後フェザーン殺人事件 2 |
「何をするか!無礼者め!」 怒鳴る男の手には、ベートゲアの手が握られていた。 「も、申し訳ありません」 男の足下には、割れたビアグラスが転がっていた。 消え入るように震える声で、ベートゲアは男に謝罪するが、この酔漢には届いていないようだ。抵抗しないベートゲアに、酔いに任せてなぶるにはちょうどよい相手を見つけたとでも思ったのか、憲兵中佐はますます嵩に懸かって責め立てた。 「よくも皇帝陛下より拝領つかまつった神聖な軍服を、汚しおったな!どうするつもりなのだ」 恐怖に震えるベートゲアにもはや出せる声はない。必要以上にベートゲアに顔を近づけ、酒臭い息を吹きかける。その様を、他の憲兵たちはにやにやと卑しい笑いを浮かべて見物している。 ロイエンタールは腰を浮かしかけた姿勢のまま、頭をめぐらしその様をにらみつけた。先客の士官たちは関わり合いになるのを畏れてか一様に面を伏せていたが、その中で一人金髪の士官がロイエンタールと同じように憲兵の横暴を見つめていた。その視線がふと合ったと思ったとき、ロイエンタールの手を、カミラがそっと押さえた。正面を向くとカミラが凛とした表情で2・3度小さく首を横に振った。陽気な妹に比べ、寂しげな儚げな雰囲気を漂わせているカミラだが、このときの彼女の目には強い意志の光が宿っていた。 「申し訳ございません、隊長様!店の者が粗相いたしまして!」 イーリスが朗らかさを失わない程度に神妙な態度で憲兵中佐に近づき、タオルで濡れた軍服ズボンの裾を拭った。 「お詫びということではありませんが、本日のお代は頂きませんし、何かご希望の物がありましたらご用意いたしますので、なんなりとお申し付けくださいませ」 床に膝を付き、中佐を見上げるようにしてイーリスは非礼の許しを請うた。中佐はそのイーリスと手をつかんだままのベートゲアを交互に見ながら何か思案する様子であった。 「ほう、何でもいいのか?ならば、お前たちが俺たちの相手を務めてくれるのか?」 「お酒のお相手ならば務めさせていただきます」 「そんな相手などいらん!俺が言うのは夜の相手という意味だ」 連れの憲兵たちが下卑た笑い声をあげた。ロイエンタールの手を押さえるカミラの手に力が籠もった。この地で商売を続けていくためには、ここを穏便にやり過ごさなければならない。その算段をカミラはしているのだろう。おそらく最終的には金で話が付くのだろうが、それにしても、人の足元を見て値をつり上げるようなまねをするとは、憲兵隊とヤクザは同義語であるようだ。 「隊長様、そんなご無理はおっしゃらないでくださいませ。他にできることでしたら何なりとも致しますので」 「無理ではあるまい」 中佐は空いた手でイーリスの顎を掴み上を向かせ 「かわいがってやると言っているんだ」 と、息がかかる近さで囁いた。 ガタン!と椅子が倒れる音が店内に響いた。 「もう許してやれよ。そんなに謝っているじゃないか!」 声に驚いて振り返ったロイエンタールの目に、先ほどの金髪の士官が憲兵中佐の手を捻りあげている光景が飛び込んできた。小柄だが精悍な体つきをした中尉は、怒りを露わにグレーの瞳で中佐を睨みつけている。中佐は濁った酔眼でギロリと中尉を認めてニヤリと笑った。ねじ上げていたベートゲアの手を離すと、空いた方の手で中尉の胸ぐらを掴んだ。 「ほほう、元気な坊やだな。イゼルローンは初めてかい?」 「まだ着任して間もないが、それがどうしたというんだ」 中尉は中佐の手を乱暴にふりほどくと、二人を取り囲むように他の憲兵が立ち上がった。 「ここで俺たちに逆らえば、どうなるか知らないのか?」 「憲兵とは軍規を正すものだろう?それがどうして市民を恫喝するんだ!卿らは間違っている!」 「何を青二才が!ここではここのルールってものがあるのさ。そこの卿の同僚が教えてくれなかったのなら、今俺たちが教えてやる」 金髪の中尉が顔を伏せる同僚たちを見遣った隙を狙い、憲兵たちは中尉に殴りかかった。中尉は俊敏にそれをかわし反撃に出た。椅子や机が大きな音を立て倒れ、「メーヴェ」は忽ち修羅場と化した。6対1ながら善戦していた中尉に憲兵は更に卑劣な手段をとった。腰を抜かしたように動けなくなっていたベートゲアにブラスターを突きつけたのだ。 「おい、青臭い正義漢の中尉殿!卿なら市民を巻き添えにすることはできないだろう?」 「くそ!卑怯だぞ!」 憲兵たちは動きの止まった中尉を取り囲み、その輪を次第に詰めていく。それはまるでハイエナが弱った獲物をなぶり殺しする光景に似ていた。 ロイエンタールは自分の手に重なったままのカミラの手を握り返した。 「奴らを店から叩き出す。全員が店から出たらすぐに店を閉めてしまえ」 「でも・・・」 「俺たちのことなら心配いらん。なんとかするさ。今日は儲け損ねて残念だったな」 左右色違いの目に不敵な笑みを浮かべてロイエンタールはカミラを見た。カミラは不安そうにその目を見返しながら、 「無理はしないで」 と言った。 金髪の士官を取り囲む憲兵たちは、背後で起こった突然の大音に一斉に振り向いた。ロイエンタールがブラスターを持つ憲兵の腕をねじ上げ倒れた机の上に投げ飛ばしていた。ベートゲアを部屋の隅に押しやると、一番手前にいた憲兵を殴りつけた。金髪の中尉もそれに呼応するように反撃を始め、気が付くとお互いの背中を守り合うように立っていた。 