薄明光線


                 

「その手、どうしたんだ?」
 親友の美しい指先が青く染まっているのに気づき、ミッターマイヤーは自分でもおかしなほど慌ててしまった。その手を取り上げてよく見ると、どうやら傷などではないようだ。
「これな・・・・・・」
 ロイエンタールは手を取られたまま、フフッと笑った。
 以前何かの銃撃戦の折りにロイエンタールはかすり傷を負ったことがあった。それを、さらに大きな切り傷をこしらえたミッターマイヤーが大仰に騒ぎロイエンタールを呆れさせたことがある。アー、ウーと唸る親友に「軍人なのだから、怪我など当たり前だ」と言うと、「だってもったいないじゃないか」と返ってきた。ミッターマイヤーにとっては、親友の美しさは何か奇跡のような神秘さを感じ、それが傷つくことは他人事であっても「惜しい」と思わせるものだった。しかし、ロイエンタールにとっては彼の美貌は煩わしいものでしかないので、ミッターマイヤーの言葉に常に冷笑で応じてきたのだった。
 そのような遣り取りを何度も経験しているものだから、今回もまたそれで笑われているのだと思ったのだが、どうやらそうではないと感じた。それは、ロイエンタールが冷笑ではなく、こんなことを言うとまた怒らせるだろうが、まるで聖母の如く穏やかで慈愛に満ちた微笑をたたえていたからだった。珍しいその表情を一頻り鑑賞してから、ミッターマイヤーは彼の気分を損なわないように声をかけた。
「随分と機嫌が良さそうだな。何か良いことがあったのか?」
「良いことではないが、今日こんなことがあったんだ・・・」
 良いことではないと言いながら、その希有な瞳が愉しそうに細められるのを見て、ミッターマイヤーは気むずかしいこの親友にこんな表情をさせていることはなんだろうと、ロイエンタールの言葉の先を促した。
「昼過ぎにミュラーのところへ行ったんだ。件のレポートの進捗を見に・・・・・・」
 件のレポートとは、元帥閣下から艦隊司令官に対して課せられたもので、目下ミッターマイヤー自身も絶賛苦戦中だったりするが、親友が様子を聞いてきたことなどない。
「ふうん・・・・・・」
 非難を込めて返事をすると、そんなことには構わずにロイエンタールは話を続けた。 
 レポートの進捗状況を見にミュラーの執務室を訪れたロイエンタールは、その来訪を告げようとするミュラーの副官を押しとどめて重い扉の内側にそっと体を滑り込ませた。ミュラーは仕事にかかりきりで顔すら上げず、入ってきた気配を部下だと思ったらしく、「すまないがコーヒーを淹れてくれないか?」と言った。ロイエンタールは勝手知ったる他人の家で、そのまま控え室に行くと、慌てふためくミュラーの幕僚たちを後目に手ずからコーヒーを淹れた。
「すまないな」
 相変わらずミュラーは目線はパソコンのモニターに落としたままだった。そこで、
「いや、構わんよ」
と答えてやると、ミュラーは弾かれたように顔を上げた。そしてそこに、銀のトレーを持ったロイエンタールを発見した。
「ロイエンタール提督! なぜここに? あっ、コーヒー・・・?! これは大変失礼を!!」
 混乱を極めたミュラーは慌てて立ち上がり、その弾みで蓋が閉まりきっていなかったインク壷が倒れ、磨き込まれた執務机があっという間に黒いインクの海になってしまった。
「あのときのミュラーの慌てようときたら、なかったぞ」
 愉しげにそう感想をつけて語り終えた親友に、ミッターマイヤーはその原因を作ったのはおまえじゃないかと呆れた。しかし、彼の手が汚れているということは、珍しくその後始末を手伝ったのだろう。ミッターマイヤーは、恐縮がりさらに慌てふためく年下の僚友の姿を想像し、少しミュラーを不憫に思った。
「ミュラーという奴は、あれだな。どうも少し抜けているというか、そそっかしい奴だな」
 依然として声に笑みを含んでのロイエンタールの言葉に、ミッターマイヤーは思わず親友の白皙の顔を見返した。

