嫉妬(1)



ファーレンハイトは借り物の衣装に身を包み、虚ろな華やかさの中にいた。この夜会の主催者ヘルメスベルガー伯爵は、ファーレンハイトにとっては恩人である。祖父の代からの莫大な借財を無条件に一部肩代わりしてくれていたのだ。今ではそれもすっかり返済し終えてはいるが、恩義を感じないわけにはいかない。それで、時々求められるままに、ヘルメスベルガー伯爵主催の夜会に出席している。今をときめく帝国軍の大将閣下であり、見映えもよく未だに独り身であるファーレンハイトは、人寄せパンダよろしく、若いご婦人方の気を引くことができる存在だ。そんなファーレンハイトを身近に侍らせておくことで、ヘルメスベルガーは虚栄心を満たそうとしているのだろう。ファーレンハイトとしても、ただで飲み食いできるまたとない機会だと割りきって、今日もこうして人当たりのよい笑顔を浮かべながら、シャンパン片手に並べられた料理を物色しているのであった。
「今日は来られるのかしら、あの方は」
「伯爵は、夜会を開くたびに招待状を出していらっしゃるらしいわよ」
「そうそう、だからわたくしは毎回こちらの夜会には欠かさず伺っておりますのに、今まで一度もお見かけしたことがありませんわ」
  ファーレンハイトはすぐ近くでうら若き女性たちが始めた他愛もない話を聞くともなしに聞いていた。
「何でも、ごく最近に付き合っていた方と、お別れになったそうよ」
「ま、そうなの? お相手は子爵家のご令嬢だったのではなくて?  お可哀想」
「嘘おっしゃい! ちっとも可哀想だなんて思ってないくせに」
「そうそう、今決まったお相手がいらっしゃらないのなら、これはチャンスではなくて?」
  随分モテる男だなと、ファーレンハイトはある具体的な一人の人物をなんとなく想像しながら、シャンパンを飲み干した。視界にヘルメスベルガーを捉えたからである。曲がりなりにも恩人である伯爵を無視できるほど、彼は厚顔ではなかった。
「やあ、アーダベルト、いや、ファーレンハイト大将閣下。お越しいただいて光栄です」
自分で呼びつけておいて、と言う言葉を飲み込んで、ファーレンハイトは差し障りのない挨拶を返した。そして、伯爵の毒にも薬にもならない自慢話に辟易しながら相手をしているとき、何やら入り口付近で騒ぎが起きたようだった。二人して入り口の方を眺めていると、ヘルメスベルガーが何かに気づいたらしく、人だかりに向かって駆け出した。
  やれやれ、これで旨い酒と料理に専念できると肩の力を抜いたファーレンハイトの耳に、女性たちの悲鳴にも似た声が届いた。耳障りな声に煩わしげに振り向いた目に、主人たるヘルメスベルガーが満面の笑顔を浮かべて、今到着したばかりの客を出迎えている姿が見えた。
「え?」
  ファーレンハイトは我が目を疑った。姿勢のいい細身のシルエット、綺麗に撫で付けられた暗褐色の髪、にじみ出る気品と色気。紛れもなく、それは彼が全てを捧げている思い人、ロイエンタールだった。予定外に愛しい人の姿を目にできたことで、彼の心は躍り上がった。下らない無益な時間潰しだと思っていたこの夜会も、ロイエンタールと共にいられると思うだけで、彼の心を震わせた。喜びが彼の体の隅々にまで行き渡ろうとするとき、聞き捨てならない言葉が聞こえた。
「ロイエンタール様が女性を連れていらっしゃるなんて・・・」
  ファーレンハイトはロイエンタールの姿を凝視した。そして人だかりに紛れて隠れていた、連れの姿を確認した。

  ファーレンハイトは、自分の心の動きが理解できなかった。ロイエンタールが女と付き合っていることも、夜を過ごすことも、彼は知っていたし、そのことで心を乱されることはなかった。実際に女といる姿を見かけたこともあるが、いつもの漁色なのだと思えば平静を保つことができた。
  しかし、なぜこの夜はこんなにも心を掻き乱されるのだろう。ファーレンハイトは冷や水を浴びせかけられたような感覚が、どこからくるものなのかを確かめるべく、柱の影に身を隠した。
  年の頃は16、7。いつものロイエンタールの相手と比較して相当に若い。いや、見ようによっては幼いとも見える体つきだ。その体に上品な淡いピンクのドレスを纏った姿は神々しい気品さえも感じさせる。その女性をロイエンタールはこの上なく優しくエスコートしている。時々言葉を交わしては恥ずかしげに俯く彼女と、それを見守るロイエンタールの姿が、実にしっくりと馴染んでいて、まるで初めから二人でいたかのように、二人で一つの世界を作っている。
  やがて軽やかなワルツが流れ始めた。多くの男女がペアとなり、ワルツを踊り始めた。ファーレンハイトは控え目な2、3の誘いを断ると、ロイエンタールから目を離せずにいた。
  ロイエンタールは彼女の耳に口を寄せた。彼女は真剣な面持ちでロイエンタールを見上げ、頬を赤らめながら頷き返している。彼女の手をとり、型通りの挨拶をしてから腰に手を回し、二人は円を描くように踊り始めた。息の合った二人のワルツは周囲の目を惹き付け、見る者に嫉妬と羨望の溜め息をつかせた。

  いつもの火遊びではない。
  ファーレンハイトは最も辿り着きたくなかった答えに行き着いた。
  本気なのか? あんな若い女に…。
  頭から血の気が引いていくのがわかった。ファーレンハイトはロイエンタールがどんな形であれ、幸せになるのならば、心から祝福できるだろうと思っていた。いや、祝ってやりたかった。心の底に抱えた闇に光をさす相手が、自分でなくても、そういう相手が見つかったことを喜べると思ってきた。しかしそれは、
「欺瞞だ」
  ロイエンタールを思う気持ちを偽っていた。他の誰にでもない、自分に対して。
  ファーレンハイトは、ピンクのドレスの女がロイエンタールから離れたことを確認し、行動を開始した。
 
〈続く〉


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