続々・待つ心(2)



沈痛な面もちで一人帰ってきたベルゲングリューンは、ワグナーと顔を合わすと、その髭面を歪めてうなだれた。「ワグナー殿、申し訳ございません」
「何があったのですか?」
 ワグナーは大凡の見当がつきながらも、そう問い返した。
「実は・・・」
 ベルゲングリューンの言葉を聞きながら、ワグナーは己の予想が当たっていたことを知った。同時に、予想を上回るロイエンタールの反応に、驚きを隠せなかった。内心の動揺をうまく隠しながら、ベルゲングリューンを居間に誘い、そして自らの心を落ち着かせるために、いつもよりも時間をかけてコーヒーを淹れた。
 ベルゲングリューンはソファーで頭を抱えていた。その不器用な姿を見て、ワグナーはわかったような気がした。なんでも器用にそつなくこなす主人には、この生真面目な不器用さが愛しかったのだろう、と。
「閣下は・・・、お戻りになられるでしょうか?」
 目の前に置かれたカップに手を着けずにうなだれる主人の本部下に、ワグナーは語調を強めていった。
「当家の主人を、お見くびりなさいますな」
 はっとして顔を上げたベルゲングリューンに向かって、ワグナーは言葉を続けた。
「主人は、オスカー様は、そのような弱い方ではありません。何もかも捨てて逃げることが出来るようなお方なら、反逆者となることなどなかった、それは提督が一番よくご存じでしょう?」
「はい・・・」
「『考えさせてくれ』とオスカー様は申し上げたのでしょう? なら、考えがまとまれば、必ず戻っていらっしゃいます」
「ええ」
 少し顔を上げたベルゲングリューンと目があった。
「あの方は人一倍弁の立つ方です。もし、気に入らないことがあれば、嫌みの一つや二つでは済みますまい」
 緑の瞳が遠くを見るような目つきになった。
「閣下は・・・、閣下は『そのために俺を生かしておいたのか』と・・・。傷ついた目をしていらっしゃいました」
「『そのため』ではないのですね?」
「ワグナー殿!」
 悲痛な声を上げ立ち上がったベルゲングリューンを、ワグナーはじっと見据えた。暫く見つめあった後、「お掛けになってください」と穏やかな声で言った。
「『そのため』ではないことは、提督のご様子を拝見しておれば、私にもわかります。あの方におわかりにならないことはないとは思うのですが・・・」
 少し聞いていただけますか、と前置きし、ワグナーは語り始めた。それはベルゲングリューンも初めて聞く、ロイエンタールの過去であった。


ーーオスカー様は、ご両親からの愛情というものを、無条件に愛されるということを、全くご存じありません。と、申せば、戦災孤児やその他にも、そういう子供は多くいるとお思いになるでしょうが、オスカー様の場合はそれとは事情が異なります。
 私の母が、早くに亡くなられたオスカー様のお母様に代わって乳を上げておりましたので、私とオスカー様は、いわば乳兄弟として育ちました。お小さい頃のオスカー様はそれはそれはお可愛らしくてお美しくて・・・、けれども、いつも何かに怯えている様子で少しも笑わない、魂のないお人形のような子供でいらっしゃいました。ある夜、それは、そう、近くに移動遊園地が来た時でした。喜ばせたい一心で、私はオスカー様を連れ出そうと試みたときがありました。こっそりとお屋敷に忍び込んだ私は、様子がいつもと違うことに気づきました。いつもは静かなお屋敷に、この時は、男の怒鳴り声と、ものの壊れる音が断続的に響いていたのです。私は小さいながらも主家の一大事と、物音のする方に駆けつけました。そして、見てしまったのです。おそらく大人たちが外聞を恐れて決して口にしなかった光景を・・・。怒声を上げているのは旦那様ーーオスカー様のお父様でした。旦那様な小さなオスカー様に馬乗りになり、手を上げていらっしゃいました。私の気配に気づかれたのでしょう。旦那様は上から立ち上がり、私を睨んで出ていかれました。出ていく間際にオスカー様を振り返り、”お前など生まれてこなければよかったのだ”と言い捨てて・・・。オスカー様の体には、無数の傷跡がありました。お顔や手など、外に出ている部分には全く傷はありませんでしたので、そのときまで気づかなかったのです。オスカー様は傷の手当ての間、しきりに旦那様を庇うようにおっしゃっていました。僕が生まれてきたから、お母様は死んだの。僕がお父様を不幸にしているの。みんな、僕が悪いの、と。お父様は僕のことが嫌いなの?と、泣きじゃくるオスカー様に、私は、それがどういう意味かわからないまま、でもきっとオスカー様をお慰め出来ると信じて、その少し前に立ち聞きしたことをお話しいたしました。それは、一目で爵位持ちの貴族とわかる男と旦那様の会話でございます。貴族の男はは旦那様にしきりにオスカー様を”譲ってほしい”とおっしゃっていました。相応の礼はすると言う男に向かって、旦那様は”オスカーを余所にやるつもりは毛頭ない”と、きっぱりと断っていらっしゃったのです。私は、旦那様はオスカー様のことを愛していらっしゃるから手放さないんだと、暴力を振るうのはお酒のせいなんだとお慰めしたのです。が、そのことが間違っていたということは、それから10年ほど後にオスカー様ご本人からお聞きしました。父は俺を愛していたんじゃない、俺の顔を愛していたんだ、と自らを嘲るようにお笑いになりながら・・・。
 お年頃になられたオスカー様に、多くの女性が言い寄ってきましたが、オスカー様からすれば、皆財産や地位か、あるいは身体が目的で群がってくるにすぎない者だと。私の目から見て、本気で愛情を注いでくださっている方もいらっしゃったと思うのですが、オスカー様には、それも信じられなかったのでしょう。いえ、おわかりにならなかったのかもしれません。愛するとか愛されるとかいうことが・・・ーーー


 ベルゲングリューンはハッと顔を上げた。自分を死者だと思っていたからこそ、ロイエンタールは向けられる愛を素直に受け止めることが出来ていたのではないかと。何も持たぬ、自分自身を愛されているのだと信じられたのだろう。
ーーお前は俺の”何を”愛しているのだ?
 あの時のロイエンタールの目は、そう語っていたのだろう。向けられる思いに甘えて、己の思いをきちんと伝えていなかったことが、誤解を招き大切な人を傷付けたのだ。不器用だとか堅物だとか、そんなことは言い訳にならない。
「オスカー様は、ずっと待っておいででした。今は提督、あなたが待って差し上げてくださいませんか?」
 冷めたコーヒーを淹れ換えながらのワグナーの言葉に、ベルゲングリューンは頷いた。そして知った。待つという行為がもたらす、切ないほどの不安と期待の綯い交ぜになった気持ちを。

<続く>


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