 ミュラーという人物を評するに多くは「温厚」であるとともに「沈着」という言葉を用いるであろう。ローエングラム陣営の中でも一際若い彼であるが、その中でも落ち着きのある人物に数えられるのである。親友の言う「そそっかしい」姿などミッターマイヤーは目にしたことがない。そんなことが気になって、あれから彼は何となくミュラーを観察する日々を送っていた。しかし、彼の目に映るのはやはり沈着冷静なミュラーの姿で、ロイエンタールのひねくれた性格がものを見る目までもを歪めているのだろうかと、ミッターマイヤーの不安の種が増えた、そんな折りのことだった。
 ミッターマイヤーの目の先で、ミュラーは幕僚たちに図上演習をさせていた。自分よりも年上の部下を従えた年若い僚友の姿は頼もしく、何か一言声を掛けようと演習が終わるのを待っていた。演習を終え幕僚を解散させ、ミュラーはミッターマイヤーの方に向かってきた。講評を伺ってもよろしいですか、と穏やかな笑みをたたえたミュラーに「ああ」と返事をした、そのときだった。ミュラーは声にならない叫びをあげると両手に抱えていた書類をバラバラと落としてしまったのだ。突然の変わりように驚いていると、ミッターマイヤーの背後から彼にとっては馴染みの声がした。
「何だミュラー、また書類を撒いているのか」
 ミッターマイヤーは確信した。原因はやはりロイエンタールであるのだと。


「どうしたのですか? 随分と浮かない顔をしていますね」
 仕事終わりに立ち寄った高級士官クラブ『海鷲』のカウンターで一人飲んでいたミュラーに声を掛けたのは、すっかり顔なじみになったバーテンダーだった。
「ん? ちょっと悩み事」
 アルコールが入り普段よりちょっぴり感傷的になっていたミュラーは、つい心の内を吐露してしまった。心地よい間接照明と「話せば楽になりますよ」という親身な言葉に乗せられて、「実は、好きな人がいるんだが・・・・・・」と話してしまったのは、ミュラーの方にも誰かに聞いてもらいたいという気持ちがあったからかも知れない。
「どうも、その人の前ではみっともない姿ばかりを晒してしまってね、これじゃあ、好きになってもらうことなんてできないな、と」
 グラスの縁を撫でながら情けなく笑う最年少提督の年相応の姿に、バーテンダーはクスリと笑った。
「笑わないでください・・・・・・、これでも真剣なんだ」
「いえ、決してそう言う意味で笑ったのではありません」
 後備役の軍人だというバーテンダーは、それでもその表情のままミュラーを見た。
「提督はまだお若いから、格好いいところを見せて好きになってもらいたいなどとお思いになるのです。ですが実際男と女の関係というものはそんなものでははありませんよ。提督が失敗なさったときの彼女の反応はどのようなものですか?」
 ミュラーはここ数日の出来事を思い出してみた。自分の失敗は思い出したくもないが、その時のあの人の姿なら極彩色に思い出すことができる。
「いつも笑われてばかりです」
「笑いにもいろいろありますよ。冷笑、嘲笑、憫笑・・・・・・」
「いいえ、そんなのではありません」
 ミュラーの脳裏には大輪の花が咲いたような明るい光に満ちている。
「愉しげで、そうだな・・・見ているととても幸せになるような、そんな感じがします」
 なら大丈夫ですよ、とバーテンダーはカウンター越しに身を乗り出すようにして囁いた。
「みっともない姿も含めて好きになってくれるなら、成就しない恋はありません」
 差し出された濃いめのウイスキーを舐めるように飲みながら、ミュラーはバーテンダーの言葉を反芻した。
 あの人は、自分の失敗にいつも愉しそうに笑って、そして必ずその始末を手伝ってくれた。何度も何度も繰り返す失敗にも嫌な顔一つせず、「またやったのか」と笑ってくれる。その美しい微笑みは自分一人に向けられたもので、言い換えれば自分のものだとミュラーは思った。親友のミッターマイヤー提督もあの方のあんな笑顔は見たことがないに違いない。そう思うと、ミュラーは少しは希望を持ってもいいだろうかと思えるのだった。


