夢みる男(side B-3)



 心身共に疲弊しきった体を引きずるようにして軍服に袖を通していると、控えめなノックがして、ベルゲングリューンが現れた。普段なら玄関ホールで控えているはずの男がなぜ私室にまで来たのかと、不審気に見ると、ベルゲングリューンは驚いた様子で駆け寄ってきた。
「閣下、いかがなさいました?お出ましが遅いのでこちらに失礼させて頂いたのですが、お顔の色が優れません。お加減がよろしくないのですな?」
 どうやら思わぬ時間がかかっていたようだ。この真面目な髭面の男の慌て振りからすると、俺の顔色は相当よくないのだろう。しきりに今日は大した予定もないから仕事を休めと勧める。しかし、昨日の今日で俺が登庁しなければならないのだ。俺が欠勤すればミッターマイヤーはその理由を必ず昨日の自らの暴挙に求めるだろう。おそらく今の不調の原因は奴であるのは間違いないが、それでも、俺はそれを奴に知られたくない。それを知ればミッターマイヤーという男は自分を激しく責め、情けない顔で自信無げな様子で悲しげに俺に許しを求めるのだ。そんな陽の陰ったようなミッターマイヤーを俺は見たくない。ミッターマイヤーには彼の蜂蜜色の髪のごとく眩しく、正々堂々と胸を張っていてほしい。俺のせいで奴の光を奪ってしまうことなどできない。だから、どうしても今日は行かねばならないのだ。不調を気取られたとしても自らの口で弁明すれば単純な奴をごまかすことは可能だろう。
 今から思えば、もっと最良の選択肢はいくらも存在したろう。だが、胸のむかつきと発熱が俺の思考を鈍らせていたのだ、これしかないと強迫的に思い込んでいた。
「いや、今日は行かねばならぬ。このことはミッターマイヤーには内密にするように」
 言葉を発すると胃からこみ上げてくる不快感に耐えきれず、トイレに駆け込み胃の内容を吐き出した。嘔吐したものに目を遣る勇気もなく、その場にヘたり込もうとするところを、後ろからベルゲングリューンに抱えられた。そのままの体勢で後始末をし、洗面台からグラスに水を汲みそれを口元まで運んでくる。口をすすぎ終わってもまだ力の戻らぬ俺を、ベルゲングリューンはさらに強く抱きしめてきた。そして、俺の片頬に髭の頬を押し当てて、
「熱がございますな」
とつぶやいた。背後から包み込まれる感覚に安らぎを覚え、しばらくされるがままに身を任せていたが、
「やはり、今日はお休みください」
と耳元で囁く言葉に、現実に引き戻された。
「いや、行く」
 腕を解き、彼を置き去りにして自室からでていった俺の後を、ベルゲングリューンは慌てて追ってきた。

 登庁すると、今度はレッケンドルフがいろいろと気遣ってきたが、口を開くのも億劫に感じ、ほとんどものを言わないでいた。しかし、体調は急降下で悪化し、椅子に座っているのも苦しくなった頃、レッケンドルフが早いが昼休憩をとることを提案してきた。俺はそれを幸いと横になることにした。やはり体を動かすと吐き気を催したが、レッケンドルフの甲斐甲斐しい介抱のおかげで、ベッドで横になることができた。レッケンドルフにも早いが休憩をとるようにと考えたとき、副官同士で仲のよいアムスドルフを通じてミッターマイヤーにこのことが伝わることを懸念し、「ミッターマイヤーには言うな」と念を押した。単純な奴を籠絡するには先手必勝が肝要だからだ。

