アーモンドの花の下で(2)



 ロイエンタールの執務室はいつも通りの時が流れていた。外の騒動などないかのように、ここだけはいつもと同じ静寂を保っていた。女性誌もワイドショーも見る習慣のないロイエンタールは、おそらく今自分が中心になって騒動が巻きおこっているなど少しも思ってはいないのだろう。そんな閣下の平安を破ってしまうのは申し訳ない気持ちもしたが、ここは心を鬼にしてでも言っておかなければならないことがあると、レッケンドルフは腹をくくった。
「閣下、これをご覧になってください」
 デスクにおかれた場違いに軽薄な雑誌を、ロイエンタールは手に取った。そしてすぐに眉をしかめた。
「そのお写真にお覚えはございますか?」
「ある」
「どのように撮られたものか、教えていただいても宜しいですか?」
「うむ・・・・・・」
 ロイエンタールはアーモンドの花の下での出来事を隠すことなくレッケンドルフとベルゲングリューンに語った。
「動物写真家で、レーベンを撮りたいと・・・・・・。それをご信用なさったのですか?」
「疑う余地を認めなかった」
 ロイエンタールの人を見る目は厳しい。その彼が疑わなかったというのだ、きっと写真を撮った者に悪意はなかったのだろう。しかし、それで終わらすわけにはいかなかった。このことがどんな未来に影響を与えることなのかを知っておいてもらう必要がある。
「閣下がそう仰るのなら、そうなのでしょう。しかし、その写真がこのように雑誌に載ってしまっています。これについてはいかがお考えですか?」
「載ってしまったものは仕方がないとして、これ以降この写真の使用を禁止する旨各所に連絡してくれ」
「それはもういたしました」
「ならばなんだ? 卿は何を言いたいのだ」
 いつになく回りくどい言い方をするレッケンドルフに、ロイエンタールはしびれを切らしかけた。しかし、そのレッケンドルフが無言で点けたソリビジョンから流れる映像を見て、ロイエンタールは言葉を失った。
「なんだ、これは!」
 代わりに非難の声をあげたのはベルゲングリューンだった。ロイエンタールはこめかみを押さえて目を閉じている。
「閣下、閣下が写真を撮らせなさったのは動物写真家を目指す彼を応援する気持ちからだったのだと、小官も推測いたします。ですが、その写真が引き金となり、今まで閣下をネタに扱うことをなんとなく控えていたマスコミの箍を外してしまったのです」
 レッケンドルフはこれを機会にロイエンタールとその伴侶であるベルゲングリューンに分かっておいてもらいたかった。今までもロイエンタールは魅力的で視聴率の取れる素材だった。にもかかわらず彼を取り上げなかったのは、ロイエンタールが帝国人であり元帥であり貴族であり、その纏う空気の冷徹さにあったのだ。触ればとんでもなく酷い目に合う、そんな雰囲気をロイエンタールは纏っていた。しかし、それが単なる一方的な思い込みだとなれば、それを放っておくバカがどこにいるだろうか。
「これを看過してしまえば、これから壮絶なスクープ合戦が繰り広げられましょう。閣下の周りには常に質の悪いパパラッチが付き纏い、閣下の私生活をすべて暴こうといたします。そのようなこと、決して許せることではありません!」
 一度に捲し立てたレッケンドルフは、そこでようやく言葉を切った。これほど言って伝わらないような人ではないことがわかっているからだ。
「軽率だった」
 ロイエンタールがポツリと言った。失敗を素直に認められるのも、この方の美質だとレッケンドルフは思った。これも、他に漏らすことはできない秘密である。
「では、閣下。これからしばらくマスコミに積極的に出演していただきますが、よろしいでしょうか?」
「うむ、仕方あるまい」
 スクープを禁じるための見返りだ。本当は嫌で嫌で仕方がないものを、責任が自分にあるからと何も言わずに引き受けるロイエンタールに、レッケンドルフは深々と頭を下げた。文句をつけたそうな顔をしているのは伴侶の方だが、これは後で説明すればいい。
「では、よろしくお願いいたします」
 レッケンドルフはベルゲングリューンの袖を引き、執務室を後にした。
 
