escape?



 年度末を間近に迎え、総督府は多忙を極めていた。
 総督付きの高級副官であるレッケンドルフは、様々な部署から上がっていた予算案を両手に抱え、ロイエンタールの元へ急いでいた。彼の上司は、不慣れな仕事に四苦八苦する部下たちが予定を大幅にオーバーさせた書類を、休日を返上して黙々とこなしている。少しでも早く仕事を終わらせて家に帰して差し上げたい。そう思うとレッケンドルフの足は自然と速くなるのだ。
「まだ、そんなにあるのか!」
 彼の背後から現れたのはベルゲングリューン軍事総監だった。公言ではできないが総督のいい人である彼もレッケンドルフほどではないが、書類の束を掴んでいる。
「それは…」
「あ、ああ。少し訂正があってな」
 みる見る間に鋭くなるレッケンドルフの視線に、ベルゲングリューンは思わずたじろいだ。ベルゲングリューンもわかっているのだ。今、ロイエンタールの手を煩わせているのが主に軍部であるということを。軍事費を削減したい総督府と艦隊の間を何度書類が行き来していることか。レッケンドルフはこれ見よがしに大きなため息をついた。
「わかっていらっしゃるでしょう? 総監がしっかりとしてくださらなければ閣下のご負担は増えるばかりです」
「わかっている、わかっているんだが」
 レッケンドルフにもわかっている。ベルゲングリューンは現場との間に挟まれて苦しい立場にあることを。しかし、もう少ししっかりしてくれてもいいんじゃないかと思うのだった。
「わかっていらっしゃるならお願いしますよ。閣下のために」
「そうだな、また逃げられてはかなわんからな」
 はははっと態とらしく笑うベルゲングリューンに一瞥をくれて、レッケンドルフは総督室の扉に手を掛けた。

「どうした?」
 入り口に立ち止まったままのレッケンドルフに何心なく声を掛けると、今まで以上に鋭い目で睨まれた。
「総監、グルですか?」
「何がだ?」
 きょとんと見つめ返してくるベルゲングリューンに、レッケンドルフは疑いを解いた。彼は彼の連れ合いに比べて随分と人がいい。しらばっくれるなどという腹芸をできるはずもなかった。
「やられました」
 首を伸ばして室内をのぞき込んだベルゲングリューンは、既視感によろめいた。
「貴方のせいですよ」
 きちんと整理された執務机に、いるべきはずの人の姿はなかった。
「すまない」
 レッケンドルフの言葉を半分は言いがかりだと感じたが、その剣幕にベルゲングリューンは謝るしかなかった。


