友だちのキス(3) |
2 事の発端(2) ビッテンフェルトはロイエンタールが横になっているベッドに近づいた。三方を仕切っている白いカーテンをそっと開けて身を入れると、昏々と眠り続けるロイエンタールがいた。目を閉じるロイエンタールはなんだかとてもあどけなく見えた。いつもの周りを睥睨する目も、冷笑を浮かべる口元も、今は力なく閉じられていた。 「ロイエンタール」 呼びかけても反応はない。安らかなという形容がふさわしいその寝顔は、神々しくも見える。そんなことないとは思いながらも、ずっとこのままなのではという不安がよぎる。 「ロイエンタール」 この穏やかさは、目を覚ましている世界での辛さや苦しさから解き放たれているからだろうか。それほどまでに、この同い年の男にとってこの世は生きにくい世界なのだろうか。 「いいや、駄目だ、そんなことじゃ!」 ビッテンフェルトは頭をブンブンと振った。生きることが辛いなんて、そんなことあってはならない。生きることは楽しいことだ、少なくともそれを楽しまなければならないと彼は思う。マイアーがいくらロイエンタールを守ったところで、それは身の安全が得られるだけでしかない。俺は、俺はこいつが毎日楽しいと思って暮らせるようにしてやりたい。こいつがどれだけのものを抱えているかわからないが、そんなものみんな忘れてしまうほど、今を楽しませてやる。それなら俺にできる。いや、やってやる。 「なあ、ロイエンタール、早く起きろよ」 まるで、遊びに誘う子供のようなわくわくした気持ちで呼びかけた。そうだ、早く起きて一緒に遊ぼう。コドモの時間は無限じゃないんだ。 そんな子供のときの気持ちが呼び覚まされ、ビッテンフェルトのいたずら心を刺激した。擽ってやろうかと思ったが、擽りはもう二度としないと約束させられていたのを思いだしてやめた。約束を破るような奴は男ではないと彼は思っている。では、何を? 暮色が充満した室内に、ロイエンタールの白い顔だけがぼんやりと浮かび上がる。まるで、暗い森の中で眠り続ける、おとぎ話に出てくる姫君のようだと、そんな発想に引きずられ、ビッテンフェルトは次のいたずらを思いついた。 「おい、ロイエンタール。起きないとキスするぞ」 ただの言葉での脅しだと通用しないのか。ここは本気を見せなければ、このひねくれ者のお姫様は目を覚まさないに違いない。ビッテンフェルトは覚悟を決め、緩く閉じられた唇を凝視した。自分にとっては大切なファーストキスだが、ロイエンタールのためなら惜しくはないと思った。 「俺は本気だからな」 ロイエンタールの頭を挟むように両手をつき、ゆっくりと己の顔を近づけた。自然と目を閉じた自分に、キスの時は目を閉じるものなのだなと感心したりする。もう少しで奴の唇かと思ったとき、至近距離で少しかすれた声がした。 「・・・れは、何を」 がばっと体を起こし、両腕の間の美しい顔を見下ろすと、特徴的な青と黒の瞳がはっきりと見て取れた。 「キ、キスしようとしてたんじゃないぞ」 顔を赤らめ取り乱す彼に対して、ロイエンタールの反応は鈍かった。 「ん?」 まだ靄のかかったような金銀妖瞳に、ビッテンフェルトは不安になった。 「大丈夫か? 見えているか?」 「んん、ああ。ここは・・・、俺はどうしたんだ?」 「ああ」 突然意識を失ったロイエンタールは、当然だがこの現状が飲み込めていないようだ。ビッテンフェルトはその経緯を話して聞かせた。 「ふうん、そうか」 まるで他人事のような返事をして、ロイエンタールは体を起こした。ビッテンフェルトは枕の位置を変えてベッドヘッドにもたれられるようにしてやった。 「で、お前はなぜキスしようとしていたんだ?」 「げっ」 恐る恐る顔色をうかがうが、いつものポーカーフェイスからは何の感情も読みとれない。 「だ、だから、あれは、キスなんかじゃ・・・」 「マイアーに言いつけるぞ」 「うっ」 マイアーがこのことを知ったら、要警戒人物としてマークされること請け合いだ。そうなれば、ロイエンタールにしてやろうとしていたことが出来なくなってしまう。 