Alles Liebe



 
 突然の雷雨に見舞われ、彼は馬を駆けさせた。ここは森林地帯である。高い木々に落雷する虞があり、急いでこの森から抜け出さなければならない。森の奥深くにある屋敷に戻るには道のりが長すぎた。彼はそれまで一度も足を踏み入れたことのない町のある方へ馬の鼻を向けた。

 ここは、ハイネセン・ポリスのちょうど裏側に位置するシルフィードという森と湖の都と称えられる地域である。ローエングラム王朝の最初の叛逆者になったはずの彼が、なぜここでこうしているのか、彼自身よくわかっていない。生死をさまよった後、不本意にも意識を回復したときにはすでにここにおり、誰も彼にその経緯も目的も知らせなかったからだ。ただ、以前の彼の部下たちが、罰せられることなく軍務に就いていることは以前の腹心より伝えられており、彼の心の慰めとなっていた。

 森を切り抜け、町を目指して馬を駆る彼の視界に、小さな水車小屋を捕らえた。馬を繋ぎ中に入ると、つい先ほどまで誰かが使っていたようで、ストーブに残り火が点いていた。彼は乗馬用のコートを脱ぎ、ストーブの前に広げた。そして、薪を足し火を起こし暖をとった。まだ2月もはじめである。春の訪れを告げる嵐であろうが、雨風は非常に冷たかった。
 しばらくして雷鳴が遠のいていくのがわかった。次第に風雨も収まり暖かな光さえ射し始めた。その春の気配に誘われたわけではないが、彼の足は自然と町の方に向かった。

 水たまりに陽光が反射し、きらきらと輝いている。雨が上がったばかりで、人通りはない。人目を避けたい彼にとってはありがたかった。オーディンやフェザーンの大都市と比べるべくはないが、ここはささやかな商店街であるらしい。道の両脇に小さな店舗が軒を連ねている。鄙びた、異郷の店店は彼の興味をひいた。店先を覗きながら歩いていくと、一際目を引く小洒落た店に行き当たった。甘い香りの漂う、そこは洋菓子店であるようだ。ふと、その軒先に掲げられたボードに目を引かれた。



「あなたの大切なひとに、思いを込めてチョコレートを贈りませんか」



 贈る物が何故チョコレートである必要があるのかと、皮肉っぽくも思ったが、彼はその前の部分「大切なひと」から目が離せなくなった。
 彼にとって大切なひとは遠く離れた星にいる、はずだ。親友も我が皇帝も、今となってはもう会う術もない。我が子は、名前すら分からぬあの子は、きっと親友ももとで幸せに育てられていることだろう。しかし、あの女は、あの子の母はどこでどうしているのか。

 彼は大切なひとに自分の思いを伝えたことがあったろうか、と思った。いつも傍らにいた親友にさえ、感謝の気持ちすら伝えたことがなかったのではなかろうか。思えば、彼らはこんな自分に深い思いを注いでくれていたというのに・・・。



 自分はなぜこんなところで生きているのだ?

 消えて・・・しまいたい。




 
 いつもは考えないようにしている言葉で心が悲鳴をあげる。




 なぜ、あのときあのまま死なせてくれなかったのか!





 心の痛みに耐えかねて、ぎゅっと目を瞑った彼の耳の奥で、懐かしい声が聞こえた。何度も何度も彼の心に届くまで繰り返されたあのことばーーー




「私のために生きてください」

「あなたがいらっしゃるから、私も生きているのです」

「あなたは私の命なのです」




 そう言って、彼を抱いたかつての彼の右腕。目を閉じていればその温もりさえも感じられるようだ。そうだ、自分は彼のために生きている。自らをこの世に繋ぎとめている縁が、あの髭面の誠実そうな緑の瞳の男だった。彼が望むなら自分が生きていることを是としよう。


 洋菓子店の女主人は、雨上がりの店先に佇む長身の男の姿を見つけ、驚いた。残った水滴に乱反射する光の中に、俯きがちに立っている姿は、まるでこの世の物とは思われないほど美しかった。彼の服装が、自分たちとは少し違う、時代がかったものであるところも浮き世離れした雰囲気を醸し出している。
「もし」
 どうぞお入りになってくださいな、と声を掛けると、男は驚いたように顔を上げた。その白皙の美貌に、人が持つとは思われぬ瞳を見て、彼女は確信した。彼は森から迷い出てきた精霊であろうと。ここシルフィードは昔からの精霊の伝説が色濃く残る地域である。

 男はためらいがちに店内に足を踏み入れた。魅入られるように男を見つめていた女主人は、はっと我に戻ると、今まさに魂を抜き取られるところだったのではと肝を冷やした。
「ご用をお聞きいたしますわ」

 店内はチョコレートの甘ったるい香りで満たされていた。所狭しと並べられた色とりどりのチョコレートと、髭面の男の取り合わせを想像し、彼はクスリと笑った。
 あの男に伝えなければならない思いなど、一言では言い表せぬほどある。しかし、それを言葉にできる性分でないという自覚もある。この甘ったるい菓子が、その何十、何百分の一でも、彼に代わって伝えてくれるというのだろうか。
「あまり、甘くない物がいいだろうな」
 彼の呟きを拾った女店主は、それならばと、深い緑色の箱に入ったチョコレートを勧めた。勧められるままにそれを手に取った彼は、あの男と同じ名前の執事が屋敷にいることを思い出した。同じ物をもう一つ、と女主人に伝えた。

 男が去った店内で、女主人は夢見心地だった。典雅な挙措に、艶のある憂いを帯びた声。彼は、森の精霊の王、オベロンに違いないと彼女は思った。


 再び馬上の人となり、彼は森の奥深くにある屋敷に戻った。

 「会いたい」とひとこと言えば、あの男がすべてを擲っても駆けつけることは分かっていた。そんなわがままが今の自分に許されるかはわからない。しかし、今日はなぜだか無性に彼に会いたかった。会ってその温もりを感じたかった。いつになく素直な心持ちになっているのは、あの甘ったるい香りを放つ菓子のせいだろうか。




 ベルゲングリューン。今宵、俺に会いに来い。



                       ー了ー


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