「どうする? 監視カメラを確認するか?」
「いえ、それでは大事になってしまいます。総督閣下がエスケープなどと、マスコミが飛びついてきますよ」
 マスコミがらみでは一度痛い目に遭っているベルゲングリューンは、むうっと呻いた。一度落ち着きましょうと、レッケンドルフは書類の山を執務机に置き、ベルゲングリューンをソファーに座らせた。
「閣下は外には出られていないと思いますが、総監はどう思われますか?」
 おそらくは今最もロイエンタールのことをわかっているはずのベルゲングリューンに確認するように問いかけた。
「うむ、出たとしても屋敷に戻るくらいか」
「リュミエール氏のところへ行かれる可能性は?」
「あるわけがない!」
 隙あらばロイエンタールにまとわりつこうとする財界のホープの名にベルゲングリューンは目の色を変えて否定した。多分に私情が入ってはいるが、可能性は低いとみてよさそうだ。
「では、閣下はどちらに行かれたのでしょうか。閣下は何か仰っていませんでしたか?」
 手がかりを握っているのは貴方なのだと問うと、ベルゲングリューンは再び呻いた。腕を組みしばらく唸りながら何かを考えているようだったが、突然頭を抱えるように背を丸めてしまった。
「最近、よく疲れたと仰っていたな」
「閣下がですか?!」
ベルゲングリューンは気まずげに顔を背けたが、レッケンドルフの追及はますます鋭さを増した。
「あの閣下が『疲れた』など、尋常なことではないと、貴方わかっていらっしゃいますよね!」
有能な閣下の高級副官がまるで汚れた者を見るかのような目で、とりあえずは閣下の伴侶と名乗ることを許された髭の男を見据えた。
「閣下は貴方のような体力馬鹿ではないのですよ! それでなくともこの忙しい時期に、夜毎夜ごとに閣下を御身を苛んで…」
「待て待て待て! 卿は思い違いをしているぞ!」
ベルゲングリューンは机を乗り越えるようにしてレッケンドルフの肩をつかんだ。机の上の書類が数枚乱れて落ちた。
「疲れると仰るから、俺は肩をお揉みして、もうひと月も抱いていなッ…」
総督府内でなんと言うことを口走るのか、とレッケンドルフは髭に囲まれた口を塞いだ。
「総監が恥をかかれてても一向にかまいませんが、総督閣下に恥をかかすことは許しません」
「す、すまない」
二人はもう一度ソファーに座り直した。
「では、な、卿なら疲れたとき、どうする?」
俺より卿の方が年が近いんだと、レッケンドルフに尋ねると、レッケンドルフはそうですねと腕を組んだ。
「やっぱり寝るのが一番ですかね。マッサージなんかも効きますね」
「マ、マッサージだと!」
閣下があの蠱惑的な肌をどこの誰ともわからない輩に触れさせているなど、ベルゲングリューンには許せなかった。
「狭量な夫は嫌われますよ。マッサージではありませんか」
思考が脱線ばかりをするベルゲングリューンに埒があかないとレッケンドルフは判断した。
「私はお屋敷と閣下の立ち寄りそうなところを覗いてきます。総監は総督府内をお願いいたします」
「おい、なんで卿が屋敷に行くんだ」
ロイエンタール邸はすなわちベルゲングリューンの住まいでもある。行くなら自分だろうと主張すると、
「お屋敷にいる閣下を連れ帰ってくるんですよ」
貴方にできますかと睨まれ、ベルゲングリューンは今回三度目になるウーンとうなり声を上げた。
「では、お願いいたしますよ」
ベルゲングリューンは一人総督閣下の執務室に残された。


「さて、いったいどこに行かれたのか…」
ベルゲングリューンは何となくデスク上の電話の通信ボタンを押してみた。少し迷った末に医務室の番号を入力する。ここにはロイエンタールに親しい軍医が勤めていたはずだ。わずかな呼び出し音がした後、懐かしい声がスピーカーから聞こえてきた。
「ノール軍医、ベルゲングリューンだ」
「お、どうした?」
「いや、閣下がそっちにいらっしゃらないかと思って」
「閣下が? どこかお悪いのか?」
 とたんに声に緊張が走った軍医に、
「いや、そうではないが、そこにはベッドがあるからな」
と、情けなく答える。ははあ、と何かを感じ取ったらしいノールの声が、
「逃げられたんだろ?」
「なぜそれを!」
「わかるさ、何年のつきあいだと思っているんだ。あんたとも、閣下とも」
「……」
「閣下は時々はわがままをなさるが、ちゃあーんと弁えもおありになる。待てるんだったら待って差し上げたらどうかと思うがね」
 ベルゲングリューンは見えない相手に頭を下げた。
「確かにそうだな、ありがとう」
 確かに軍医の言うとおりだ。ロイエンタールは弁えて仕事に支障がない範囲でエスケープをなさっているに過ぎない。支障を作り探し出す必要性を作ったのは自分なのだ。先程散らばった書類を拾い上げる。それはここ数日何度もロイエンタールとベルゲングリューンの間を行き来したものだった。
「申し訳ありません、閣下」
 ベルゲングリューンは誰もいない椅子に向かって頭を下げ、執務室を後にした。どこかで疲れ果てた体を休めているに違いない愛しい人を、一刻も早く見つけ出し謝りたいと思った。


