続々・待つ心(1)



 いつもは一人、気ままに馬を駆けさせるシルフィードの森の中を、この日は後ろを気遣いながら手綱をとる。大人しい栗毛にベルゲングリューンを乗せ、自らは芦毛に鞍を置いた。乗馬には不慣れな髭の元部下は、馬に任せて後をついてきている。そんな彼を待ちながら、立ち止まりながら進むので、気性の荒い芦毛は不服そうに前足を鳴らした。
「たまには、こうしてゆっくり行くのもよいではないか」
 首筋を慰撫してやると、甘えるように鼻を鳴らした。

 ロイエンタールは徐ろに周囲を見回した。いつもと変わらない景色だが、そこから受ける印象は、いつもとは大きく違っていた。森を進むとき、谷を越えるとき、川に沿って歩ませるとき、死の誘惑を感じないときはなかった。いや、明確にそれを「死」とは思わなくても、そのまま無に帰すような感覚が、常に付きまとっていたのである。すべての懊悩から解き放たれる、その誘惑は甘美であり、そのまま身を任せてしまうことができたらと、考えたことは一度や二度ではなかった。
 しかし、この日は死の淵は口を閉ざしてしまったのか、森はただただ静かで美しかった。

「閣下、すこし休憩いたしませんか?」
「なんだ、疲れたのか?」
「はあ、それもございますが、ワグナー殿がお茶の用意を持たせてくださいましたので」
 なるほど、とロイエンタールは頷いた。そこは湖畔の草原であった。静かに凪いだ湖面に傾きかけた陽光が煌めく様は美しく、ベルゲングリューンがここを休憩場所に選んだ理由は、ロイエンタールにもよくわかった。
 手頃な倒木を見つけ、ベルゲングリューンはお茶の用意を始めた。言われるままに腰を下ろしたロイエンタールは、以前と変わらず甲斐甲斐しく世話を焼く元部下の様子を懐かしく眺めた。ベルゲングリューンはワグナーに持たされたと思われる袋から、魔法瓶を取り出しカップにコーヒーを注ぎ入れ、恭しくロイエンタールに手渡した。わざと指先に触れるように受け取ると、狼狽したように慌てて手を引っ込める。愛していると言い、この身を抱きすめさえした男の初な反応に、ロイエンタールはクスっと笑った。
 主人の好みに合わせた、甘さ控えめのアップルパイを食べ終えた後、ベルゲングリューンは妙に言葉少なくなっていた。見れば、手元のカップに視線を落とし、何か物思いに沈んでいるようである。
「何を考えている」
 不機嫌な色を帯びた声に、ベルゲングリューンは意識を現実に切り替えた。構ってもらえないのを不満に思ったのだろう、やはり猫のようだと、咎めるような金銀妖瞳に見つめられて思った。
「閣下の、あなたのことです」
 見つめ返してそう言うと、黒と青の瞳が少し驚いたように見開かれた。
「俺の?」
 訝しげに小首を傾げる、その仕草も表情も、ベルゲングリューンには全てが愛おしかった。
「閣下・・・」
 カップを地面に置き、空いた手を手近にあったロイエンタールの手に重ねた。上から強く握りしめると、ロイエンタールの体がゆらりと動き、ベルゲングリューンの肩口に頭を預けるようにもたれ掛かった。
「肩ぐらい抱け」
 身を強ばらせた髭の元部下に、半ば命令するように言えば、おずおずと肩に腕を回してきた。その微かな腕の力に引かれるように、ベルゲングリューンの胸元に顔を埋め、胴に腕を回して抱きついた。
「閣下!・・・」
「しばらくこうしていろ」
 ロイエンタールは、今までにないほどの安らぎを感じていた。生温かい体温が心と体の強ばりをほぐして、溶け出しそうだ。俺はこの男の「命」なのだとこの男は言う。ならばいっそのこと一つに解け合ってしまえばよいのに、と耳元で鳴る鼓動を聞き思う。

 ベルゲングリューンは腕の中の愛しい人を驚きとともにうっとりと見つめていた。そっと暗褐色の髪に触れると、さらに強く抱きしめられる。湧き起こる切ないほどの男心をどうにか抑えながら、ベルゲングリューンは、心に掛かっていたことを口にした。
「閣下、閣下の汚名は雪がれました。メックリンガー閣下が、あなたの無実を証明してくださました」
「生者は前をのみ見ていればよい。無駄なことを」
「そんな・・・。皆、訳を知りたがっているのです。メックリンガー提督ならずとも、ロイエンタール閣下ともあろうお方が、皇帝陛下に反旗を翻した理由を知りたいと思うことは、当然であろうと、小官にも思われます」
「ふん、物好きな・・・。死者の名誉を回復したとて、何の意味もない。ロイエンタール家が存続しているならいざ知らず・・・」
 ロイエンタールの胸に、ちらりと幼子の顔が浮かんだ。しかし、すぐに、自分とは関わりなく成長する方があの子の為だと考えた。
「死者などと・・・。閣下の死は正式に公表されたものではありません。マスコミが勝手に書き立てただけで」
 腕の中でロイエンタールの体が強ばるのを感じた。
「皆知っているのか? 俺がこうしてここにいることを」
「皆ではありませんが、皇帝陛下、ミッターマイヤー閣下、それに閣下の手術を行った軍医など一部ではありますが。しかし、ここにいらっしゃることは、小官しか知りません」
 ミッターマイヤーから、親友の身を託されたベルゲングリューンは密かに執事のワグナーと連絡を取り、この場所に昏睡するロイエンタールを運んだのだった。後ろ髪引かれながらも、親友の居場所を聞かなかったミッターマイヤーの気持ちも痛いほどわかる。知ってしまえば会いたくなる。ロイエンタールを生かすためには、彼らは二度と会ってはならなかったのだ。
「マインカイザー・・・ミッターマイヤー・・・」
 微かな呟きにベルゲングリューンはハッとした。これは、あの「最期の言葉」ではなかったか。この方はあの時、何を言おうとしていたのか?
「閣下?」
 ベルゲングリューンの呼び掛けに、我に返ったロイエンタールは、胴に回していた腕を解き、胸を押して身を離した。
「それで、卿は俺にどうしろと言うのだ?」
 ベルゲングリューンは居住まいを正した。
「皇帝陛下がお許しくださいましたなら、総督府にお戻りくださいませ。閣下の抜けた穴はあまりに大きい。我らは閣下の残された新領土再建計画を拠り所に、閣下の残された指示を、ただただ実行に移しているだけです。我らは皆、閣下を必要としております」
 真剣に訴える緑の瞳を、何の感情も表さない金銀妖瞳で見つめ返した。そして、ふっとこちらにきてからは見せることもなかった冷笑を浮かべた。
「そのために、俺を生かしておいたのか・・・」
「えっ!? 閣下!」
 とんでもない齟齬が生じていることを感じ、ベルゲングリューンはロイエンタールに両腕を伸ばした。伏せられた金銀妖瞳は、今まで見たこともない色を湛えていた。後ずさりしベルゲングリューンの腕から逃れ、ロイエンタールは立ち上がった。
「少し考えさせてくれ」
 身を翻し、馬に飛び乗り、ロイエンタールは森の奥に姿を消した。ベルゲングリューンは、幾多の戦場に身をおいたときにも感じたことのない、緊張と後悔と恐怖に襲われていた。
「閣下!!」
 悲痛な叫び声が、澄み渡る湖面に虚しく響きわたった。

<続く>


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