 横になっていると夜には訪れなかった睡魔がやってきて、うとうとと微睡んだ。どれくらいの時間が経ったのかは分からないが、胸元が涼しくなる感覚で目を覚ました。見ると、いつやって来たのかファーレンハイトが上着の釦をすべて外し、ブラウスを開けさせて鎖骨に唇を這わせているところだった。俺が目覚めたことに気づいてチュッっとキスマークをつけてから、
「珍しいですね。あなたが昼間から眠っていらっしゃるなんて。誘っていらっしゃるので?」
といたずらな笑みを浮かべた。
「卿のせいで、散々な目に遭った」
 作りものではない渋面で昨夜の顛末を語ってやると、ファーレンハイトはふっとそれまでとは異なる寂しげな表情で、
「ミッターマイヤー閣下がそれほどまでに大切ですか」
とつぶやいた。しかしそれも一瞬でいつものしたたかな笑顔に戻った。
「この埋め合わせは、必ずさせてください」 
どんな埋め合わせをするつもりかわからぬが、とりあえず今は返事をする気力もないので黙っていると、
「本当にお加減が悪いのですね。いつもならどんな皮肉が返ってくるかわかりませんのに。ただの食中りでしょうか?それとも中毒か何かでしょうか?」
「中毒などであってたまるか・・・」
 応える俺の記憶の中から油まみれの悲しげな魚が甦った。そういえば、中まで火が通っていなかったような・・・。あの泥臭い生臭さを思いだし、再び吐き気を催した。急に口元を押さえた様子から、事情を察したファーレンハイトが抱えるようにトイレに連れて行った。嘔吐する俺の背をさすりながら、クスクスと笑うファーレンハイトを振り返り、力の籠もらない目で睨みつけてやった。
「こうしていると、妊娠した妻を気遣う夫の気持ちになりますね。そんな潤んだ目で見つめられるとますます愛おしくなってしまいますよ。」
「馬鹿なことを。誰のせいだと思っている」
「わたしのせいだとおっしゃるのですか?」
「卿があの書類をそのまま軍務省に出したからだ」
「確かに」
「俺はやめておけと言ったはずだぞ」
「ですが、ビッテンフェルト提督と書類の確認をしていたとき、盛り上がってしまいまして、その場の勢いといいますか・・・でも、あれをお見せしたとき、これをみれば貴族出の官吏がいかに無能であるかを見せつけてやれると、喜んでいらっしゃったではありませんか?」
「それこそ、その場の勢いだ。本気にする奴があるか。うっ・・・」
 気持ちが高ぶったからか、再び催した俺を介抱をした後、ファーレンハイトはまだ力の戻らぬ体を腕の中に抱きとり、素肌に手を這わせてきた。
「あ、こら。何をする」
 ファーレンハイトは俺の顔を上げさせ、瞳をのぞき込むようにして言った。
「この潤んだ金銀妖瞳で幾人の男を誘惑なさいましたか?」
「・・・?」
「この瞳で見つめられて落ちない男などおりますまい。このような儚げな雰囲気を纏わせて、人前に出ないでいただきたいものです。」
「何を言っている?」
「あなたは自身の魅力を分かっていらっしゃらないから心配なのですよ。午後の会議にはご出席なさるので?」
「もちろんだ。そのために今日は来た」
「そのために、ですか。ではお迎えにあがります」
「不要だ。レッケンドルフがいる。もうすぐ戻ってくるはずだ」
「そうですか・・・。副官殿にまで睨まれてしまうと、ますますあなたに近づけなくなってしまいます。では議場でお待ちしております」
 ファーレンハイトは俺をベッドに腰掛けさせ立ち去り、入れ替わるようにレッケンドルフが入ってきた。
「閣下!」
 おそらくファーレンハイトが乱していった服装を見て驚いたのだろう。当然だ。
「汗をかいたので着替えようとしていたのだ」
 なぜ俺がいいわけがましく言わねばならんのだと思いつつ、レッケンドルフに手伝わせて着衣を整えた。

副官と主席幕僚を従えて議場に赴いた俺は、いよいよミッターマイヤーとの対決かと身構えた。しかし、ファーレンハイトがあやふやな微笑を浮かべて現れ、二三言葉を交わし俺は己の不覚さを呪った。なんと、ミッターマイヤーは体調を崩して欠勤しているという。原因など思い当たらない訳がない。そういえば、毎日の日課のように内線を使って私的な会話を交わしているのに、今日に限ってそれがなかったことに思い当たった。こちらの不調を知られたくないばかりにこれ幸いとこちらからはいっさい連絡を取らなかったことが徒になった。
 ミッターマイヤーが体調を崩すようなものを食って、俺が無事でいられるわけがない。あいつも当然俺の状態を分かっているはずだ。なんという無謀なことをしたのだ。あの鉄の胃袋をもつミッターマイヤーをも寝込ませるのだ。俺の状態はかなり重篤なはずだ。
「もうお帰りなさい。今日は重要な議題もないようですし、双璧の不例の方がわが軍にとって大きな痛手となります。元帥閣下にはもうそのようにお伝えしてあります」
 どのようにお伝えされたか気になるところではあったが、気を張って立っているのももう限界だ。
「わかった、そうしよう」
 俺は元帥府をあとにした。

 ミッターマイヤーめ、復調したら一発殴ってやる。殴って奴の脆弱さを笑ってやるのだ。奴は眉毛を下げすまなさそうにしながらも、互いの醜態を想像し、この馬鹿馬鹿しい出来事を笑い飛ばせるだろう。

<了>
 



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