 その時から、ミュラーがロイエンタールの前で書類をばらまいたり、コーヒーをこぼしたり、階段を踏み外したりすることはなくなった。それに反して、今までになく言葉を交わす機会が増えた。ミュラーの声はいつも心地よくロイエンタールの鼓膜に響き、駆け引きのない素直な言葉はロイエンタールに安息を与えた。

 近頃小さな不満がロイエンタールの中に芽生えていた。それは極々小さなものだったので、普段は気にもしなかったが、ある時ふと意識の表層に上ってきた。それは、気の置けない親友と二人、『海鷲』で酒を酌み交わしているときのことだった。
 ちょうど二本目のボトルを頼もうか、と二人でワインリストを眺めていたとき、ミュラーが『海鷲』に入ってきた。入り口の扉が開く気配にふと顔を上げたミッターマイヤーがミュラーの姿を認め、二人の席に誘うと嬉しそうに顔を綻ばせて駆け寄ってきた。ミッターマイヤーの隣に腰を落ち着けたミュラーは、ごく自然に二人の会話に入ってきた。落ち着いた空間と気の置けない友人、それに極上の酒がロイエンタールの精神を心地よく酔わせはじめた。そのとき、ぼんやりとしていた不満の正体がはっきりと姿を現した。
 ミュラーはミッターマイヤーの隣に、つまりはロイエンタールの斜め向かい側に座っている。そして、三人で言葉を交わしているにも関わらず、ミュラーは彼の方を見ないのだ。もちろん顔がこちらを向くときはある。しかし、そんなときも視線は微妙に外れている。今更この金銀妖瞳に遠慮を覚えるということもあるまいし、いったいなぜとロイエンタールには不可解この上なかったが、この心地よさをもっと味わっていたいという思いが勝り、結局訊ねることができずに終わってしまった。
 同じ席で、ミュラーは至福のときを味わっていた。双璧の酒席に招かれたことさえ、彼ら帝国軍に籍を置くものとしては僥倖といって言い過ぎることではないのだが、そればかりではない。彼が密かに想いを寄せるロイエンタールがすぐそばにいて、彼の存在を間近に感じることができるのだ。そんなミュラーの熱い想いを感じるのか、ロイエンタールの魅惑的な瞳が彼を見つめ返してくる。そんな猛禽にも似た鋭い視線をかわしつつ、ミュラーは愛する人の美しい姿を掠めるように見ていた。無邪気そうな笑みや少し拗ねたような表情は日の昇っているうちには決して見ることのできそうもないもので、そんな姿を惜しげもなく晒してくれる美しい人に、ますます想いが募ったのだった。
「明日に響くといけないから」
 愉しい宴に終止符を打ったのはミッターマイヤーだった。時刻はまだ23時に間がある。普段の双璧ならまだまだこれから、という時間帯だ。涼やかな目元に朱を掃いたロイエンタールは明らかに不満げにミッターマイヤーを見上げた。
「まだいいだろう?」
 その一言だけで女性をおとすに違いない甘い言葉で抵抗するが、「今日はだめだ」の一点張りで腕を引かれてソファーから身を剥がされた。
「すまんな、ミュラー。今日のこいつは少し飲み過ぎているようだ。このままだと、屋敷に連れて帰るのが大変になるんでな」
 ロイエンタールの片腕を担ぐようにして、ミッターマイヤーはミュラーに詫びた。
「いえ、お構いなく。それより、お一人で大丈夫ですか?」
 心配そうに二人を見るミュラーの申し出を、ミッターマイヤーは丁寧に断り、まだ渋っているロイエンタールを引きずるようにして『海鷲』を後にした。そのまま呼びつけた地上車に無言で押し込まれ、ロイエンタールは流石に非難の声を上げた。
「いったい、どうしたんだ?!」
 乱暴に横に乗り込んだミッターマイヤーは、その勢いのままにロイエンタールの両肩をつかんだ。
「おまえ、わかっているのか?」
「何をだ」
 流れる街頭に煌めく色違いの瞳をミッターマイヤーはじっと見つめ、そして、諭すように言った。
「ロイエンタール・・・おまえ・・・・・・覚悟はあるのか?」
 ミッターマイヤーは親友の漁色の原因をほぼ正確に推察していた。女嫌いを公言してはばからない彼が、常に女性の存在を身に纏わせている理由。それは、同性愛の対象と見なされないためではなかったか。男色家は異性愛者には手を出しにくい、そのための隠れ蓑として漁色家の悪名を被っていたのではなかったのか。それほど、男に性愛の対象として見られることを恐れていたのではなかったのか。
 ロイエンタールはミッターマイヤーの灰色の瞳を見上げた。その瞳は真剣そのものだった。
「覚悟・・・・・・、なんの覚悟だ?」
「それがわからずば、これ以上ミュラーに近づくな」
 自分たちの友誼にはどんなことがあっても揺るがない。そう確信するからこそのミッターマイヤーの忠告だった。


