温泉に行こう!(5) |
宴会がお開きになったのは、日付も変わろうかという時間だった。後を気にせずに酒が飲める機会などそうないので、みな限界まで飲み続けた結果だ。ベルゲングリューンがうとうとし始めたロイエンタールの姿を見て、強引に切り上げたのだが、みな布団に入った途端に寝息をたて始めた。ロイエンタールも布団に入ってみたが、少し微睡んだせいか、目が冴えて寝付けなくなってしまった。しばらくは布団の中で大人しく横になっていたが、茶羽織を引っかけて部屋を抜け出した。廊下に置かれた籐椅子に腰掛け庭を眺めたが、それにも飽きて館内案内の冊子を見るともなく見た。風呂の案内のページにさしかかったとき、宴会前に誰かが言っていたことを思い出した。 「広くて気持ちがいい風呂でした。特に露天風呂は空も川もすべてが見渡せて、解放感抜群でした」 ロイエンタールが入った風呂も、気持ちのよいものであったし露天風呂もついてはいたが、垣根に囲われ情緒は感じられたものの解放感などまるでなかった。案内によるとどうやら風呂は別にもう一つあるようだった。 浴室の扉を開けると思っていた通り誰もいなかった。レッケンドルフはまずシャワーで体の汚れを洗い流してから広い浴槽に身を沈めた。熱めの温泉に体が温まったところで、露天風呂へ向かった。身を刺すような冷気が火照った体に心地よい。野趣あふれる開放的な露天風呂は川に面しており、闇の中からせせらぎだけが聞こえる。ここの温泉は外気に触れると乳白色にかわるようで、白い柔らかなお湯をレッケンドルフは味わった。露天風呂には人工の照明はない。降るような星と月の明かりだけが照らしてくれている。ふと、レッケンドルフは闇の中に何かの気配を感じた。闇に目を凝らせて見ると、どうやら先客がいたようだっだ。先客は上半身を湯から出し、川面をのぞき込むように向こうを向いている。湯気をあげる白い肌と引き締まった細身の後ろ姿は妙に色っぽい。見つめる視線を感じたのか、先客はゆるりと振り向いた。 「なんだ、レッケンドルフではないか」 「か、閣下!」 「なんだか眠れなかったのでな。こんな風呂があるとは聞いてなかったぞ」 「も、申し訳ございません」 ロイエンタールはレッケンドルフと向き合い肩まで湯に浸かりながら空を見上げた。 「こんなのも、たまにはいいものだな。卿にはみな感謝している。無論、俺もだ」 「いえ、こちらこそ有り難うございます」 面と向かってロイエンタールに礼を言われたことなどついぞなかったので、レッケンドルフは妙に照れてしまった。上目遣いで見上げたロイエンタールは、青白い月の光に照らされて、まるで月の精のようだった。ああ、捕まえておかないと空に帰ってしまいそうだと、幻想的な光景に彼はうっとりとなっていた。 「ふう、熱いな」 ロイエンタールは湯の中を移動し、手頃な岩場を見つけて腰掛けた。突然目の前に現れた魅惑的な裸体にレッケンドルフの目は釘付けになった。呼吸と共に息づく均整のとれた上半身が、ほの白い湯気に覆われて闇に浮かび上がる。引き締まった腹部と浮き出た腰骨がやけに官能的だった。 レッケンドルフは湯の中で己の欲望が首をもたげているのに気づき狼狽した。敬愛する上官に対して劣情を抱く自分をひどく腹立たしく思った。しかし、下腹から這い上がってくる痺れるような感覚はレッケンドルフの全身を支配していった。 「はぁ」 レッケンドルフの悩ましげなため息をロイエンタールは聞きつけた。 「卿、どうかしたのか?」 「いえ、どうもいたしません」 レッケンドルフは湯の中に顎がつかるほど沈み込んだ。温泉が乳白色でよかった。湯の中にいれば閣下に体の変化を見られることもない。 「ん、だが、あまり長湯しているとのぼせるぞ」 言い終えるとロイエンタールは立ち上がり、脱衣所へと姿を消した。レッケンドルフは固く目をつぶった。瞼の裏には先ほど目に入った、引き締まった臀部と滑らかに続く大腿部が焼き付いていた。 「閣下・・・」 レッケンドルフは空を仰いだ。何度も深呼吸をして下半身に集まった血液を余所へ逃そうと努力した。ここでそそり立った欲望に手をかけてしまえば、敬愛するあの方を自らの手で汚してしまうように思われたからだ。 空には満月がかかっていた。 浴衣を身につけ、ドライヤーで髪を乾かしていると、浴室の方から桶が転がるような音が聞こえた。