 うろうろと総督府内を歩き回ったベルゲングリューンは、結局ロイエンタールを見つけられずにエントランスにまで来てしまった。やはりどこかに行かれたのか、とぼんやりと外の通りを眺めた。ここに至るまで閣下をお見かけしなかったかと問いかけ続けたが、あんなに悪目立ちする人が果たしてここまで人の目につかないことなどがあるだろうか。
 ベルゲングリューンはラウンジのソファーに身を沈めた。高級将校の軍服に注意を払っていたらしいボーイがすぐさま飛んできて、コーヒーを彼の前に置いてくれた。ベルゲングリューンでもこうなのだ。この建物のうちにいて軍服の階級章ほど注意を払われるものはない。この地でただ一人の帝国元帥であり新領土総督でもあるロイエンタールの軍服を見落とすはずはないのだ。
「いったいどこに……」
 ベルゲングリューンは巨大な迷宮にただ一人でいるような心細さを感じた。愛しい人の気配を感じはしないかと、目を閉じて周囲の騒めきに耳を澄ましてみるが、超能力者でもない彼にそのような能力が備わっているはずもなかった。が、その時落ち込んでいた彼の耳が思わぬ音を拾った。そう、彼の耳は確かに「ロイエンタール」という、彼の求めてやまない音の連なりを捕えたのだった。
 そこにいたのは総督府内に数多く勤める事務職の女性たちだった。彼女たちは大量の郵便物を抱えながら楽しそうにおしゃべりしている。その会話にベルゲングリューンは耳を澄ました。
「はあぁ、かっこよかったなあ! リタ様々だわ」
「何言ってんのよ。ロイエンタール閣下がお優しい方だったからよかったものを、帝国のお貴族様はあたしたち庶民の命なんて、なんとも思っていないンだから。リタだって、今頃ズドンだったのかもしれないんだからね!」
「あの、あ、あたし、死んでたかもしれないんですか?!」
「そうよ。それにしても何だってアンタは総督閣下に水なんかぶっかけたのよ?」
「そんなぁ。先輩たちも喜んでたじゃないですか!」
 ベルゲングリューンは手にしていたコーヒーカップを慌てておいた。カップとソーサーががチャリと大きな音を立てた。近くにいたボーイが驚いて彼の方を見たが、そんなことに構っていられなかった。ベルゲングリューンは通り過ぎていく彼女たちを追いかけた。
「ちょっと待ってくれ!」
 追いついた彼は、一番大きな箱を持っている女性事務員の荷物を奪い取った。突然現れた髭面の軍人を前に、彼女たちはキャっと悲鳴を上げた。
「その話、詳しく聞かせてもらおうか」



 ベルゲングリューンが招き入れられたのは、彼が今までその存在さえ意識していなかったような、いわゆる総督府のバックヤードだった。その更に奥深くに彼女たちが休憩室として使っている小部屋があった。女性が多い職場のためか、何気ない小物にもいろいろな趣向が凝らされているのだろうが、四十過ぎのおっさんであるベルゲングリューンには、その良し悪しを判断することはできなかった。
「あのう、もしかしてベルゲングリューン軍事総監閣下ですか?」
「そうだ」
 ベルゲングリューンの返事に彼女たちは何か恐れるようにざわめいた。そのなかで一際怯える小柄な女性が、
「わたし、処分を受けるんでしょうか?」
と声を震わせて聞いてきた。
「処分? 何故だ?」
「わたしがロイエンタール閣下に、水を掛けたから」
 ああ、とベルゲングリューンは納得した。
「閣下は怒っていらっしゃらなかったのだろう? だったら何も問題はない。俺が聞きたいのは、その閣下のことなのだ。教えてくれないか? 君たちがどこでどんなふうに閣下と会ったのかを」
 リタと言う彼女は不安げに左右の同僚の顔を見た。誰もが口を開きづらいこの雰囲気の中、意を決して語りだしたのは、先程ベルゲングリューンに荷物を奪われた女性だった。彼女はテレザと名乗った。