 昨晩からの嵐は時が経つにしたがってに激しさを増し、帝都を覆う雲はまるで生き物のように蠢いている。ミュラーは執務室の窓からその厚い雲を見上げていた。まだこの嵐が到来する前の、季節はずれの生温かな風が吹きすさぶなか、ロイエンタールは宇宙へと飛び立った。これは各艦隊が当番制で行っている哨戒活動であり、これ自体珍しいものではなかった。しかし、ロイエンタールが同じ星にいないということはただそれだけで、ミュラーにとっては寂寥感を抱かせるのであった。予定ではもう三日も前に帰投しているはずであるが、途中所属不明の船団を発見したとかで、予定が随分と狂っている。あの方はいつ帰ってくるのだろうか、ミュラーは空を見上げては厚い雲の向こうに想いを馳せこの数日を過ごしていた。
「閣下、そろそろお時間です」
 副官のドレウェンツが扉をノックして入っていた。この日は午後から有力貴族のご婦人方が見学にやってくることになっていた。ミュラーはその案内役を仰せつかっていたのだ。彼女らの資金援助は軍にとってはなくてはならないものなので、落ち度なく勤め上げなければならないやっかいな仕事でもある。そこで人当たりのいいミュラーが選ばれたのか、それとも単に一番後任ということで押しつけられたのか。

 仕事中ですのでお静かに、というミュラーの注意を程良く守った一行はざわめきときつい香水の残り香と、そしてもう一つ、大量の贈り物を残して帰って行った。その半分は元帥閣下へ、そしてもう半分はロイエンタール提督へのプレゼントだった。その全てを部下に持たせてローエングラム元帥の元を訪れた。
「ご苦労だったな、ミュラー。いつもはロイエンタールに頼んでいるのだが、彼は副官に案内役を任せてしまう。今日は提督自ら案内役を務めたとなれば、ご婦人方もさぞかし満足されたであろう」
「そうであればよいのですが。ロイエンタール提督は、それでも最後にはきちんと挨拶をなさるから、ご婦人方はそれ目当てに来られるのでしょう」
 ミュラーは運び入れさせた贈り物の数々を示した。元帥は自分宛のものは皆で分けるように命じた。そして、
「ミュラー、卿にはついでで悪いのだが、これをロイエンタール邸に届けてくれ。ご婦人方のお気持ちを無にしては申し訳ないからな」
 贈り物の中に手作りらしいケーキがあるのを見て、元帥は早い方がいいと判断したらしい。しかし提督はまだ宇宙ではと思っていると、
「ロイエンタールは、これが嫌で普段は取らない回復休暇をとったのだろう。そのせいで卿が苦労をしたのだと教えてやるがよい」
と、にこやかに仰った。どうやら慣れない仕事で疲れたであろうミュラーのために、終業時間を繰り上げてくれるということらしい。ミュラーとしてはそれ以上の喜びを胸に、感謝の意を込めて敬礼をした。
 嵐はようやく過ぎ去ったようで、ミュラーが元帥府を発つときには雨も上がり、雲間から光が差していた。

