続々・待つ心(3)



シルフィードの森を闇が覆い始めた頃、ロイエンタールは戻ってきた。
「お帰りなさいませ、オスカー様」
 いつもと変わらぬ風で出迎えたワグナーの声に、ベルゲングリューンは弾かれたように玄関ホールへ飛び出した。そしてそこに、懐かしい姿を見い出した。さらに駆け寄ろうとしたとき、ロイエンタールと目があった。そのとき、感じた懐かしさに彼は戸惑いを覚えた。こちらに来てから柔和な笑みを浮かべさえしていた目元は、怜悧な光を宿し、口元は堅く引き結ばれていた。これはまるで、以前の閣下だ。自分が主席幕僚としてお仕えしていた閣下の姿だ。
「閣下・・・」
 動揺を隠せぬまま呼びかけた声に、ロイエンタールは冷たく一瞥をを与えた。
「ベルゲングリューン、話がある。後で俺の部屋に来い」
 そう言い放つと、ロイエンタールはベルゲングリューンの脇をすり抜け、階上に姿を消した。呆然とその後ろ姿を見送るベルゲングリューンに、ワグナーは深々と頭を下げた。


 半時間ほど経ち、ベルゲングリューンはロイエンタールの自室の扉を叩いた。内側からの入室を許可する声を聞き、扉を開けると、部屋着に着替えたロイエンタールがいた。白いシャツに黒いパンツといういでたちが、上着を脱いだ軍装に見え、ベルゲングリューンは思わず目を逸らした。
「例え陛下のご命令があったとしても、以前の職に戻ることはできぬ。汚名が晴れたからといって、のこのこと衆人の前に姿を現せ得るほど、俺は厚顔ではない」
「・・・」
「考えてもみろ。今、ノイエラントを動かしているのは卿らであって俺ではない。アイデアが俺のものであったとしても、それを運用しているのは卿らであるし、これからの課題は卿らが見つけていくものだ。過去にいつまでも囚われていてはならぬ」
「しかし!」
 自らを「過去」と断じたロイエンタールの言葉を、ベルゲングリューンは押し止めなければと思った。だが、役者はロイエンタールの方が上である。畳みかけるように言葉は続けられた。
「卿らは今を生きている。過去に囚われ歩を進められぬのならば、もうここには来ないことだ、ベルゲングリューン」
「閣下!」
 ロイエンタールは話は終わりだとばかりに背を向けた。 ベルゲングリューンは動けなかった。白くなるほどに両手を握りしめ、自らの不甲斐なさを呪った。
 これでいい、とロイエンタールは思った。ベルゲングリューンの求める「オスカー・フォン・ロイエンタール」という男はもういない。それさえ分かればこの男ももうここに来まい。来ないと分かっていれば、俺も何も期待せずに静かに生きていくことができる。そう、「あの頃」のように・・・。
 それにしても・・・、フッとロイエンタールは自嘲した。この俺が愛されることを望むとは、思い上がりも甚だしい。

 上り始めた弦月に照らされ、ロイエンタールの背中が泣いているように見えた。
 俺のことなど忘れて、卿は卿の生活に戻れとロイエンタールは言う。だが、忘れられるはずがない。一生を捧げると己に誓ったこの方を、どうして忘れることができるだろう!
「閣下・・・」
「なんだ、まだいたのか」
 少し振り向いた横顔は、冷たく冴え冴えとしている。だが、自分の前ではもう、その仮面は被らないでいてほしい。
「閣下、愛しています」
 むっと眉をしかめたロイエンタールが、語気を強めていった。
「卿の想う『閣下』はもういないと、俺は言ったはずだが!」
「違います!閣下!・・・いえ」
 ベルゲングリューンはじりっじりっとロイエンタールの方に近づいた。
「オスカー様・・・」
「!!」
「小官・・私がお慕いしておりますのは、今私の目の前にいらっしゃる、あなたなのです」
 気圧されたように後ずさるロイエンタールと、じわりじわりと距離を縮める。
 何と言えば分かってもらえるのだろう。ベルゲングリューンは己の思いを口にすることの難しさに困惑した。
「あなたは私の命です・・・」
 今まで何度も伝えてきた言葉が口からこぼれた。そう、この方は己の命だ。この方のいない世に生きる意味はない!
 ロイエンタールの表情は逆光でわからない。しかし、ロイエンタールからはベルゲングリューンの顔がよく見えていた。縋るような挑むような懇願するような慈しむような、真剣な緑の瞳が熱を帯びて自分を見つめている。胸の奥から湧いて出た痺れるような感覚が、全身を包み込んだ。
 手を伸ばせば触れられるところまで来ていた。後退することを止め、立ち尽くしているロイエンタールの両腕を掴み、自分の方に引き寄せた。抵抗することなく自分の腕の中に収まったロイエンタールを、ベルゲングリューンはそっと抱き締めた。
「あなたのすべてを愛しています。初めてお会いしたときから、ずっと、ずっとお慕いしておりました」
「ベルゲングリューン・・・」
「総督府にお戻りくだされば、以前と同じようにお側でお仕えできると・・・、浅はかでした。あなたをこれほど苦しめることになるとは、思ってもおりませんでした。お許しください」
 ベルゲングリューンの背に、ロイエンタールの手が回されるのを感じた。
「どこにいらっしゃろうとも、何をされていようとも、あなたを想う私の気持ちに変わりはありません」
 肩にもたれ掛かる頭が、小さく頷いたような気がした。
「愛しています、私の閣下。閣下も、私を愛してくださいますか?」
「饒舌だな」
 その声の響きからは、先ほどまでの冷たさは感じられない。
「ちゃんと言わなければ、あなたはいろいろと曲解なさいますから」
 ロイエンタールは頭を上げ、ベルゲングリューンを見つめた。立ち位置が変わったからか、今は金銀妖瞳の色までもがよく見える。もう冷たい仮面はそこにはない。もう、2度と自分の前であの仮面は被らせまいと、新たな誓いを己の胸にたてたとき、ふと目の前が陰った。
「これが答えだ」 
 掠めるような口づけに、ベルゲングリューンは腕の中の愛しい人を強く抱き締めた。目の前の白い首筋に唇を当て、熱を持った身体をグッと押しつけた。
 甘い痺れは全身に行き渡り、首筋をくすぐる吐息にさえ、切ないため息がこぼれてしまう。下腹部に押しつけられる熱の形に、目眩がしそうだった。
「お嫌ならば、これ以上はいたしません」
「ん?」
「身体だけが目的と、思われたくありませんから」
 この方のためならば、何だってできる。今までも、耐えてきたのだ。
「誰が、今更そのような・・・」
 切れ切れに、吐息混じりに耳元で紡がれる言葉は、ベルゲングリューンのわずかに残っている理性をとろけさせた。



