続・待つ心



「今日はたくさんお召し上がりになりましたね」
 嬉しそうにワグナーが皿を下げ、食後のコーヒーを運んできた。
「そんなことはない。いつもと同じだ」
 澄ました顔で素っ気なく言うロイエンタールに、ワグナーはくすっと笑った。
「いつもはあまり、お召し上がりにならないのですか?」
 心配だ、と顔に書いて生真面目にベルゲングリューンが問うと、ワグナーは大袈裟に頷いてみせた。
「左様でございます。もともと食は細い方でいらっしゃるのですが、こちらに来てからは特に・・・。まあ、私と二人っきりでございますので、食事が楽しくなかったからかもしれません。今晩は楽しゅうございましたね、オスカー様」
 ワグナーの軽口にロイエンタールは眉根を寄せ、ベルゲングリューンは赤くなった。これ以上からかわれてはたまらないと、ロイエンタールは執事を追い払おうと考えた。
「ハンス!」 
「はい」
「はっ」
 同時に答えた二人のハンスに、ロイエンタールは大きくため息をついた。
「ベルゲングリューン、卿のことではない」
 はあ、と恐縮し更に顔を赤らめたベルゲングリューンに、ワグナーはクスクス笑いながら言った。
「お邪魔なのは私の方でございますね。では、失礼いたします」

 午後10時を過ぎた頃、コンコンと扉をノックし、ワグナーが顔をのぞかせた。居間には彼が退出したときと同じように、二人が差し向かいに座って語らっていた。
「お楽しみのところ、申し訳ございませんが・・・」
 ギロリとロイエンタールがにらんでくるのを構わずに、言葉を続ける。
「オスカー様は、ご就寝のお時間です」
「まだ10時ではないか、子供ではあるまいし」
 不服を言う主人に、ワグナーは今まで何度言ったかわからない言葉を口にした。
「いけません。あまり遅くまで起きていらっしゃると、お体に負担が掛かってしまいます。普通の状態ではないということは、何度も申し上げましたね」
 黙り込み動こうとしないロイエンタールに、ワグナーは人の悪い笑みを浮かべた。乳兄弟として育った彼は、気難しい主人の扱い方を十二分に心得ている。
「提督は明日もここにいらっしゃるのですよ。ああ、それでもお寂しいとおっしゃるのでしたら、提督に添い寝でもしていただきますか?」
「!!」
 金銀妖瞳を大きく見開いた驚きの表情は、すぐに怒りを帯びたものに変わった。からかわれているとわかったロイエンタールは不機嫌そのものの様子で居間を出ていった。派手な音を立てて閉まった扉に、肩をすくめたワグナーは、顔を赤らめたままのベルゲングリューンに呼び止められた。
「ワグナー殿、少しお話があるのです」
 


 シャワーを浴び寝衣を身に纏ったロイエンタールは、寝室の窓を開け放った。春めいた生暖かな風が心地よい。何の花かはわからぬが、芳しい匂いが室内に流れ込んでくる。傾き始めた弓張り月に照らされ、ロイエンタールは目を閉じた。瞼の裏に昼間の光景が蘇る。
 「愛しています」と奴は言った。そしてもどかしくなるほど優しい抱擁をした。背中に回された腕や、頬に触れた首筋の温もりを思いだし、ほぅっと思わずため息が漏れた。
 そっと目を開け月を見た。

 俺は待っているのか、ベルゲングリューンを。

 俺にとっては期待することは裏切られることと同義だった。幼少の頃から嫌と言うほど思い知らされてきた、それは疑うことのない真実であり、傷つくことを恐れ、いつしか何かに期待するということもしなくなった。

 それなのに、俺は今待っているのか。

 叶わぬことを恐れながらも、それでも期待してしまう。愚かしいことだ。今ここで俺がどう思おうが、やってくる結果は同じはずなのに。今までと同じように、粛々と現実だけを受け止めればよい。よいはずなのだ。
 なのに、この胸の苦しさは何だ? 切なさは何なのだ? 物思う心など煩わしいだけと、捨ててしまったのではなかったか。

 ベッドに入り、冷たい絹のシーツにくるまって目を閉じる。心の襞の迷宮に迷い込むくらいなら、例え悪夢であっても夢の中に逃げてしまうことを彼は選んだ。


「閣下の、ロイエンタール元帥閣下の謀反の嫌疑は晴れました」
 新しく淹れたコーヒーに口を付ける前に、ベルゲングリューンはワグナーに告げた。
「メックリンガー閣下をはじめ、ロイエンタール閣下の反逆に最初から疑問を抱いていた方々が、手を尽くして調べてくださったのです。その報告書が先日ハイネセンにも届きました」
 結局、第二次ランテマリオ会戦の折り、ロイエンタールがしたことで、新帝国のためになっていないことは何一つなかった。そのこと一つとっても、ロイエンタールがあの時、何を考えていたかわかりそうなものだった。
「閣下は、新帝国に害なすものを一掃されただけなのです。地球教しかり、トリューニヒトしかり。そこにご自分を含めて考えていらしたことに気づかなかったことは、我らにとって痛恨の極みではありますが」
 ワグナーはベルゲングリューンにコーヒーを勧め、自分もカップに口を付けた。
「それで、提督は主人をどうなさろうというのでしょうか?」
 静かな、それでいて力強い視線を受け、ベルゲングリューンは背筋を伸ばした。
「閣下の抜けた穴はあまりにも大きい。小官らは閣下が残していかれたものを拠り所に、なんとかやっている状態です。皇帝陛下のお許しさえ得られれば、戻ってきていただきたいと思っております」
 腕組みをし目を閉じてベルゲングリューンの言葉を咀嚼していたワグナーは、静かに目を開け、腕組みを解いた。
「このことは提督からお伝えください。しかし・・・」
「しかし、何です?」
「いえ」
 ベルゲングリューンの今の言葉を、そのまま主人に伝えれば、主人はいたく傷つくだろうことは容易に想像できた。主人が彼に求められたいのは、才幹や能力ではないはずだから。
「いつものお部屋をご用意しております。お疲れでしょうから、ゆっくりとお休みください」
 そういうと、ワグナーは案内するため立ち上がった。


 ドアノブに手を掛けると、静かに扉は開いた。鍵が掛けられていなかったことに、胸の奥がざわめいた。そのざわめきさえも聞こえてしまいそうな静かな夜だった。ベルゲングリューンは気持ちを落ち着け、扉の内に身を滑り込ませた。
 ロイエンタールの寝室は、夜とは思えぬほど明るく感じられる。それが、窓から差し込む月明かりのせいだと気づくまで、しばらく身動きができなかった。立ち尽くす彼の耳に、安らかな寝息が聞こえた。部屋の主が寝入っていることを知り、再び彼は動き始めた。春とはいえ夜はまだまだ冷え込みが厳しい。彼は窓際に歩み寄ると音を立てないように窓を閉めた。カーテンに手を掛けたが、愛しい人の顔を見るために、そのまま開けておくことにし、足音を忍ばせてベッドに近づいた。
 枕に頭を預け、少し横を向いてロイエンタールは眠っていた。冷たい月光に照らされて、冴え冴えとした美貌は儚さをも感じさせる。目元に懸かる前髪をそっと掻き上げた。
「待っていてくださったのですか?」
 上掛けの上に投げ出された右手を取り、手の甲に口づけた。そして名残惜しげに握りしめたその手を、布団の中にそっと入れた。

<了>

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