「そ、そんな意味じゃない」 「そんな意味じゃなくてキスをする意味の方がわからんが」 狼狽えるビッテンフェルトに対し、ロイエンタールは冷笑を浮かべつつ冷静に追いつめてくる。 「意味はある!」 「ほう、どんな意味が?」 「あれは、友達だからだ!」 ポーカーフェイスが崩れ、理解できないことを聞いたような怪訝な表情が浮かんだ。 「友達?」 友達だからってキスするのか、と続くと思われた言葉は、不自然に途切れた。 「お、おう。俺たちは、友達だろう?」 「・・・・・・」 「どうした? 気分悪いのか?」 「いや」 伏せられた目元は、そこはかとなく寂しい色を帯びていた。 「わからない。俺たちは友達なのか?」 「そうだ。そうだろ? 友達だろ?」 「・・・・・・わからない。今までいなかったからな」 ビッテンフェルトは驚いた。しかし、また納得もした。ロイエンタールに付きまとう孤独の影の正体をみたように思った。 「俺はお前を友達だと思っている。そして、お前にもそう思ってほしい。いいな」 「随分強引なんだな」 再び上げられた金銀妖瞳には、先ほどの悲しみは払拭されていた。 「だから、な、これからは楽しいことをたくさんしよう。言いたいことも遠慮なく言え。喧嘩になったっていいんだ」 「今までと同じだな」 「そうだ!そうだが、もう一つ大切なことがある。一人で抱え込むな。遠慮なく何でも相談しろ」 「ククッ・・・お前に相談したところで、解決には至らんだろうな」 皮肉な笑みを浮かべているが、そこにはいつもの刺々しさは感じられなかった。 「ふん、しかし、それでもいいんだ。話すことに意味がある」 「・・・・・・努力しよう」 その返事を聞き、ビッテンフェルトは舞い上がりそうなほど嬉しくなった。友人として俺の中にロイエンタールの居場所が出来た。こいつのなかにも俺は存在しているだろう。そう思うと、心がじわっと暖かくなったように感じる。 「で、友達はキスするのか?」 うっ、そこに話を戻すのか、とビッテンフェルトはガックリした。しかし、今更あれは嘘ですなどと言えるはずもない。 「そうだ、する! 皆、している。人前ではしないからお前は知らないかもしれないが」 言い逃れについた嘘が、だんだん大きくなっているような気がするが、この際目を瞑ることにした。 ロイエンタールは、何か少し考える風であったが、すぐに顔を上げた。 「なら、いいぜ」 少し顎を上げ目を瞑ったロイエンタールに、ビッテンフェルトはもう後戻りできないことを知り、覚悟を決めた。友達のキスがあるものだとすると、この俺のこのキスが初めてだと悟られてはならない。 ビッテンフェルトはロイエンタールの両肩を掴み、ゆっくりと顔を近づけ、ただ触れるだけのキスを二人は交わした。 ロイエンタールは、こんなに優しいキスは初めてだと思った。それは、これが友達のキスだからだろうかと考え、それならば悪くないと思っていた。 ビッテンフェルトは、口と口を合わせるだけの行為が、これほどまでに気持ちよいものかと驚いていた。もう一度触れたい欲求を、なけなしの理性で抑え込んだ。そして、照れくささを押し殺し目を開けると、すぐ近くにロイエンタールの顔があった。いつもの皮肉っぽい笑みも、いたずらな天使の微笑みに見えるのはなぜだろう。ビッテンフェルトは自分の胸にわき起こった、どう名付けてよいかわからぬ感情に突き動かされ、ロイエンタールを両腕で抱きしめていた。突然の強い締め付けに、ロイエンタールは小さくうめき声をあげた。それを耳にし、ビッテンフェルトは腕の力少し緩めた。 「今度は、何なんだ?」 面白がるようなロイエンタールの問いかけに、 「ハグだ」 と簡潔に答えて、もう一度ぎゅっと抱きしめてやった。 優秀で高慢で冷然としているくせに、何も知らないこの友人と共に過ごす時間がどれだけ残されているかわからない。しかし、例えそれが短い時間であっても、その時間がこの友人のこれからの人生を明るく照らすものになるようにしてやろう。ビッテンフェルトはそう胸の中で誓った。 |