或る夜の出来事(後日談)2 |
3.軍服・軍靴・その他一式 門扉が開く音がした。微かな音だったが、一人きりの夕食を終え、珍しくリビングで過ごしていたベルゲングリューンの耳ははっきりとその音を拾った。手にしていた新聞を折りたたんでいると、地上車がアプローチに滑り込んできたようだった。時計を見ると日が変わるまでにはまだかなり時間がある。早く帰ってきてほしいという約束を守ってくださったのだろうか。 邸の使用人たちの動きが慌ただしくなる。間違いない。あの方が帰ってこられたのだ。今すぐ玄関に駆けつけたいところだが、ぐっと堪える。それでなくてもソワソワしながらリビングに居座る彼は、口さがない老メイドたちに散々からかわれたのだ。これ以上みっともないところは、彼らの大事な旦那様の旦那としては見せるわけにはいかなかった。そのようなことをしなくても、すぐに凛々しい軍靴の音とともにあの方は姿を見せてくれるに違いないのだから。 ところが、しばらく待ってもロイエンタールは現れなかった。それどころか、ザワザワと騒ぐ様子がある。ベルゲングリューンはたまらず玄関に駆け寄った。 「閣下……」 そこには足元が覚束なく執事に抱えられたロイエンタールがいた。 「かなりお酒を召されているようです」 ロイエンタールの腕を支えるワグナーが、ベルゲングリューンを見つけてそう言った。 「大丈夫だ」 幾分ろれつがあやしい口調でそう言うと、ロイエンタールはワグナーの手を振り払った。 「ほら、ハンス。早く帰ってきたぞ」 そう言うとベルゲングリューンの方に向かおうとしたが、数歩歩くとよろよろと壁にもたれ掛かってしまった。ベルゲングリューンが駆け寄って体を支えると、アルコールの匂いが強くした。 「随分お飲みになったようですな」 「ふふっ」 もつれる足をなんとか励ましながら、なんとか傍にあった椅子に腰掛けさせた。そこにロイエンタールの乳母代わりのメイドが水を差し出した。それを受け取ると一息で飲み干した。 「なんだ?」 空になったグラスを押し付けた相手をロイエンタールは見据えた。おそらく睨んでいるつもりだろうが、酔いがかなり回っているのかトロンとした目つきだ。 「なにかいいたいことがあるのだろう?」 「いいえ、アンナは何も申しません」 「うそだ。かおにかいてある」 「あらま、なんと書いてあるのか坊ちゃまにおわかりになりますかしら?」 「しゅりょうをわきまえろというんだろ。だが、ちゃんとかえってきただろ。それにおれはぼっちゃまじゃない」 「まあまあ、それだけおわかりなのにどうしてこんなになるまでお飲みになるのでしょう?」 「うるさい」 いつまでも続きそうな和やか応酬を見て、ワグナーは「懐かしい」とポツリと漏らした。 「懐かしい?」 「ええ、オーディンにいた頃にはよくございました。お屋敷まではしっかりと帰ってこられるのですが。ああ、ですが、ミッターマイヤー様とは一緒に公園のベンチで潰れていらっしゃったこともございました」 聞いていらっしゃいませんかと尋ねられ、ベルゲングリューンは思い出した。しかし、彼が聞いたのは公園のベンチではなく飲み屋のゴミ捨場であったように思うのだが…。 「旦那様がこんなになるのは、きっと愉しいお酒だったからでしょう。それに、ちゃんと戻ってこられました。何も問題はございません」 「いや、しかし…」 新領土総督がこれでよいのかや、元帥閣下としての威厳がとか、言わなければならないことがあるように思うが、ご機嫌なロイエンタールの様子を見ているとそんなことはどうでもいいように思えてきた。それでもベルゲングリューンの心に小さなしこりが残っている。以前リュミエールを経済顧問にするときにエルスハイマーが言った言葉が蘇ってくる。 ――閣下にはご友人が必要です。 「彼」はミッターマイヤーの代わりになったのだろうか……。 半分酔いつぶれたロイエンタールを抱えるようにして、ベルゲングリューンは二人の部屋に戻った。分厚い軍服の生地越しに伝わる体温はいつもよりかなり熱く、浅い呼吸にも熱がこもっているようだった。なんとか階段を上らせて部屋の扉を閉めたときには、さすがのベルゲングリューンも汗だくになっていた。ロイエンタールはとりあえずと腰掛けさせたソファーでうとうとし始めている。 