惜別の朝(1) |
3年生に進級した朝、士官学校生たちは、生徒玄関前の掲示板前に群がっていた。そこには新学年のクラスが貼り出されている。 ビッテンフェルトは恐る恐るA組の最初から目を通していった。2年の学年末にはいろいろとあったものだから、去年に増して不安が大きい。また、去年以上にAに残りたい気持ちも大きい。その希望が不安を増大させてもいるのだが・・・。 「あった!!」 定員50名のぎりぎり最後の列に自分の名前を見つけた彼は、両手の拳を振り上げて喜んだ。その様子を見て、ワーレンが苦笑を浮かべながら肩を叩いてきた。 「お前、残れたのか、よかったな」 年度末の騒動を知っているワーレンは、もう無茶はするなよと言い、なにはともあれ今年もよろしくな、と握手を交わした。 皆自分のクラスを確認し終え、掲示板の前には人もまばらになってきた。そんな中、二人は奇異な光景を目にしていた。 「何をしているんだ、あいつは・・・」 二人の目線の先には、掲示板に射るような視線を向けているロイエンタールがいた。彼ほど自分のクラスの確認が楽な生徒はいない。入学以来学年主席の彼は、A組のトップに名があるはずで、実際そうであったのだから。しかし、今、ロイエンタールは貴族の子弟が集められているE組の掲示の前に立っていた。3学年の全ての生徒の名前の目を通したであろうロイエンタールは、しばし呆然と立ち尽くしていたが、再びA組の掲示の前に戻ってきた。 「おい、ロイエンタール。何をしている?」 常になく動揺している様子のロイエンタールを、からかってやろうとビッテンフェルトが声をかけた。 「ないんだ」 「なにを言っている? お前の名前なら、ほら、一番上にあるだろうが!」 ピシリとロイエンタールの名前を指してやる。こいつ、柄にもなく俺たちをからかっているのかと、顔をのぞき込むと、希有な瞳に不安に色が滲んでいた。ドキッと我知らず胸が鳴ったとき、ロイエンタールが口を開いた。 「マイアーがいない」 「えっ?!」 そういえば、いつも自分の前後に名前を連ねていたマイアーだが、今年は見かけなかったような気がする。ビッテンフェルとは自分の前後に絞って見直してみたが、やはりそこにマイアーの名はない。まさか、あのロイエンタールの親衛隊長殿が、A組から転落したのか? と、B組の掲示に目を遣ったところ、ロイエンタールが身を翻し駆け出そうとした。 「どうしたんだよ!」 とっさにその手を掴み、問いかけた。 「もう何度も確認した。ここにマイアーの名前はないんだ!」 掴まれた腕を振りきって、ロイエンタールは駆けていった。思わず追いかけそうになったビッテンフェルトを、ワーレンが引き留めた。非難の目を向けたところ、ワーレンハが訳知り顔で首を横に振った。 「一人で行かせてやれ」 「お前・・・何か知っているのか?」 ああ、と頷き悲しげな笑みを浮かべた。 「間に合うといいんだが・・・」 学生寮に駆け戻ったロイエンタールは、自室の扉を勢いよく開けた。そしてそこに、スーツケースを提げたマイアーの姿を認めた。 「マイアー・・・何を・・・?」 室内を見回すと、ロイエンタールが部屋を後にしたときと様子が異なっていた。そう、彼のルームメイトの存在感が完全に消え去っていたのだ。 「どういうことだ?」 マイアーはロイエンタールの問いには答えず、「随分早かったね」と小さく言った。 「マイアー!」 いつもは周囲を睥睨し、冷たく光る金銀妖瞳が、不安に揺れているのをマイアーは見た。 「ごめん。君にさよならをいう勇気がなくて、黙って出ていくつもりだった」 「出てって・・・、どこに? どうしてだ!」 ロイエンタールはマイアーの手からスーツケースを奪い、床に置いた。 「先生方の薦めもあって、転科することにしたんだ。僕は3年生から機関学校に行く」 「機関学校・・・」 理数系に滅法強いマイアーは、反面実技が非常に苦手だった。確かに、マイアーにとって機関学校という選択は十分にあり得るものだった。だが、なぜ今になって・・・。 ロイエンタールはハッとして、左手を上げ、そっとマイアーの顔の右側に触れんばかりに近づけた。 「やはり、そうだったのか・・・」 ロイエンタールの言葉に顔を横に振って、初めてマイアーは手の存在に気付いた。 「俺の、せいだ」 マイアーはロイエンタールの左手を掴んで言った。 「違うよ。ロイエンタールのせいじゃない。これは、僕が悪いんだ。僕が浅はかだったために、君をあんなに傷つけてしまったんだ」 二人の脳裏に、1年の終わりの、卒業式を間近に控えたあの日の記憶がまざまざと蘇った。 「マイアー君?」 突然見慣れぬ上級生に名を呼ばれ、マイアーは直立不動の姿勢をとった。襟章を見れば5年生。まもなく士官学校を巣立っていく士官候補生だった。 「ロイエンタール君のルームメイトだね? 彼が旧校舎の方で君を探していたよ」 「はっ、ありがとうございます!」 マイアーの心は高揚していた。最上級生に声を掛けられたこともあるが、あのロイエンタールが自分を探しているのだ。初めてあったときから、マイアーはロイエンタールに惹かれていた。それがどういう感情か、自分でも理解できないものだったが、それでも、ロイエンタールの傍にいることが嬉しかった。優秀で美しくて冷厳で、そのくせ儚げな様は、研ぎすました剣の刃先を感じさせた。そのロイエンタールが自分に何の用だろうと、嬉しい緊張を感じながら、マイアーは旧校舎に急いだ。 「んっぐ」 旧校舎の扉に手を掛けたとたん、誰かに後ろから口を覆われ、後ろ手に締め上げられた。何が起こったかわからないまま、マイアーは旧校舎内に連れ込まれた。 「くくくっ、こんなに簡単にいくとはな」 旧校舎内の暗がりには、数名の気配が感じられた。 「ハルツェン、ロイエンタールのところへいって、彼のルームメイトが困っていると伝えて来い」 「わかった、フンパーディンク、いや、もうすぐ男爵様だな」 ざわざわと震う空気を後にして、一人の上級生が出ていった。何が起こっているのかわからないまま、呆然としているマイアーの前に、男爵と呼ばれた上級生が立ちふさがった。 「君のおかげで、わたしは愛しいロイエンタールをものにできる。君も見ているといい。君のルームメイトの乱れる様を。望むなら君にも参加の資格を与えるよ。一番の功労者だからね」 ようやく、マイアーは状況を理解した。そして、自分の浅はかさと愚かさと、これから起こるだろう悲劇を思い立っていられなくなった。 「マイアー? いるのか?」 永遠にも思える時間が経ったとき、マイアーの耳に懐かしい声が聞こえた。しかし、今一番聞きたくない声でもあった。 「おや? 応えないのかい?」 返事をしなければ声の主が立ち去るのではと考えていたマイアーに、フンパーディンクが代わって応じた。 「ここだよ。君のルームメイトはここにいるよ、ロイエンタール」 夕暮れの赤い光と共に、ロイエンタールが旧校舎の中に入り込んできた。マイアーは萎えた体に渾身の力を込めて叫んだ。 「来るな、ロイエンタール! 逃げろ!」 <続く> |