甘味な関係(3) |
軍隊において上官の命令に対する返答のパターンはただ一つ――Jaのみである。しかし、この時レッケンドルフははっきりとNeinと言った。 「お言葉ですが閣下、我々の目下の課題は先の戦闘に関する詳報の作成です。それに最善を尽くされるべきです。また、洋菓子店の経営については我々の関与するところではありません」 上官の暴走を諌めるのも副官の仕事のうちとばかりにレッケンドルフは抗命した。 「……」 ロイエンタールは何も言わずにじっとりとした目付きでレッケンドルフを見詰めた。そしてニヤリと笑った、いや、笑ったように見えた。 「卿は自分とは関わりがないからと、目の前で困っている者を見捨てるのか?」 「……」 「答えよ、レッケンドルフ中尉」 「いいえ」 ここで「はい」と答えられるのは、目の前の方だけではないか。彼はどんなに青臭いと言われても、この問にこれ以外の答えは持っていなかった。 「ならば問題あるまい」 「ですが詳報が」 「そんなもの、シュラーかディッタースドルフに手伝わせる。彼らもそろそろこの手の仕事を覚えねばならぬからな」 二人にとっては明らかに巻き添えだ。そして、自分も……。 「卿はこれから『シャイネン』に赴き情報収集にあたれ」 「はっ。しかし、なんの関係もない小官に、家庭の事情を教えてくれるものでしょうか?」 「それは、卿の手腕に期待する」 言うやいなや執務室を追い出され、レッケンドルフは渋々今日二度目の「シャイネン」に向かった。 黄昏に沈んだ旧市街にはそれぞれの家庭の営みが感じられ、レッケンドルフは郷愁を感じていた。自分も軍隊になど入らなければ、あの家庭の一つに入って、あの慎ましくも温かな灯りの下で家族の団欒などをしていたのだろうか、などと思う。「シャイネン」の小さな窓からも光がこぼれていた。ただし、こちらの光は昼間の印象があるからか、少し寂しそうである。 「こんばんは」 ドアベルを鳴らしてレッケンドルフが店内に入ると、所在なげにショーケースの上に頬杖をついた昼間の彼女がいた。 「まあ、またいらしてくださったのですね」 「1日に2度も、変ですよね」 レッケンドルフが自嘲気味に言うと、彼女は少し赤くなりながら首を横に振った。そしてハッとした様子で「昼間のケーキに何かあったのでは」と不安な顔をした。 「いえ、とても美味しかったです」 「あっ、ピオーネのタルトはいかがでしたか? 喜んでくださいましたか?」 「はい、とっても」 「よかった!」 自分のことのように彼女は喜んでくれた。どうやら彼に使い走りをさせている上官の話をしていたのを、気に掛けてくれていたらしい。 「でも、やはりいちじくが食べたいと仰っていました」 「そう……ですか」 レッケンドルフはここだと思った。 「上司は来年またこちらのいちじくタルトを食べたいと、そのために力になれることがあればなりたいと、そう申しているのです」 「は……はい」 「申し遅れました。私はロイエンタール艦隊所属のエミール・フォン・レッケンドルフ中尉です」 「わたしはロッテ・キュンツェルです」 「差し出がましいのは承知していますが、私に今お困りのことをお聞かせいただけませんか?」 ロッテの顔が再び赤くなった。そして、その双眸にみるみる涙が盛り上がり頬を濡らした。 「あ、あの、どうかしましたか?!」 レッケンドルフも突然の若い女性の涙におろおろするしかなかった。こんなときロイエンタールならどう振る舞うのだろうか? 嗚咽を漏らすロッテの震える肩を抱いていいものか、両手を彷徨わせて立ち尽くしていた。 「ロッテ? どうしたんだ!」 異変を感じた父親が厨房から現れ、不審な軍服の男を睨みつけた。 「あんた、うちの娘に何をした!」 「違うの、お父さん、違うのよ!」 泣きながらロッテは叫んだ。 「違うんだから! レッケンドルフさんにそんな言い方しないで!」 ロッテは言いながら父親の胸に抱きついた。取り乱す娘を抱き締めながら、父親はレッケンドルフを見た。その目には先程の怒りはなかった。 店の奥に案内され、レッケンドルフは店主に先程ロッテに言ったことをもう一度伝えた。 「うちのいちじくのタルトをそんなに……」 早めの店じまいをしたキュンツェル氏は、レッケンドルフの前に座った。 「あれはこの子の母親のために作ったもんでね。ちょうど妻の命日といちじくの時期が重なっていて、私らにとっては特別なケーキなんです」 「そうだったのですか……」 思わぬ深い謂れに、レッケンドルフは二の句を継げなかった。 