 ロイエンタール邸はオーディン郊外に広大な敷地を持つ豪邸だった。ミュラーが車寄せにドレウェンツを従えて降り立つと、すぐに男の使用人が現れて色とりどりの贈り物を受け取った。ロイエンタール提督はと訊くと裏庭にいると言うことなので、ドレウェンツを先に帰らせてミュラーは挨拶に行くことにした。
 ロイエンタールは嵐で傷んだ庭の様子を見ているということであった。石畳の小径を辿って行くと、テラスの近くで執事と話すロイエンタールの姿があった。ミュラーの出現に驚いたロイエンタールは、その事情を知ると苦笑を浮かべて労をねぎらってくれた。ロイエンタールは当たり前だが軍服を着ていない。こざっぱりとした普段着姿が眩しくてミュラーは直視できなかった。
 ロイエンタールと執事は立派な古木を見上げていた。大きく張り出した枝が折れているようだった。ミュラーはその様子をよく見ようとして手近にあった細い柱を何気なく掴んだ。
「あっ!」
 あっという間の出来事だった。滝のような水が頭上から落ちてきて、ミュラーを襲った。テラスを覆う日除けの帆布が大量の雨水で撓んで、それでも微妙な均衡でその状態を保っていたものが、ほんの少し違う方向への力が掛かったがために崩れてしまったのだ。地面を踏みしめながら溺死する恐怖を味わったミュラーは、一瞬のうちに頭から足の先までずぶ濡れになった。詰め襟の隙間から流れ込んだ雨水は、ご丁寧に下着まで濡らした。正しく濡れ鼠のミュラーの頭は一瞬白くなった。
「フッ・・・クククッ」
 雲間から射し込む光は、まるでカーテンのように揺らめいた。その空の下で、ミュラーの思いを寄せる人が肩を震わせて笑っていた。
「ミュラー・・・、卿はまったく・・・」
 後は言葉が続かないようだった。珍しく声を立てて笑うロイエンタールを、ミュラーは呆然と見た。和やかな光をたたえて色違いの瞳がミュラーを見つめていた。
「旦那様、そのようにお笑いになっては失礼でございますよ」
と、執事が窘めるがロイエンタールの笑いは収まらなかった。ようやくどうにか言葉が継げるようになり、執事に濡れた軍服を乾かすように指示を出すと、ミュラーに付いてくるように言った。
 着いた先はこの邸の際奥、ロイエンタールの私室であった。主の部屋らしく重厚な装飾が施されているのだが、それらに目をやる暇もなく、ミュラーはバスルームに押し込まれた。濡れた軍服を置かれてるカゴに入れると、薄い扉越しに時間はあるのか、と訊かれた。ミュラーがあると答えると帰るまでには乾かしてくれるらしい。申し訳ない気持ちで言われるがままにシャワーを浴びていると、ふと先ほどのロイエンタールの笑い声が耳に蘇った。久しぶりの、それも大好きな人の極上の笑顔。被った災難を忘れてしまうぐらい、彼は幸せだった。