「おい、こいつらを店外へ押し出せ。出たら卿もそのまま逃げろ」 「わかった」 激しく動き全身に酔いを回らせた憲兵たちは、よろつきながらも酒精のため鈍った痛覚を味方にして倒されても何度も立ち上がる。ロイエンタールが店の扉を開け一人外へ投げ出した。自身も店外へ出たところ、「逃がすな」と例の中佐の一声で、乱闘の舞台は店外に変わった。飛んでくる拳をかわし、こちらからも拳を繰り出しつつロイエンタールは憲兵全員が店の外に出たことを確認し、近くでこれも攻撃の手を弛めることなく戦っている小柄な士官に向かって合図を送った。 「潮時だ、走れ!」 突然駆けだしたロイエンタールを、 「逃がすな!追え!」 と憲兵が追いかけてきた。あれほどの酔漢どもに追いつかれる心配はないが、それでも念のため速度を落とすことなく駆けていると、背後から近づいてくる足音に気づいた。まさか追いつかれたかと驚き振り返ると、そこにはあの金髪の中尉がいた。 「馬鹿か、なぜついてくる。別の方向に行けば憲兵を巻くこともできただろうが」 「そうだったな、でももう遅い。一緒に逃げよう!」 2・3度路地を曲がり、完全に憲兵を巻いたと思えたとき、隣を走る中尉が音を上げた。 「もうだめだ」 市街地と公園地帯の境を示す木立の根本に倒れ込んだ。 「大丈夫か?どこかやられたのか?」 つい同じように足を止めたロイエンタールは肩で息をする男を気遣った。 「いや、そうじゃなくて・・・、食べた後すぐだったから、片腹が痛くって」 「まったく、無茶をする奴だな、卿は」 同じように隣に腰を下ろしてロイエンタールは話しかけた。 「無茶かな?」 「ああ、憲兵隊に楯突くなど、ここでは考えられんことだ。第一、あのように事を荒立てては店に迷惑がかかるだろう?」 「そうだな、大丈夫かな、店は?」 口先だけではない真剣な面もちでロイエンタールの顔をのぞき込んだ。 「大丈夫さ、うまくやってる。でないと、こんなところで商売は続けていけんさ」 「俺の連れはどうしただろう?」 「さあ、どさくさに紛れて一緒に逃げているさ。留まっていれば巻き添えを食うかもしれんからな」 隣の男は目を伏せて何やら考えている様子であった。普段のロイエンタールならここまでこのお人好しな男につきあうこともないのだが、あの、憲兵をにらみつけるグレーの真っ直ぐな瞳を思い出すと、なんだか立ち去り難く思えたのだった。 「なあ、ここの憲兵隊ってみんなああなのか?それをここの人たちはみな受け入れてしまっているのか?」 「受け入れざるを得んのだろう。今回だってもし捕まって営倉に入れられたなら、あとから何とでも理由を付けて罪人に仕立てあげられてしまったろうな」 「だからといって、誰もなにも言わないのは間違っている。憲兵は本来軍律を守り、市民を守るためのものだろう?軍人だって市民を守るために戦っている」 「危険な思想だな、俺たち軍人は皇帝陛下の御為に戦っているのではなかったかな?」 あまりにも正直すぎる言葉を揶揄する気持ちでロイエンタールは答えた。 「それは・・・、俺は平民出身だが、平民出の軍人など皇帝や貴族のために戦うなんて思っているものはいないさ」 「ふふふ、それはそうだろうな。俺とて奴らのために命を懸けることなど到底出来ぬことだ」 グレーの瞳が驚いたように見開かれた。ロイエンタールの貴族然とした容貌にふさわしくない辛辣な言葉に驚いたのだろう。 「なら、なぜそのままで放置しておくんだ。誰かが間違いを正さなければいつまで経っても状況は変わらないだろう」 「卿一人の小さき力で是正できると思うのか?今日のことでも卿の同僚たちは共に立ち上がらなかったではないか?」 うっと声を詰まらせて、金髪の中尉はロイエンタールを見つめた。微か街灯の光が真剣なグレーの瞳を煌めかす。その視線を受け止めながら、その真っ直ぐな視線を心地よく感じた。 「卿の同僚たちを、卿は侮蔑するのか?」 ふるふると彼は首を横に振った。 「それがいい。皆が皆卿のように正しくは生きていけない。卿も正しさを発揮しようと思うならまず力を手に入れるんだな」 「力・・・」 「武勲を立てて昇進すれば、それに見合った力が手に入る。一介の中尉ごときの言葉に誰も耳を貸さんが、将官ともなれば、そうでもあるまい?」 「平民の俺が将官に・・・」 ロイエンタールは立ち上がり、未だ座り込んでいる彼に手を差し伸べた。 「出来ないと諦めてしまうには、俺たちには不確定の要素が多すぎると思うのだが」 彼は差し出された手を取り立ち上がった。 「やってみなければわからんということか」 そのまま二人は官舎街まで連れ立って歩いた。一際明るい一角まで来たとき、ここで二人の道が別れることに気づいた。自然と足が止まり向き合った。このまま別れてしまうには名残惜しい気持ちが二人にはあった。 「俺は、ウォルフガング・ミッターマイヤー中尉だ。卿は?」 ミッターマイヤーは照れくさそうに右手を差し出した。「オスカー・フォン・ロイエンタール中尉だ」 差し出された手を握り返しながら、胸の奥が暖かくなったようにロイエンタールは感じた。しばし見つめ合ったあと、ふとミッターマイヤーが破顔した。 「卿、美男子だな」 含みのない賞賛に思わずロイエンタールも小さく吹き出した。そして、小さく手を挙げて別れを告げ、それぞれの道を帰っていった。 |