 躊躇いがちに内壁を探っていた指が、ロイエンタールの唇からこぼれる喘ぎとともに、今は激しく蠢き出し、幾度となく高みに上らせた。打ち震える薔薇色の花芯からは、しとどに透明な蜜がこぼれ、会陰を伝い、ベルゲングリューンの指を飲み込む菊座で淫らな音を立てていた。 
 髭の合間からのぞく唇は、まるで別の生き物のように、白い肌の上を余すところなく這い回り、全身を麻痺するように痺れさせる。
「ベルゲン・・グリューン・・んっ」
 もっと確かな熱を求めて名前を呼べば、その先の言葉を飲み込むように唇を塞がれる。もう、何度同じことを繰り返しただろうか。三本の指を飲み込むそこは、とめどなくざわめき続ける。
「名を・・・ハンスと、呼んでくださいませんか?」
 貪るような口づけから解放されると、行為とは裏腹な怖ず怖ずとした声が聞こえ、ロイエンタールは堅く瞑っていた両目を開けた。のし掛かる男の、まっすぐに自分を見つめる緑の瞳を見つけ、ああ、この眼が好きだったと思った。
「はぁ・・ハンス・・・。・・・来て・・来てくれ」
「御意・・・」
 引き抜かれた指にかわり、あてがわれた熱いたぎりに、ロイエンタールは小さく仰け反った。


翌朝早く、ベルゲングリューンは帰り支度を整え、玄関ホールに立っていた。見送るのはワグナー一人。これは、いつもと同じである。
「いつも朝早くに申し訳ありません」
「いえいえ、帰りの便の時間を考えれば仕方のないことです」
 ワグナーはバスケットに入った軽食を手渡しながら、ベルゲングリューンの様子を伺った。
「仲直りは、されましたか?」
 唐突にそう尋ねられ、思わずベルゲングリューンは昨晩の出来事を思い出し、顔を赤らめた。
「そう、ですか。それはようございました」
 一人納得して頷くワグナーに、居心地の悪さを感じながらも、頭を下げた。
「閣下を、どうかお願いいたします」
「頭をお上げください、提督。こちらこそ、主人のことをお願いいたします。それにしても・・・」
 ワグナーはちらりと階段の方を見やった。
「今日も、お見送りはなしですね?」
「はあ・・・」
 まだ本調子でないロイエンタールに、無理をさせすぎた反省のあるベルゲングリューンは、曖昧な返事しかできない。
「ここだけの話ですが、オスカー様がお見送りなさらないのは、お寂しいからだと思います。出ていかれる提督にはお分かりにならないかもしれませんが・・・」
 私も辛うございますもの、とワグナーは心なしか寂しく微笑んだ。
「必ず、すぐに、戻って参ります。そう、閣下にお伝えください」
 意気込むベルゲングリューンに、まあ、あまりご無理はなさいませんようにと、荷物を持って車まで移動した。運転席の扉を開け乗り込むときに、ちらりとロイエンタールの寝室の窓を見た。人影があることを期待したが、生憎影が濃く室内の様子は伺えなかった。
 だが、いい。ベルゲングリューンはあのベッドの上で交わした会話を思い出した。今すぐにとは言わないが、もう「仕事」に戻られることはないのかと、尋ねたとき、ロイエンタールはベルゲングリューンの顎髭を弄びながら言ったのだ。もし、お前が本当に必要とするときには助けになろう、と。自分の言を翻したことのないこの方が、なんと甘い言葉を掛けてくださったのかと、今思い出しても胸が熱くなる。

 おそらくは、その向こうにいるであろう人に向かって、頭を下げ、ベルゲングリューンは車を発進させた。自らのいるべき日常に、愛しい人の面影を抱いて。

<了>


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