 用意されていたバスローブを身に纏い扉を開けると、当然のことながらそこは寝室だった。この部屋の主はベッド脇に窓に腰掛けて外を眺めていた。ふとロイエンタールが振り返り、反射的にミュラーは視線を逸らした。
「まただ・・・・・・、いつも卿は俺から目を逸らす。そんなにこの眼が気持ち悪いか」
「そんなことはありません!」
 あんまりな言葉に思わずロイエンタールの顔を見返した。するとそこには予想外に穏やかな顔があった。
「ではなぜだ。教えてくれ」
「それは・・・」
 ミュラーはロイエンタールを見つめた。
「見れば・・・もっと見たくなりますから」
「・・・・・・それに不都合があるのか?」
「あります」
 ロイエンタールの姿を双眸に納め、ミュラーの気持ちはさらに高揚する。
「見ていれば、もっと貴方の近くに寄りたくなります」
「寄ればいいじゃないか」
 言いつつ、ロイエンタールはミュラーの前に来た。
「側に寄れば・・・・・・、私は、私は貴方が好きなんです!」
 想いがこぼれるのを止められなかった。
「男にこのようなことを言われるなど、気持ちがお悪いでしょう?」
 想いを知られて避けられるなら、今までの関係で十分だと思っていた。ロイエンタールの側にいることで得られる陶酔感と状況からの絶望感で、ミュラーはパニックに陥りそうだった。それを、別な意味で混乱させたのは、ロイエンタールだった。
「俺も男だが・・・・・・、男でも、卿は俺を好きだというのか?」
「はい・・・」
 言いつつミュラーは一歩下がった。その間を詰めるようにロイエンタールが一歩踏みだし、ミュラーは壁際に追いつめられた。
「いけません・・・、あまり近くに寄られると・・・・・・、触れたくなります」
 決して自分の欲に負けるまいと、ミュラーは両手で背後の壁を掴んだ。もうこれ以上失望されたくない、その一心で目を瞑った。
「触れれば、どうなる?」
 ロイエンタールは手を伸ばした。触れた胸元からはバスローブ越しにもしっかりとした拍動が感じられる。その力強さを、温もりをもっと感じたいと思ったとき、ロイエンタールは強い力で抱き締められていた。熱い体温、逞しい体躯。女の体とはまったく異なるものを感じる。背中に回された手のひらが、ゆっくりと背中を撫でていく。その手の心地よさにロイエンタールは眼を閉じてミュラーにもたれた。
−−覚悟はあるのか。
 ミッターマイヤーの言葉を思い出した。覚悟か。そんなものは必要ない。ただ、この温もりに身を任せたいという思いがあるだけだった。
「あの・・・・・・・・・キスしても?」
 おずおずと訊ねてくるミュラーに、たまらずロイエンタールはクスリと吹き出した。そう、こういうところだ。温厚で沈着冷静な青年提督が時として見せる気を許した表情、年相応というか被っていた猫が剥げた姿というか、そういうものがロイエンタールにとってはたまらなく可愛くて、そう、愛しかった。
「ちゃんと出来るのか?」
「で、出来ます・・・・・・」
 消え入りそうな語尾に、こみ上げてくるものを堪えて「早く」と言って眼を閉じれば、ミュラーの鼓動がいっそう速くなるのを感じた。
 ミュラーの初々しいキスは、ロイエンタールに導かれて次第に濃厚なものに変わった。飲み込みのいい若者はすぐにコツを覚え、気づけばロイエンタールは口内を蹂躙されるがままになっていた。いつもは施す快楽を我が身に受け、またあいだ中背中を優しく撫でる手のひらの熱さに感じて、体中が痺れていくのがわかった。ミュラーはずしりと両腕に掛かる重みを感じ、夢中で貪っていた唇を漸く離した。もたれ掛かる愛しい人をしっかりと抱き締めてこれ以上ない幸福感を味わっていた。嫌でも目の端に豪奢なベッドが入る。
「あの・・・・・・続きを・・・ベッドでしても・・・・・・?」
 それだけ言い終えると、緊張のために口の中がカラカラになった。その渇きを潤したいと再びキスを求めると、ロイエンタールがイヤイヤと首を振った。
「早くベッドに・・・。もう、立っているのが辛い」
 微かに空気を震わすだけのその声が、ミュラーを奮い立たせた。「Ja」と言うや否やロイエンタールを横抱きにして、ベッドに横たえた。乱れた暗褐色の髪や上気した頬、濡れた瞳、全てがミュラーを誘っていた。その全てをずっと見ていたいが、距離をゼロにして触れてもみたい。肺の奥底から熱い息ばかりが吹き出てくる。ミュラーは劣情に負けて、ベッドの上に乗り上げた。
「あの・・・・・・」
 ミュラーがおずおずといった感じで何か言おうとした。乱れたバスローブの合わせ目からは、猛り立った男根さえ顔をのぞかせているこの状態で、いったいどんな言葉が必要だというのだろうか。しかし、そんなミュラーに呆れるどころか可愛いと思ってしまうのが、惚れた弱みと言うのだろう。
「もう黙れ、最後までお伺いを立てるつもりか?・・・何をしてもいいから・・・・・・おまえの好きなようにしろ」
 ロイエンタールは重くなった腕をミュラーの首に絡ませた。
                 <終わり>

ミュラロイアンソロジー『黙れ鉄壁』に載せていただいたものの再掲です。

 





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