die Grippe



「珍しいことがあるものですね」
 軍高官用の公用車の中、レッケンドルフが同乗するベルゲングリューンに囁いた。
「昨夜は・・・、遅くられたのでしょうか?」
 いろいろな意味を含んだレッケンドルフの問いかけに、ベルゲングリューンはしかめっ面で応じた。
「上官の私生活を詮索するのもではないぞ」
「しかし、提督も気になられるでしょう?」
「・・・」
 敬愛するロイエンタール閣下が、昨夜どのように過ごされたのか、気にならないなんてものではない。ましてや、今朝のように朝っぱらから船を漕ぐ姿を見てはなおさらだ。

 この日、大規模な演習に出立する艦隊を見送るため、ベルゲングリューンとレッケンドルフは二人して公用車をロイエンタール邸に乗り付けた。いつもと変わらぬ風で車に乗り込んできたロイエンタールは、この日の予定を確認するや、うとうととし始めたのである。普段なら、どんな遠出の場合でも、移動中に居眠りをするなどということがなかった上官である。
 起きていなくてはならないと言う意志と、どうしても眠りたいという欲求が葛藤してか、ロイエンタールの頭はゆらゆらと揺れる。その様を、斜め向かいのシートに座り見ていたレッケンドルフは、
「ちょっと失礼致します」
と言うやいなや、ロイエンタールとベルゲングリューンの間に割り込むように体を入れてきた。いくら大型の公用車であるとはいえ、後部シートに大の大人が三人腰掛けるとさすがにきつい。ベルゲングリューンは、閣下に窮屈な思いをさせまいと、レッケンドルフと入れ替わるように、前方のシートに移動した。
「何を考えているんだ、卿は!」
 重ねてぼやこうとする幕僚長を、レッケンドルフは顔の前に指を一本たてる身振りで制した。
「ん?」
 見ると、レッケンドルフはロイエンタールの隣にぴたりと身を寄せじっとしている。すると、しばらくゆらゆらと船を漕いでいたロイエンタールの頭が、レッケンドルフの肩口にすとんと落ちついた。
 してやったりと顔を輝かせる閣下の副官に、ベルゲングリューンは大きくため息をついた。
「まったく、卿は何を考えているんだ・・・」
「何って、いつも閣下のことを考えております」
 さらさらとロイエンタールの暗褐色の髪が顎をくすぐり、愛用の香水の香りが鼻孔をくすぐる。レッケンドルフはもたれ掛かるロイエンタールの頭に頬を寄せた。
「こら、やりすぎだぞ」
 まるで恋人同士のように体を寄せ会う様子を見て、ベルゲングリューンは小さく叱責した。しかし、レッケンドルフはますますロイエンタールに密着する。
「こら、レッケンドルフ少佐!」
 少々声を荒げたベルゲングリューンを、レッケンドルフは今までの浮ついた態度を改め、真剣な面もちで見返した。
「提督・・・」
「ん、どうした?」
「閣下って、こんなに体温が高かったでしょうか?」
「体温? 閣下はどちらかというと、低めな方だぞ」
 記憶を遡り思い出すが、その指先も、その唇も、いつもひんやりとしていた。
「そうですよね。でも、すごく熱いんです」
「え?!」
「もしかして、御不例ではありませんか?」
 慌てて触れてみた額も首筋も、いつもよりもかなり熱かった。そう思って見れば、顔色はいつもより青白く、眉も苦しそうに顰められているようにも見えた。なによりも、息づかいが荒い。このような、明らかな兆候を見落とすなど、今日一日ロイエンタールの側につき従えることに、舞い上がっていた自分が情けなかった。
「今日の御予定をキャンセルすることはできないだろうか?」
 自分よりも、閣下の予定を熟知しているレッケンドルフに尋ねた。もとより、キャンセルができないことは承知しているが。
「できません。本日の見送りには皇帝陛下もお出ましになられますし」
「そうだったな、皇帝陛下もな」
「ええ、それに双璧が揃って公の場に登場するのは久しぶりですからね。ソリヴィジョンの中継が入っているようです」
 ここフェザーンでも、双璧の人気は高い。ましてや今日は皇帝陛下と揃い踏みだ。市民の関心は高いことだろう。それに、収束に向かいつつあるとはいえ、まだまだ戦時下である。軍高官の不例は、いかなる戦況の変化をもたらすとも限らない。
「しかたがない。今だけでも休んでいただこう」


 車外に降り立ったロイエンタールの足取りは、意外にしっかりしていた。しかし、この上官の尋常ならざる精神力を知っている彼らは、その様子にまったく安心できなかった。
「ベルゲングリューン提督、閣下をお願いいたします」
 ここから先は副官であるレッケンドルフは随行できない。公用車の傍らに立ち敬礼し見送る年若い同僚に、ベルゲングリューンは力強く頷き返し、先を行く瑠璃紺色のマントを追いかけた。
「閣下、決してご無理はなさいませんよう」
 青白い横顔につい口にした身を案じる言葉に、不機嫌そうに眉をしかめながら、
「無理とは何のことだ」
と素っ気ない返事が返ってきた。だが、こちらを睨む流し目が熱に潤んでいて、確かに普通の状態ではないことを伺わせる。さらに言葉を続けるのも億劫そうに黙り込んだ背中を、ベルゲングリューンもただ見送るしかなかった。