「今日のお昼過ぎ、テラスの植え込みに水を撒いていたんです。ほら、あの、最近総督府の緑化事業の一環で新しく木を植えた所です。元々はカフェのテラス席だったところで、他みたいにスプリングラーもないので、ホースで水を撒くんです。私達、一日中郵便物なんかの仕分けをしているから、一日に一度、結構楽しい時間なんです。今日は新人のこの子も連れて行ったんですが、まさかあんなところに総督閣下がいらっしゃるなんて思わなかったんです」
「閣下はどこにいらっしゃったのだ?」
「たぶん一番奥まったところの木の下だと思います。この子が水を撒くとき『虹が見える!』って言って、水を上の方にブァーって撒き始めたんです。私達も『わーキレイ』って一緒になって騒いでしまって、上の方ばっかり見てたから、わからなかったんですが、気づいたらずぶ濡れの閣下が立っていらっしゃったんです」
「ずぶ濡れ……」
 ベルゲングリューンには想像もできなかった。なぜそのような場所にロイエンタールがいたのかも、その時彼がどんな顔をしていたのかも。この目の前に神妙な顔で畏まっているリタ達は、自分の知らないあの人を知っている。そう思うと情けないことに妬心を抑えることができなかった。
「それで、その時閣下はどのようなご様子だった?」
 ロイエンタールの居場所を一刻も早く突き止めなければならないにも関わらず、このような問を発したベルゲングリューンに、テレザに代わってリタが喜々として喋りだした。
「わたしが気づきたとき、実は閣下はこっそり立ち去ろうとなさっていたんです。でも、驚いて『キャーッ』ってわたしが叫んだものだから、やれやれって感じで振り返られなんです。そしたら、すっごくカッコいい人だったから、わたし、舞い上がっちゃって、すぐにはその人が総督閣下だとはわからなかったんです」
 その時のことを思い出して、女性陣はきゃあきゃあと騒ぎ出した。
「ゴホン……それで?」
「あ、ごめんなさい。それで、頭から水を垂らして、上衣もしっかり濡れているみたいだったから、みんなで駆け寄って、近くで見ると目の色が左右で違ったから、あああたし総督閣下に水をかけちゃったんだって、怖くなったんです。そうしたら、閣下は『仕事の邪魔をしたね』って仰って、優しくて、もう泣きそうになりました」
 感極まって声をつまらせたリタの背中を、テレザはさすりながら、あとの話を引き継いだ。
「わたしたち、さすがにこのままではいけないと思って、濡れた髪の毛と上衣だけでも乾かさないとって思ったんです。上衣はクリーニング屋のサムに言ったらすぐやってもらえるけど、ドライヤーは……って考えたときに、この子がすぐ上にプールがあるって言いだしたんです」
 プール……。ベルゲングリューンは総督府の配置図を頭に浮かべた。もともとハイネセンで屈指の高級ホテルであったこの建物には、レストランやジムなど館内施設が充実していた。最初はすべて軍で接収していたが、軍では使用していない設備も多く、それを経済顧問の意見を入れて民間に開放し始めたのが去年からだった。今ではレストランやバーが存在し、ハイネセン市民の憧れのデートスポットや絶好の商談の場になっている。プールもその一つだったはずだ。
「プールは最近オープンしたんですが、あんまり利用客がいないって、そこで勤めてる人が言っていたから、シャワールームを貸してもらえるかと思ったんです」
 貸してもらえるどころか、閣下が言えば何だって自由にできるのだが、それはこの自由の国に生まれ育った子らにはわからない感覚なのかもしれないとベルゲングリューンは思った。
「そうしたら閣下は『プールか』って仰って、『ここまで濡れたのならば、泳ぐのも同じだな』って、それで上衣を乾かす間泳いでいようかって」
「待て待て待て待て! それでは閣下は今?!」
「はい。プールにいらっしゃいます」
 ベルゲングリューンは頭を抱えた。総督府内であるとはいえ、民間人も出入りできる施設に護衛もつけずに丸腰で……いや、丸腰どころではない。身を守るもの一つつけない姿で、あの身体を衆目に晒しているだと……。
「最近よく眠れないから、泳ぐのも悪くないかなって仰って…」
「眠れない?」
「運動不足だって、付き合いの悪いやつがいるからって、閣下ぐらいの方だと、お一人で好き勝手するわけにはいかないから、いろいろ大変なんでしょうかね?」
「…………それで、軍服はもう乾いたのか?」
「あ、はい!」
 リタが先程抱えていた箱からクリーニングの包を取り出した。
「これです。すごい軍服だって、サムも驚いていました」
「そのクリーニング屋に口外せぬよう言っておいてくれ」
「はい!」
「世話をかけたな」
 ベルゲングリューンは包を鷲掴みにしてその部屋を飛び出した。目指すはプール。一刻も早くあの人の裸体を隠さねばならなかった。