 若いときからマスコミには追いかけられてきた。数々の有名無名の女性と浮名を流しては、嫉妬と羨望と憎悪でもってスキャンダラスに書き立てられた。それと今回とは明らかに何かが違う。好意的と言えばよく聞こえるが、興味本位ですべてを暴こうとする勢いに不気味さを感じる。これが、民主主義とやらが醸成してきた民衆の力とでもいうのだろうか? 
 纏まらない思考がつらつらと浮かんでは消えていく。まだ午前中だというのに、ロイエンタールはすっかり疲れ切っていた。そこにふと、芳ばしい香りが鼻腔を掠めた。
「お疲れ様です、閣下」
「どうして君が?」
 コーヒーを捧げて立っていたのはエルスハイマー民事長官の秘書を務める女性だった。
「長官が閣下はひどくお疲れだろうから、コーヒーでも淹れて差し上げなさいと仰ったのです」
 そういえば、常々エルスハイマーは秘書の淹れるコーヒーを自慢していた。確かにカップからは芳しい香りがしている。
「そうか、ではいただこうか」
 胸一杯に香りを吸い込むと、少し気持ちが落ち着いたような気がした。ロイエンタールがカップを持ち上げる背後から、民事長官の秘書は机の上に開いたままになっていた写真を覗き込んだ。
「この写真、私も拝見いたしましたけれど、とても素敵です。猫ちゃんもとってもカワイイですし、みんなが夢中になるのも頷けます」
「いい写真だとは俺も思う。だが、ここに写っているのが俺であったせいで、この写真は正当に評価されることはない」
「そんなことはありません! この上なく素敵な方が、この上なく可愛いものを抱いていらっしゃるのですもの、皆が夢中になるのも仕方がありません」
 彼女は胸を張って言い切った。
「この写真は閣下と猫ちゃん、どちらが欠けてもいけないと思います!」
 その気負った声にロイエンタールは苦笑した。しかし、とロイエンタールは思った。動物写真家を目指しているといった彼が、この写真のせいで好まぬ生き方を強いられることがなければいい、と。
 
******************************
 
 春は移ろいやすい季節である。アーモンドの花もすっかり散り、今はマグノリアが蕾を膨らませていた。例のことがあってから禁足を食らったようなロイエンタールは、久しぶりの休日だというのに屋敷の中に閉じこもっていた。とはいえ、命溢れる春の陽に建物の内に閉じこもっていることもできず、裏庭あたりをウロウロと散歩していた。麗らかな陽気に誘われるように乾いた芝生の上に腰を下ろすと、どこからともなくレーベンが駆け寄ってきてロイエンタールの腹の上に飛び乗った。猫とはいえかなり大柄な部類に入るレーベンに勢いよく飛び乗られると、かなりの衝撃を受ける。うぐっと唸って仰向けにロイエンタールが倒れると、レーベンが心配そうに顔をのぞき込んできた。ザラザラした舌で鼻の頭をペロリと舐められ、ロイエンタールは目を開けた。レーベンは安心したのかゴロゴロと喉を鳴らしロイエンタールの胸の上に丸くなった。その温もりに誘われてロイエンタールの瞼も重くなってきた。つい先程ベッドを這い出たばかりなのだが、昨夜の寝不足がたたってか、どうにも眠くて仕方がない。ロイエンタールは目を閉じた。ほんの少しだけだ、風邪も引くまい、と。
 どのくらいそうしていたのか、不意にレーベンが体を起こした。その動きでロイエンタールは目を覚ました。
「閣下、このようなところで何をしておいでですか?」
 日課のジョギングから帰ってきたばかりらしいベルゲングリューンがそこにいた。
「見ればわかるだろう? レーベンと昼寝だ」
「昼寝ですと? まだ午前のうちですぞ」
 ベルゲングリューンもロイエンタールの横に腰を下ろした。レーベンがプイっと背中を向け、尻尾をバタバタと大きく振っている。
「眠いんだ。誰のせいかな?」
「昨夜、誘ってきたのはあなたですぞ」
「もうイヤだと言ったのに、ムリにもう一度イカせたのは誰だったかな?」
「でも、気持ちよかったでしょう?」
 際どい会話を交わしていると、なんとなく妙な雰囲気になってしまう。特に昨夜の余韻が体に残っているロイエンタールは、その奥が甘く疼いて切なくさせた。
「オスカー」
 ベルゲングリューンがレーベンを押し退け、ロイエンタールの上に覆いかぶさろうとした。するとレーベンは背中の毛を逆立て渾身の一撃を髭面にお見舞いした。
「イテテ……」
「レーベン!」
 大好きなロイエンタールに叱られて、レーベンは情けなくナーンと鳴くと、走っていってしまった。
「まったくひどいヤキモチ焼きですな」
 ベルゲングリューンは苦笑しながらロイエンタールの腕を引き立ち上がらせた。春とはいえ、このようなところでの長く寝そべっていると風邪を引かせてしまう。
「さあ、早く立って」
「うん」
 ロイエンタールはベルゲングリューンの腕だけを支えに立ち上がろうとした。だが、中腰でいたベルゲングリューンはその力に耐えきれず、前につんのめってしまった。
「うわッ」
「グッ……」
 ベルゲングリューンの厚い体に押し潰され、ロイエンタールは一瞬息を詰めた。
「大丈夫ですか?!」
 慌てて体を起こそうとするその首に、ロイエンタールの両腕が絡みついた。見つめ合うとどちらからも小さな笑みがこぼれた。
「ハンス……」
 唇の動きがそう呼びかけた。ベルゲングリューンは誘われるようにその唇に口づけた。
 