 随行員のために用意された控え室に行くと、ミッターマイヤーの副官アムスドルフが手を挙げてレッケンドルフを招いた。
「もうすぐ始まるぞ」
 そこはソロビジョンの真前で、画面は歓送式が行われる直前の宙港の様子を映していた。大気汚染を防ぐため、船が地上に降り立つことの少ないフェザーンデは、この光景自体が珍しいのだろう。ワイドショーではこの様子を生中継すべく、多くの取材陣を派遣していた。
 レッケンドルフは壁際におかれたコーヒーポットから紙コップにコーヒーを注ぎ入れると、アムスドルフの隣に座った。
「お、始まった」
 居並ぶ兵士の前を、双璧たるロイエンタール、ミッターマイヤー両元帥を従えた皇帝ラインハルトが優雅に手を振りつつ進んでいく。「ジーク・カイザー」の歓声が自然と沸き起こり、そのざわめきの中、ラインハルトは演壇に立った。
 レッケンドルフの視線は、兵士を鼓舞するラインハルトではなく、その背後に控えるロイエンタールに釘付けされていた。やはり顔色がよろしくない。隣のミッターマイヤーが時々心配そうな視線を送っている。
「ん?」
 軍服のポケットの中で、携帯が振るえているのに気づいた。取り出してみると以前のロイエンタール艦隊分艦隊司令官バルトハウザーだった。
「お久しぶりですね、提督。どうなさったのですか?」
「ああ、レッケンドルフ少佐、卿は元気そうだな。ところで、今ワイドショーで歓送式の様子を見ているのだが、閣下のご様子、おかしくないか?」
「ああ、おわかりになりますか? 実は朝からお熱があるようなのです。今もかなり無理なさっていると思います」
「そうか・・・。卿がわかっているなら安心だ。閣下はご自分に異常に厳しい方だ。くれぐれもご無理をさせるなよ?」
「はい、それでわざわざ電話くださったのですか? 有り難うございます」
 レッケンドルフの胸がジーンとなった。今は別々に働いているとはいえ、元の上官をこれほどまでに気遣ってくれる部下がいるとは・・・。これも閣下のご人徳の賜物だな、と思った。

 同じ頃、歓送式に参列していたベルゲングリューンの携帯がけたたましい音を立てた。いつもマナーモードに設定してある携帯が、音を鳴らすのは、それが軍の緊急連絡回路を用いているときに限られている。周囲の諸将に頭を下げながら列を離れ、携帯端末を取り出した。
「ベルゲングリューン提督!」
 声の主は統帥本部の幕僚であるディッターズドルフ少将だった。
「何かあったのか?」
「それはこっちの台詞だ!」
「何?」
 ベルゲングリューンの携帯は、まくし立てるようなディッターズドルフの声を伝え続ける。
「閣下のあの顔色は何だ? 御不例なのか? 最初はスタッフルームのモニターの色調が狂っているのかと思って、総務課を呼びつけて調整させたんだ。しかし、どこもおかしくないといってな。落ち着いてみてみれば、閣下のマントの色はいつもと同じだったんだ。だから、いつもと違うのは閣下の顔色の方だと気づいてな! どうなんだ? そうとうお加減がお悪いのか? 今日は俺たちが何とかするから、閣下にはお休み願うよう、参謀長からも言ってくれ」
 ベルゲングリューンは頭が痛くなった。どうやら現在の統帥本部は開店休業状態であるようだ。みながみなモニターの前にかじりついて、この歓送式の様子を、もとい、閣下の姿を見ているのだ。
「この忙しいときに、総務課を呼びつけてモニターの調整をさせただと・・・」
 ベルゲングリューンは、大きくため息をついて気持ちを落ち着けようと試みた。
「閣下のことはこちらに任せろ。卿らは、卿らはしっかり仕事をしろ!」
 まだ何かいい募るディッターズドルフを無視し、回線を切った。
「まったく、何をしてるんだか・・・」
 しかし、自然と頬が緩んでくる。なんだかんだといっても、閣下が大切に思われていることは、彼にとって自分のことのように嬉しいことだったのだ。


 演習艦隊が無事出発し、ロイエンタールが二人の前に姿を現した。隣にミッターマイヤーの姿が見える。
「ベルゲングリューン中将、ロイエンタールを休ませてくれ。これは陛下からのご命令でもある」
「はっ!」
 敬礼して答える部下に、大袈裟な、と呟いてロイエンタールは車中の人になった。行きと同じように身を寄せたレッケンドルフの肩を枕に、再びロイエンタールは夢の人となった。
「おい、あまり密着していると、卿にうつるぞ」
「ええ、いいんです。人にうつせば早く治るとも言うではありませんか? 小官は閣下のお風邪ならば喜んでお引き受け致します」
 はあぁ、と再びベルゲングリューンはため息をついた。
 ロイエンタールを屋敷に送り届け、統帥本部に戻った二人は、目を疑った。スタッフルームには、花やらフルーツやら、滋養強壮の民間薬やらなんやらかんやらが、集められていたからである。
「閣下に早くよくなって頂きたくてな」
 照れたように笑うディッターズドルフはじめ、統帥本部の普段なら優秀なスタッフを、ベルゲングリューンは一喝した。
「卿らは何をしているんだ! 閣下の御為と思うなら、たまっている書類を少しでも処理しておかなくてはならんと思わなかったのか!」
 それはこれからするさ、という返事に、本日何度目になるかわからないため息を、ベルゲングリューンはついた。
「何だよ、卿に頼もうと思ったが・・・、レッケンドルフ少佐、閣下に届けてくれるか?」
「はい!」
「いや!」
 レッケンドルフとベルゲングリューンは同時に口を開いた。
「小官が責任を持ってお届けいたします!」
「俺が必ず閣下にお届けする!」
 二人の間に激しい火花が飛び散った。

<おしまい> 

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