 エレベーターの扉が開くのももどかしく通路に駆け出したベルゲングリューンは、目的のプールのフロントを発見すると、すごい剣幕で詰め寄った。すると、待ち構えていたように若い男が現れた。
「驚きました。まさか妹がロイエンタール閣下を連れてくるとは」
 彼はあのリタの兄だということだった。見るとドアには「CLOSE」の札がかけられていた。どうやら気を利かせてくれたらしい。
「迷惑をかけたな」
「いえ、まだプレオープン中ですし、これを機に、閣下にもご利用いただけたら僕も嬉しいですし」
 スポーマンらしい爽やかな笑顔でそう言われると、自分がいかがわしく思えてくる。
「あ、軍服持ってきてくださったのですね。妹が来ると思ったのですが」
「ああ、いや、そこまで妹さんの手を煩わせる訳にもいかないからな」
 本当は嫉妬のなせることなので、心の内を見透かされないように、ことさらに厳しい表情を作って言った。
「閣下に大切な話もある。すまないがしばらく人払いを頼みたい」
「では、お帰りの際にはここからお声がけください」
 ベルゲングリューンはCLOSEの扉を押して中へ入った。

 扉を通ると、湿度の高い熱い空気と塩素の臭い、そして微かに水音がした。さらにいくつかの扉をくぐるごとに、それは濃く明瞭になっていき、最後に明るく開けたところに出た。
 満々と湛えられた透明な水の中、ゆったりと泳ぐ人がいた。軍靴の音を抑えてベルゲングリューンはプールサイドを歩いた。空に向かって広く切り取られた窓に近いコースで、ロイエンタールは泳いでいた。ベルゲングリューンはその速さに合わせて隣を歩く。プールサイドに近づいたロイエンタールはそのままくるりと水中でターンをして再び泳ぎだした。ベルゲングリューンはひとつため息をつくと、対岸に向けて歩き出した。今度は少し歩を速めてロイエンタールを待ち構える。ロイエンタールは無駄のない美しいフォームでこちらへ泳いでくる。また躱されるかと思っていると、白い手がプールサイドに掛かった。
「よくここがわかったな」
 濡れた髪をかき上げながら、ロイエンタールは彼を見上げた。
「このようなところにお一人で、不用心にも程がありますぞ」
「まあ、そう固いことを言うな」
 反動をつけて水から上がったロイエンタールは、濡れたままどこかへ行こうとするので、ベルゲングリューンはその後を追った。ベルゲングリューンは白日の下で見る白い肢体に目がくらむようだった。唯一身につけた黒い光沢のある布地が、大事なところだけをギリギリ隠している。
「お前が探しに来たということは、まだ何か残っていたかな?」
 引き締まった臀部に見入っていたベルゲングリューンは、慌てて思考を切り替えた。
「いえ、また軍部の書類にミスがありまして。今年度の会計に乗せるためには、もう時間がなく、申し訳ありませんが、閣下にもう一度ご裁決いただきたいのです」
「そうか、わかった。だが、慣れぬこととはいえ、もう少しなんとかならんかな?」
「はっ」
 申し訳ございせんと、もう一度頭を下げる。
「ああそうだ。上衣を持ってきてくれたか? 彼女たちに会ったんだろう?」
 更衣室に入る間際にロイエンタールが尋ねた。おそらくベルゲングリューンがここを突き止めた理由を推察したのだろう。
「確かに受け取ってございます」
 ベルゲングリューンが提げた袋を認めたロイエンタールは、そこに置いておけと言いおいてシャワーブースに入っていった。