「閣下、そのようなところでお休みになられてはいけませんぞ」 ベルゲングリューンの声に薄っすらと目を開けたが、すぐに目蓋が落ちてしまう。 「閣下、オスカー」 肩を強く揺すると再び目蓋が上がり、今度は色違いの両目がはっきりと現れた。 「ふふ、ただいま、ハンス」 「おかえりなさい、オスカー」 ベルゲングリューンは胸が熱くなった。「ただいま」と彼が帰ってくるのは自分のもとなのだと、そう思うと先程まで感じていた小さな嫉妬心も溶けてなくなっていくように思えた。 「さあ、軍服がしわになってしまいますぞ。早く脱いでください」 体を起こしてそう言うと、ロイエンタールは反対側に倒れながら「脱がせてくれ」と言った。やれやれとベルゲングリューンは詰め襟に手をかけて一つ一つ上から釦を外していく。シャツのボタンもすべて外すと抱きかかえるようにしてシャツと上着をまとめて腕を抜き次はベルトに手を掛けた。それを引き抜きズボンを脱がそうとしたところで、今日はまだ靴を履いたままなのに気づいた。ズボンの裾をめくるとやはり実戦仕様の編上靴だ。ベルゲングリューンは紐を丁寧に外し軍靴を脱がせた。 「風呂に入りますか?」 下着一枚にさせてそう訊くと、うんと頷いたような気がしたのでシャワーから熱い湯を出してロイエンタールを浴室に押し込んだ。そして自分も裸になった。泥酔した人間を一人で風呂に入れるわけにはいかないからな、と自分に言い訳しつつ浴室の扉をあけた。熱い湯を浴び少し酔いがさめてきたのか、ロイエンタールはわりにしっかりと立っていた。 「今日は楽しかったようですね」 「うむ、そういわれればそうなのかな。くだらない話ばかりしていたような気がする」 「くだらない話ですか」 「ああ、何の駆け引きもない、若い士官がするような馬鹿な話さ」 なるほど、とベルゲングリューンは納得した。同時にエルスハイマーが言っていたことが少しわかった気がした。 ――閣下には多様な人間関係が必要です…… ベルゲングリューンでもレッケンドルフでもなく、またミッターマイヤーでもない新たな関係を、ロイエンタールはリュミエールと築きつつあるのだろう。嫉妬を感じないわけではないが、彼を認めなければならないのだ。他でもないこの方のために。 「そうだ、ハンス。お前軍服の下に何か身に着けているか?」 シャンプーをしながらロイエンタールが訊く。 「いえ、あなたと同じものしか。それが何か?」 「んー、リュミエールが言っていたのだ」 曰く、軍服の下に隠しているものを見たい、と。 「ンなー!」 ベルゲングリューンは声にならない声をあげた。いや、叫んだ。ノイエラントには俺たちの知らない習わしがあるのかな、等と宣う呑気な声はこの際無視しても構わないだろう。構うのは、リュミエールの野郎の意図、下心だ。そして、もう一つの問題は、この人のこの鈍さだ。昔は何事に対しても鋭敏な方でいらっしゃったのだが、最近はこういう方面に関してはずいぶん反応が鈍いのだ。それを、自らの居場所を定めた安心感から来るのだろうとベルゲングリューンは思っていたが、こうも鈍いとリュミエールなどにつけ込まれる隙になったりはしないだろうか? せっかくあの野郎に心を開いて新たな関係を作ろうとなさっているこの方には悪いが、ある程度の警戒心は持っていていただかないと、こっちが安心できやしない。ベルゲングリューンは心を鬼にして、真実を告げることにした。 「オスカー」 ベルゲングリューンは泡を流し終わったロイエンタールの体を背後から抱きしめた。 「奴に見せないでください、この軍服の下に隠されているものを」 「ん?」 「これですよ。奴が見たいと言うのは……」 ――貴方です。 理解できないという目で見返してくる愛しい人の首筋をペロリと舐めた。 「軍服の厚い鎧の下には、玉のような柔肌が隠されているのです」 かぶりつきたいほど、美味そうな……。そう言ってロイエンタールを抱きしめた。 「だから、奴には決してお見せにならないでください」 毛深い腕の中でしばらく何か考えるようだったが、そうか、と何かに思い当たったように呟いた。 「安心しろ。この身を喰らえるのはお前だけだ」 そっと胴に回さまれた腕に、ベルゲングリューンは酩酊した。 おしまい |