「おい! そこで何をしている!」
 下から声を掛けられて、アーサーははっとした。見下ろすとそこには数人の武装した兵士がいて、小銃がこちらに向けられていた。
 アーサーは今木の上にいた。地面からはゆうに5メートルはある高さだ。木登りは動物写真家には必須の技術だと思っている。アーサーは大学卒業後の修行期間に身につけた。ロープ一本を足がかりに何時間でも木の上でシャッターチャンスを待つことができた。
「おい! 早く下りて来ないと撃つぞ!」
「い、今下りるので撃たないでください」
 アーサーはあたふたと木を下りた。
「ここで何をしていた? ん、おまえ、あの写真を撮ったやつか?」
 総督閣下のお屋敷を警護する兵士たちは、そのことに気がつくと一斉に色めき立った。
「貴様、また何か撮ったのではあるまいな!」
 アーサーは首を振った。
 確かに、今朝編集長から
「社長賞を取ったからといって、いつまでものんびりしていてもらっていては困るなぁ。ウチは余剰の人員に給料を払えるような大手の出版社とは違うんだ。トットと取材に行ってこい! お得意の総督でも撮ってこい!」
と編集部から追い出されてここにいるのだが、決して兵士たちの言うようなことはしていなかった。彼は総督ではなくあの黒猫を撮れたらと、自然とここに足が向いたのだ。自分のせいで警備が厳しくなりお屋敷近くには近づけなかったので、少々離れてはいるが裏庭の一角を狙える格好の木を見つけ登ったのだ。編集長が持たせてくれは機材の中には高価な望遠レンズが入っていた。それで覗けばここからでも猫を捉えることができるはずだった。しかし、そこで見たのは……
 データを確認させろと言うので、アーサーはカメラごと渡してやった。
 彼はここ最近時々雑誌やソリビジョンで見かけるようになったオスカー・フォン・ロイエンタールという人のことを思った。今までそういうものと無縁に過ごしてきた彼がこうなったのは、自分のせいに違いなかった。確かに、知れば知るほど魅力的な人物だとは思うが、かと言って興味本位で私生活を暴くというのは違う気がする。先程垣間見てしまった普通の幸せも、簡単に壊してしまえるだろう自分の仕事が恐ろしく感じた。人は知らなくていいことまで知る必要はないのだ。こんなふうに考える自分に今の仕事は向いていない、絶対に。
「閣下のお屋敷、裏手はプライバシーが甘いですよ。目隠しのコニファーでも植えられたらどうですか?」
 じゃあ、とアーサーは立ち去ろうとした。
「待て! まだ確認ができていないぞ」
「どうぞ存分にご確認ください。よかったらカメラは後で編集部に届けてください。私はもうこの仕事は辞めるんで!」
 あ、とアーサーはあることを思い出した。ずっと鞄に入れっぱなしだったから少し角が潰れてしまったが、中の写真は曲がっていないはずだ。
「これ、お約束していたものです。総督閣下にお渡しください、では!」
 手を付けずにおいてある「社長賞」で良いカメラを一式買おう。そしてもう一度旅に出るんだ。アーサーは晴れ晴れとした気持ちで空を仰いだ。こんなに晴れやかな空を久しぶりに見たと彼は思った。
 

おしまい
 





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