誤って倒したのとは違う派手な物音にロイエンタールは浴室を覗いてみた。 「レッケンドルフ?」 ただ事ではない様子に駆け寄ると、レッケンドルフは意識朦朧とした様子でうずくまっていた。 「レッケンドルフ!」 呼びかけに微かに反応を見せた部下を、ロイエンタールは抱き上げ脱衣所へ運んだ。床に横たえバスタオルを冷水で絞り頭の下と鼠径部に当て、その上からレッケンドルフが着てきただろう浴衣を被せた。 「ベルゲングリューン、ベルゲングリューン」 ベルゲングリューンは夢の中で自分を呼ぶ声を聞いた。その声が自分にとって命よりも大切な人のものだとわかり、ベルゲングリューンは目を開けた。愛しい人が覆い被さるようにして自分の体を揺すぶっている。ああ、なんてご都合主義な夢なんだ。だが、夢ならば誰に遠慮することもない。 「いただきます」 ベルゲングリューンは愛しい人を力一杯抱きしめた。 「なにをする!」 怒りを含んだ低い声と共に、鳩尾に鋭い痛みを感じ、今度こそ本当に目を覚ました。引き立てられるように廊下に連れ出されたベルゲングリューンは、ロイエンタールからの用件を聞き急いで大浴場に向かった。ロイエンタールが言った通り、脱衣所でレッケンドルフは伸びていた。浴衣をそっとめくってみると、適切に処置されているのが見て取れる。上官の見立て通り単なるのぼせだろうと思われたので、少々乱暴に肩を揺すってみた。 「あ、ベルゲングリューン提督・・・」 「気付いたか。卿はのぼせて浴室で倒れたのだぞ」 「・・・提督が運んでくださったのですか?」 「いや、閣下が手当してくださった。感謝しろよ」 「はい・・・」 レッケンドルフは身を起こすと、恥ずかしそうに体を丸めた。 「閣下は、何か言っておられましたか?」 「ん、ああ、そうだ。卿は働きすぎで疲れているのだろうから、休みを取らせろと仰せだったな」 「はあ」 「それと」 赤い顔で上目遣いで見てくる若者を見て、ベルゲングリューンは少々意地悪な気持ちになった。 「こうも仰っていたな。付き合っている女はいないのか、いないのなら紹介してやれ、とな」 「はああぁ」 盛大にため息をついて頭を抱え込んだレッケンドルフの頭をベルゲングリューンはコツンと小突いた。 「卿は若いんだ、当然な反応さ。そう気に病むな」 「うううう」 レッケンドルフはしばらく顔が上げられなかった。 翌朝、気まずい思いとともにレッケンドルフは目を覚ました。閣下は、と気にかけた様子に気付いたのだろう、ベルゲングリューンが教えてくれた。 「閣下はまだお休みだ。朝食はいらないから寝ていたいらしい」 困った方だと肩を竦める幕僚長に、ええ本当にと頷いた。 帰り支度をしてロビーに向かうと、ロイエンタールがソファーでくつろぎコーヒーを飲んでいた。 「レッケンドルフ」 「はっ」 短く答えて上官のもとに駆け寄った。顔に血が上るのをどうしようもなく感じながらロイエンタールの前に立つ。見上げるロイエンタールの口元に薄らと笑みが浮かんでいるのに居心地の悪さを感じながら、レッケンドルフは命を受けた。 ベルゲングリューンを従えて去っていく閣下を、女将や仲居たちと見送った。ああ、終わってしまったのだなあと一抹の寂しさを感じながら。 「ロイエンタール!気をつかわせて悪かったな!」 翌日登庁したロイエンタールをビッテンフェルトは上機嫌で出迎えた。 「ん、たいしたことはない」 「そうか、そうか! いやあ、持つべきものは金持ちの友人だな!」 がはははっと豪快に笑いながら去っていくビッテンフェルトを後目に、ロイエンタールはレッケンドルフに尋ねた。 「卿は、あれになにをやったのだ?」 「ええ、あの後女将さんと相談しまして・・・」 あの時、 「これで黒色槍騎兵艦隊に土産を買ってやれ。帰ってからもあいつはうるさいだろうからな」 と、ロイエンタールから土産を買うには多すぎる金額を預かったレッケンドルフは女将と共にある一計を企てた。それが功を奏したようで、週頭からなぜか機嫌のよくない上官を、これ以上不機嫌にせずに済んだようだ。 「ふん、卿は有能な副官だな。だが、働きすぎは体にも不調を来す。たまには休みを取って女にでも遊んでもらえ」 顔を真っ赤にして立ち止まった副官をその場に残して、さっさと行ってしまった上官を、レッケンドルフは慌てて追いかけた。 <おしまい> |