっているのだ。 ファーレンハイトは、そっとロイエンタールの袖を引いた。 「外に出ませんか? ここでは落ち着いて話もできない」 ロイエンタールも、纏わりつくような女の視線を煩わしく思っていたのだろう。口許にいつもの皮肉な笑みを浮かべて頷いた。 「少し待っていろ。あれにそう言ってくる」 ーー“あれ”・・・。 黒い棘が、ファーレンハイトの心を掻き乱した。 「よいではありませんか。少しの間ですし、私たちが外へ出たことは人に聞けばすぐにわかることですよ」 ファーレンハイトはくるりと背を向けて歩き出した。その後ろにロイエンタールがいることを信じて。 「どこまで行くつもりだ」 後ろからついてきていたロイエンタールが、ファーレンハイトに声を掛けた。二人はヘルメスベルガーの邸宅の壁沿いに庭園を歩いていた。 「もうすぐですよ。そこに四阿がありますので」 四阿は庭園に作られた池に浮かぶように建てられていた。 「明るい」 「ええ、今宵は満月のようですね」 空からも水面からも明るい月が四阿を照らし出していた。 「随分詳しいんだな」 「ええ」 「意外だ」 ファーレンハイトはロイエンタールの隣に腰掛け、なぜ自分がここにいるのかを話した。 「なるほど。卿を目当てに来る女どもで数を稼ごうというのか」 「私ばかりではありません。貴方にも毎回毎回招待状が届いているでしょう? 女性の半分は、来るかどうか分からないロイエンタール閣下がお目当てなのですよ」 「ふん」 ロイエンタールは下らないとでもいうように、鼻で笑った。 「その貴方が今宵はあのようなお可愛らしい女性といらっしゃった。女性方の失望は如何ばかりでしょう」 水面に写る月影を見るように顔を背け、ロイエンタールはポツリと言った。 「あの女が気になるのか」 「ええ、あわよくばと貴方を狙っているご婦人方が、貴方が連れていらした彼女を気にならないことはないでしょう」 「違う」 ロイエンタールは静かに振り向き、ファーレンハイトを見詰めた。月光に照らされた美貌は、冴え冴えとして美しい。 「卿が、だ」 「!」 ファーレンハイトは咄嗟に言葉を失った。その事をロイエンタールに気づかれないように、振る舞ってきたつもりだった。 「私が、ですか?」 出来る限りの平静を装って尋ね返すと、ロイエンタールはファーレンハイトの心を見透かすような目をしてただただ見つめてきた。その目に急かれるように、ファーレンハイトは我知らず言葉を継いでいた。 「確かに、いつもの貴方のお相手と比べると、随分お若くていらっしゃるし、ご趣味が変わったのかと思いました」 「ほう、俺の趣味とは、いかなるものと卿は心得ていたのだ」 「経験豊富で遊び上手な、後腐れのない女性をお好みかと思っておりました」 でなければ、漁色家などと揶揄されるような付き合いにはならないはずだ。だからこそ、今宵の連れの存在が特異なのだ。 ロイエンタールはファーレンハイトの言葉をふふんと小さく笑って、再び水面に目を向けた。そして小さいながらもはっきりと聞き取れる声で言った。 「経験豊富で遊び上手、後腐れがない、か。それはまるで卿のようではないか…」 「えっ?」 ファーレンハイトは頭から血の気が引いていくのがわかった。自分が、まるで一夜の遊び相手のように言われたような気がした。ロイエンタールとって自分はその程度の存在なのだろうか。自分はロイエンタールにとって、行きずりの女と同等でしかないのか。こちらの想いに応えてくれないまでも、他の誰とも違う特別な関係を築いていたと思っていた。しかしそれは、自分の独り善がりだったというのか。 今度は完全に言葉を失ったファーレンハイトの想いなど忖度せず、ロイエンタールは立ち上がった。 「そろそろ戻らねばならん。あまり一人にはしておけないからな」 ファーレンハイトは咄嗟に、そのまま去って行きそうなロイエンタールの腕をとって押さえた。 「何をする」 ムッとした顔でロイエンタールが睨んできたが、ファーレンハイトはすがるように尋ねた。 「彼女は、一体どういう方なのですか?」 「卿には関係ない」 「閣下!」 ファーレンハイトは視界に淡いピンクのドレスを捉えた。ロイエンタールの姿が見えないことに気付き探しに来たのだろう。二人の間に見えない繋がりを感じ、ファーレンハイトは焦りを感じた。焦りは苛立ちに、そして怒りに転じた。自分からかけがえのないものを奪っていこうとする、うら若き略奪者を黒い炎を灯した目で見つめると、向こうもこちらに気付いたようだった。ピンクのドレスの彼女がこちらに向かって何か言った。ロイエンタールには聞こえなかったようだが、ファーレンハイトには確かに聞こえたのだ、「オスカー」と。 「手を離せ、ファーレンハイト」 ファーレンハイトは憮然とした表情のロイエンタールを見た。蒼白い光の中、まるで月の精のようだ。彼はこの掌中の珠を奪おうとする者を、許せなかった。 「教えてください。彼女は貴方のなんなのです?」 「あれは、卿の思うような女ではない」 「それはどういう…?」 ピンクのドレスが近づいてきた。こちらの様子をうかがっているようだ。 ――この人は、俺のものだ。お前などに譲ってやるものか! ファーレンハイトは掴んでいた腕を、強く引き寄せた。噛み付くように唇を塞いだ。そして、突然の乱暴な行為から逃れようと、身を捩るロイエンタールを、四阿の柱に押し付け、顎に指をかけ無理に口を開かせて舌を割り入れた。深く口づけて弱い上顎に舌を這わすと、胸を押し返していた手の力が弛んで、そっとファーレンハイトの背中に回された。 ファーレンハイトは薄らと目を開いて女の方を見た。 ――よく見ておけ。この人がそう簡単に手に入るなどと思うようなよ! 「オスカー!」 悲鳴のような女の声がした。しばらく女は立ち尽くしてこちらを見ていたが、突然我に返ったかのように走り出した。 ファーレンハイトは、胸を強く突かれてよろめいた。 「面倒なことを…」 嘆息するように言葉を残して、ロイエンタールは女の後を追って駆けていった。 〈続く〉 |