惜別の朝(3) |
「誰かいるのかね?」 外から誰何する声が聞こえたからだ。 「チッ」と舌打ちしながら身繕いをし、フンパーディンクたちはその場を立ち去った。 永遠に続くかと思われた悪夢が、ようやく醒めた思いだった。いや、全く「悪夢」の方がどれだけよかったことか・・・。 「ロイエンタール!」 もつれる足取りで駆け寄ったマイアーは、力なく横たわるロイエンタールを見た。闇に浮かぶ白い裸体は、ぬらりと光る体液に濡れ、花びらを散らしたような痣が無数に付けられていた。 マイアーの声に反応して、長い睫がゆっくりと上げられた。 「マイアー・・・。怪我は・・・目は・・・大丈夫か?」 自分に差し出された、小刻みに震える白い手を、マイアーは握りしめた。なんで、こいつは、こんな時に、人の心配をしているんだ。 「大丈夫だよ。それより、ごめん。僕のせいで・・・」 ゆるゆると頭を振り、ロイエンタールは答えた。 「違う。マイアーのせいではない。全て俺が悪いんだ・・・」 そんなことないと、言い返そうとしてマイアーは言葉を飲み込んだ。闇に沈む金銀妖瞳に見たことのない冷え冷えとした光が宿っていた。 「誰かいるのかい?」 近くで人の声がした。マイアーは足下に落ちていたブラウスを拾い上げ、濡れたロイエンタールの体を手早く拭いた。むせ返るような青臭いにおいが鼻を突く。マイアーは心を空にして、ロイエンタールの素肌に制服を着せた。 「こんなところで・・・どうしたんだね?」 ライトを片手に、廃屋の医務室に入ってきたのは、医務官のノルドハイム医師だった。顔の半面を血で染めた生徒が、足取りのおぼつかない生徒を抱えている姿に、ノルドハイムは”医師”として行動を起こした。ここで何があったか、想像に難くはないが、それを追求するのは後でいい。 「私の車が近くにある。ここまで寄せるから、外で待っていなさい」 その後、二人はノルドハイムの自宅である診療所に連れていかれ、手当を受けた。薬と数時間にわたる行為のために発熱したロイエンタールは、それらら二日間眠り続け、その間に、マイアーはノルドハイムから失明のおそれがあると告げられた。 しかし、マイアーはそのことをロイエンタールに言わなかった。言わないどころか、徐々に失われていく視力のことを、誰にも気づかれないよう細心の注意を払った。例え片目であろうとも、視力を失った者に士官学校で学ぶ資格はない。士官候補生として、多くの部下の命を預かり戦場を駆る者として、不適格と見なされてしまう。マイアーは恐ろしかった。志が半ばで絶たれることよりも、自分のために身を投げ出してくれた、美しいルームメイトの側を離れることが、何よりも耐えられなかった。 だが、完全に右目の光を失い狭くなった視野では、距離感を掴めず、格闘系の実技に多大なる支障を来し、ついにそのことをノルドハイムや担任の知るところになった。ノルドハイムから大凡の事情を聞いた担任は、生徒の将来の絶たれたことに胸を痛めながらも、最善の進路を考えてくれた。それが、機関学校への転科だったのだ。 「俺など、いなければよかったんだ・・・」 それは、マイアーも初めて見る、悲しみに満ちた表情だった。 「俺などが、生まれてきたばっかりに・・・」 「それは違うよ!」 マイアーは目の前のルームメイトの長身を抱き締めた。ロイエンタールへの思いを自覚しながらも、負い目を感じるあまり、まったく気のない素振りを続けていたが、もう限界だった。愛しい者に、このような顔をさせた自分が許せなかった。 「謝らなければならないのは僕の方だ。僕のせいで、ロイエンタールをあんな目に・・・傷つけてしまった」 少しずつ自分に預けられる重みを感じ、マイアーは腕に力を込めた。 「ごめん。本当にごめん」 「謝るな」 肩に頭を凭れ掛けたまま、ロイエンタールは呟くように言った。 「あんなことで、俺は傷つかない。誰も、俺を傷つけることなど出来ない。だから、謝らなくていい」 マイアーはロイエンタールをぎゅっと強く抱き締めた。同い年の自分が、これから先もきっと持ち得ないほどの誇り高さを彼は持っている。そのことを眩しく思うと同時に、胸が締め付けられるほどの切なさを感じた。ロイエンタールの心は鎧を着ている。傷つくこともないだろうが、鎧に包まれた心は冷たく凍え、暖かさを感じることもないだろう。 ーー結局、僕は何も出来なかったな・・・。 マイアーは、ロイエンタールの両肩をつかみ、のぞき込むように顔を見た。 「ロイエンタール・・・、もっと自分を大切にして。僕の愛するものを、君も愛してくれよ・・・」 その言葉の真意を確かめるように、見慣れた金銀妖瞳が至近距離からマイアーの半分光を失った目をのぞき込んだ。 ーー好きだった。初めて会ったときから、ずっと・・・。 言葉に出来ない思いを、心の中だけでそっと告げる。そして、愛の代わりに、機関学校に行くと決めたとき、心に芽生えた思いを口にした。 「僕が軍に残るのは、皇帝や門閥貴族のためじゃない。君のためだ。君のために僕は僕の全てを捧げるよ。例え両目の光を失ったとしても!」 マイアーは腕を解き、一歩下がって敬礼した。 「未来の、ロイエンタール閣下に!」 「で、マイアーはなんで転科なんかするんだ」 ワーレンから、マイアーの進路変更について教えられたビッテンフェルトは首を傾げた。 「あいつは、死んでもロイエンタールの側を離れないと思ったけどな」 「死んでもって、幽霊になってとりつくのか? 想像できて笑えん冗談だ」 ワーレンはビッテンフェルトの軽口を窘めてつつ、意外そうな顔をした。 「あいつは目が悪かっただろう? それが原因と聞いたが」 「えっっ! そうだったのか? 全く気づかなかった。」 一対いつからだよ、と眉を寄せ珍しく脳味噌を働かせているらしいビッテンフェルトに、ワーレンはそうそうと思い出したように言い出した。 「ロイエンタールのことを、よろしく頼むってよ」 「へっ?」 きょとんとした顔を見て、結構可愛い奴だなとクスッと笑ってワーレンは続けた。 「つまり、親衛隊長の任をおまえに譲るということだろう」 「はあ? なんでだよ!」 適任だろ? と、動揺するビッテンフェルトに返しながら、ワーレンはマイアーと交わした会話を思い出した。 「それなら自分でビッテンフェルトに頼んだらどうだ?」というワーレンに、マイヤーは少し意地の悪い表情を浮かべて言ったのだ。 「奴もロイエンタールに惚れてるだろ? 恋敵の恋の成就を助けてやるほど、僕はお人好しじゃないよ」 と・・・。 二人の視界に、大きなスーツケースを引くマイアーと、ボストンバッグを提げたロイエンタールの姿が入ってきた。 「さあ、新親衛隊長殿! 傷心の奴を慰めてやれよ!」 背中を強く押されて、前につんのめったビッテンフェルトは、何をするんだと悪態をつきながらも、そのまま駆けだした。 始まりの季節は、別れの季節でもあった。後戻りできない時間の流れを、皆肌で感じていた。 <了> |