待つ心 |
ここは、ハイネセン・ポリスのちょうど裏側に位置するシルフィード。森と湖の都と称えられる地方である。その森深くに半世紀も前に、帝国からの亡命貴族が建てた古い館に、新帝国最初の反逆者とされているオスカー・フォン・ロイエンタールはいた。 自分の意志に反し、瀕死の淵から蘇ったものの、彼の身体は医者も驚くほどのダメージを負っていた。その原因は、彼が意識を失う間際まで、彼が彼らしくあるために投与させた薬剤が原因である。もちろん、彼は自らの死を確実な未来として計画にいれての行為であったが。 ようやく日常生活を送れるようになった彼に、執事のハンス・マリウス・ワグナーは、よく手入れされた馬を二頭贈った。それ以降、彼は乗馬を日課としていた。 その日、ワグナーはいつもなら乗馬に出かけているはずの時間に、ロイエンタールが居間でくつろぐ姿を見かけた。もう何度読んだかわからない革装丁の本を、所在なげにめくりながらコーヒーを啜る彼の主人に、彼は微笑ましさを感じた。その姿からロイエンタールの思いが手に取るようにわかるようで、ついつい彼はからかってみたくなった。 「オスカー様」 呼びかけ、金銀妖瞳がこちらに向くのを受け止めると、そのまま視線で時計を示した。誘われるように時間を確認したロイエンタールは、それがどうしたと、これも目で尋ねてきた。 「乗馬のお時間では?」 言葉にして尋ねると、気まずそうな顔をしてロイエンタールは目を逸らした。 「別に、毎日出かけなくてもよいだろう」 「はあ、そうでございますか・・・。今日は天気も良うございますのに、何か不都合がございましたか?」 ワグナーの返事に、ロイエンタールは明後日の方角を見ながら黙りこくっている。 「はて、本日は何か特別なことがございましたでしょうか?」 揶揄するような言葉の響きに、キッと睨み返したロイエンタールは、ソファーから立ち上がった。 「お出かけですか?」 振り向きもせず扉に向かう背中に向けて、ワグナーは声をかけた。柳眉を逆立てロイエンタールが振り向いたが、長年連れ添った主従である。何も恐れることはない。 「お気をつけて行ってらっしゃいませ」 平然と言ってのける執事に、扉が大きな音を立てて答えた。 ワグナーにはわかっていた。彼の主人は待っているのだ。昨夜遅く、この屋敷のビジフォンを鳴らした人物を。 森の奥深くの、シルフィードの住人からも忘れ去られたこの屋敷に、連絡を取ることが出来る人物は、一人しかいない。主人の元部下であり、主人の意向に逆らってまで彼を生きながらえさせたハンス・エドアルド・ベルゲングリューンその人である。彼の存在だけが、今の主人をこの世に留める縁であることを、ワグナーは薄々気づいていた。 そのベルゲングリューンが昨晩連絡を取ってきた。通信室で応対をしたワグナーが、ロイエンタールのいる居間に戻ると、もの問いたげな二色の瞳に見つめられた。 「ベルゲングリューン提督からでした」 「そうか」 分かりきったことを報告する執事に、ロイエンタールは興味なさそうな素振りを示した。本心とは大いに異なるであろう態度に、ワグナーのいたずら心が刺激される。では、とそのまま居間を出ていこうとしてみせると、案の定、慌てた主人の声がした。 「おい、奴はなんと言ってきたのだ」 素直に最初からそうおっしゃればいいのにと、心の中で呟いた。しかし、素直に思いを出せぬほどの、誇り高さを愛しくも思った。 「はい、提督は明日から週末にかけての3日間、休暇をお取りなさったようでございます。それで、明日の昼過ぎにこちらに到着なさるということでございます」 「ふん」 あくまでも興味なさそうな素振りをするロイエンタールの口元が、僅かに緩んでいるのをワグナーは見逃さなかった。 「よかったですね」 心の声ををついつい声に出して言ってしまい、もの凄い目つきで睨まれてしまったのだった。 玄関チャイムが鳴り、ワグナーはベルゲングリューンを迎え入れた。 「閣下は?」 早く会いたいと、こちらは素直に顔にかいたベルゲングリューンが問うと、ワグナーは申し訳なさそうに答えた。 「実は、今し方までそこで提督を待っておられたのですが、そのご様子を、ついからかってしまいまして、出て行かれてしまいました」 「はあ、・・・その、小官を待っていてくださったのですか? あの方が」 「ええ、待っておいででした」 髭に覆い隠されてわかりづらいが、彼は顔を赤らめたようだ。 「今ならまだ間に合うかもしれません。厩舎の方です」 聞くや否や、ベルゲングリューンはワグナーに一言断りを入れると、厩舎に向かって駆け出した。 「閣下!」 ワグナーの言った通り、ベルゲングリューンはロイエンタールの姿を見つけた。馬に跨り今まさに裏門を潜ろうとしていたかつての上官を、彼は大声で呼び止めた。馬の首を巡らし、馬上のままこちらを見つめるロイエンタールに、彼は駆け寄ることを躊躇った。 以前から、彼の上官は猫に似ている、とベルゲングリューンは思っていた。今こうしてこちらの様子を伺う姿は、まさしく猫そのものだった。もし、こちらの気持ちのままに駆け寄ったならば、気まぐれなかつての上官は臍を曲げて逃げていくかもしれない。彼はその場で足を止め、忍耐強く待つことにした。 「ベルゲングリューン」 思いが通じたのか、ロイエンタールは優雅に手綱をさばき、ベルゲングリューンの元にやってきた。 「閣下。お体の具合はいかがですか?」 「ん、よい」 言いたいこと、聞きたいことは山ほどあるが、彼の命とも言うべき人を目の前に、言葉が継げなかった。洗練された動きで馬から下りたロイエンタールは、そんな感極まったかつての部下をしみじみと見つめ、一言、 「届いたか?」 と尋ねた。何がと言わなくても、ベルゲングリューンにはわかっている。 「はい。確かに受け取りました」 「うむ、それならばよい」 部下に物を贈るなど、以前の上官には考えられぬことである。それが、2月のあの時期に贈られたチョコレートを見て、ベルゲングリューンはそれに込められた上官の思いを考えた。まさか、自分にそのような思いが向けられることがあろうとは、考えられなかった彼にとって、その出来事はまさしく僥倖であった。 「あの! 閣下」 馬を厩舎に曳き戻そうとしていたロイエンタールに、彼は慌てて声をかけた。 「申し訳ございません、閣下。本当ならば”お返し”を用意せねばならぬのですが・・・」 言い澱むベルゲングリューンを遮ってロイエンタールは言った。 「よい。”物”など必要ではない。しかし、卿の口から”お返し”とやらを聞けると嬉しい」 心なしか、ロイエンタールの頬が赤らんだように見えた。彼は意を決して”お返し”を言葉にした。 「閣下、生きていてくださって、本当にありがとうございます」 「それだけか?」 「いえ、あなたは私の命です」 まだ何やら不服そうな面もちのロイエンタールの手を取り、片膝を地面につくと、そっと口づけた。 「愛して、愛しております」 恐る恐る見上げたそこには、透き通るような美しい微笑みがあった。 ベリゲングリューンは立ち上がると、壊れ物を扱うかのように、そっとロイエンタールを抱き締めた。 <了> |