「閣下、一つお伺いしてもよろしいですか?」
 弾ける水の音の合間から、ロイエンタールの諾の返事が聞こえてきた。
「なぜ、あのような場所にいらっしゃったのですか?」
 緑化か進められているテラスは、総督室とはかなり離れた場所にある。
「息抜きさ。ハイネセンポリスには緑が少ないからな。ちょっと様子を見に行くつもりだったのだが、少しうつらうつらしてしまった」
 うたた寝の最中に水を浴びせられたのか。閣下も災難だったのだなとベルゲングリューンは思い、そう伝えるとロイエンタールは笑ったようだった。
「閣下」
 和んだ空気に背中を押され、心に引っかかっていたことを口にした。
「夜よく眠れないのですか? 女の子たちがそう言っておりましたが」
 それに、運動不足とも。
「もしかして……溜っておいでだったのですか?」
 ガラリとシャワーブースの扉が開いた。タオルを受け取ってロイエンタールはゴシゴシと頭を拭き始めた。
「閣下がお疲れだと思い、控えていたのですが」
「疲れていたのはお前の方だろう?」
「え?」
「お前、いつも俺の肩やら腰やらを揉みながら、意識を失うように寝ていたぞ」
「ええ?!」
 タオルの影から黒い瞳がちらりとこちらを見た。
「毎夜毎夜中途半端に触れられて、そのままだ。たまったものではないぞ。俺は精神的に疲労していて身体に熱が溜まったような状態だったからな。眠れたものではない」
「それは……」
 ベルゲングリューンは絶句した。
「申し訳ございません」
「歴戦の勇者も、寄る年波には勝てぬということかな?」
 揶揄するような声の中に、微かに労りの色を見つけてベルゲングリューンは泣きたくなった。総督のロイエンタールに軍事総監のベルゲングリューンの苦労がわからないはずはないのである。しかし、そんなことより、熱くなった身体を持て余し、寝辛い日々を送っていた愛しい人に気づけずにいたことを、そして自分だけ安穏と眠りについていたことを、情けなく思った。
「閣下……オスカー」
 ベルゲングリューンは目の前に晒された剥き出しの腰骨を両手で掴み、グイッと引き寄せた。バランスを崩してロイエンタールが腕の中に収まった。それをきつく抱きしめて、
「今、ここで突っ込みたい」
譫言のように呟くと、フフッと笑われた。
「まだ仕事が残っているのだろう? それに久しぶりに体を動かせて俺は今は満足している」
 腹の前でがっちり組まれた指を一本ずつ外していく。それに抵抗せず、体を剥がしたベルゲングリューンは、最後に名残惜しげに襟足にキスをした。ロイエンタールはタオルを腰に巻きつけくるりとベルゲングリューンの方に向き直った。そして、口づけ。
「今日は期待していいんだな」
 ベルゲングリューンは心の中で頭を抱えた。
 俺はこのまま仕事が続けられるのだろうか? いや、一刻も早く仕事を終わらせ、今夜は濃厚な暑い夜を過ごすのだ。
 彼はそう決意し、下腹にグッと力を入れた。


おしまい
 




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