「妻が、あなたを引き合わせてくれたのかも知れんねぇ」 「……お聞かせいただけますか? あなた方に何かあったのかを」 ロッテが父親を促した。 「お父さん、レッケンドルフさんに話してみましょう。私達だけじゃ、何かホントなのか、それさえわからないんだから」 「そうだな。もう、これ以上悪くもならんだろうからな」 キュンツェル氏は本棚から薄い封筒を取り出してきた。それは、その薄さに比すことはできない、家族にとっては重いものだった。 もう夜半という時間にレッケンドルフはロイエンタールの元に帰った。もしかしたら、もう誰もいないかもしれないと思っていた執務室には、煌々と電灯が灯されていた。ノックをした後重厚な扉を開けると、そこには精も根も尽き果てたという風情のシュラーとディッタースドルフがいた。 「大丈夫ですか?」 「大丈夫なもんか。卿、よく毎日あれに耐えているな……」 「もっと早く帰ってこいよ! ああ、死ぬかと思った!」 どうやら慣れないデスクワークで閣下のシゴキにあったらしい。いや、シゴキだけなら二人の猛者もここまでにはならないだろう。きっとシゴキとシゴキの間に精神を抉るような皮肉と嫌味を浴びせられ、そちらの方が二人にはこたえたのだろう。 「すみません。あ、ケーキがあるのですが召し上がりますか?」 レッケンドルフは余り物だからと持たされた白い箱を持ち上げた。 「食う!」 二人にコーヒーを淹れていると、手洗いに行っていたらしいロイエンタールが戻ってきた。 「なんだ、早かったではないか」 シュラーが白目を剥いたのを目の端で捉えたが、気づかない振りをした。 「閣下も召し上がりますか?」 そう言ったレッケンドルフに冷ややかな一瞥をくれて、ロイエンタールは奥の部屋に入っていった。レッケンドルフもそれに続く。ディッタースドルフが小さく「ご愁傷さま」と言ったような気がした。 人の目がなくなると早速ケーキの箱を覗き込むロイエンタールにコーヒーを入れながら、レッケンドルフは「シャイネン」で店主親子に聞いた話を伝えた。曰く―― 半年前、古くなったオーブンを買い替えるため、キュンツェルは銀行から融資を受けた。その額は30万帝国マルク。一度に用意はできないが、これまでの収支を見れば余裕を持って2年程で完済できる金額だった。それが先月のことだ。突然十倍の借金になって返済を迫られたのだという。 「証文は見たか?」 「はい。写しでしたが……これです」 レッケンドルフは携帯端末をロイエンタールに差し出した。 「融資を受けた銀行は聞いたか?」 「はい。ザーレ銀行です」 「で、今の債権者は?」 「エンゲルブレヒト・アードルフ・フォン・ボルヒェルトです」 「債権回収会社ではなく弁護士か……」 レッケンドルフが携帯端末の画面を見ながら言うと、ロイエンタールは長い指を顎にかけ、なにやら思案するようだった。少し時間がかかりそうなので、レッケンドルフはコーヒーを淹れ換え、上官好みの甘味を見繕ってテーブルにセットした。 「レッケンドルフ、もう一つの件はどうだった?」 「もう一つのとは?」 「ほら、一月ほど前から客足が絶えたといういう件だ」 「確かに一月ほど前から、いつも贔屓にしてくれていた馴染みの客がパタリと来なくなったらしいです。たまに訪れるのは決まって遠方からの客だそうで、何か自分たちがしたのだろうかと思うのだが、心当たりもないとキュンツェル氏は言っていました」 「ふむ」 ロイエンタールはケーキ皿に手を伸ばし、ザッハトルテにフォークを刺した。 「ならば明日はそれを調べてもらおうか」 「それとは?」 レッケンドルフは嫌な予感がした。まさか、そんな、どうやって調べればよいかわからぬものを調べろとは言わないよな、とは思うものの、こんな時の自分の勘が外れることはないのだった。 「近隣住民に何があったのか、だ」 「そんな、どうやって」 レッケンドルフにとって幸いだったのは、これが軍務に関わらない要件だったことだ。職務上の命令に今のような返答をすれば、即座に彼の軍人生命は終わっていただろう。 「それは、卿が考えるんだな」 「…………」 「急げよ、何だか嫌な感じがする」 ロイエンタールの命令はどのようなものであっても彼にとって絶対だ。レッケンドルフは明日のスケジュールをどうするか、早速考え始めている自分に我が事ながら呆れてしまった。 続く |