アーモンドの花の下で(1) |
アーサー・アンダーソンは編集長に追い出されるように外に出た。春とは言え、3月も半ばにさしかかったばかり。少し霞がかった空は淡く青く、風さえ吹かなければ春らしい暖かさが感じられない訳ではなかったがまだまだ空気は冷たかった。 週刊誌の編集部に籍を置いてはいるが、彼の希望は動物カメラマンである。大学を卒業後、一年間と自ら期限をきって、カメラだけを下げて世界中を飛び回り動物たちの姿をファインダーに収めた歩いた。その中の一枚がたまたま動物写真家内ではちょっと有名な賞をとり、それで彼は動物写真家を目指して就職活動をはじめた。しかし、今のご時世、彼のような駆け出しの若造を雇ってくれる太っ腹な雑誌社などどこにもない。ついに食うにも困り果てた彼は、大学時代の先輩のコネでなんとか今の雑誌社に勤めることができたのだった。だが、そこで求められたのは報道カメラマンなどという肩書きが恥ずかしいほどのスクープ写真やゴシック写真。そして彼は今の今まで編集長のお眼鏡に適うような写真を一枚だに撮ることができていなかった。 「デスクに齧り付いてたってスクープは拾えないぞ! スクープは外に落ちているんだ、拾ってこい!」 そうどやされて外に出たはずなのに、アーサーの足はついつい自然の多い、つまり動物に出会えそうな区画に向いていた。今彼がいるのは、都市化の甚だしいハイネセンポリスにあって、唯一と言っていいほど自然の残った古いお屋敷街だった。 ――シャーッ 不意に彼の耳が微かな音を拾った。それは小さな獣の威嚇の声だと彼は聞き分けた。とっさに彼は周りの木々に目を走らせた。声と同時に枝の揺れる音を聞き取っていたのだ。 「あっ、いた」 一際堅牢なお屋敷の塀を越えて、花木の枝が張り出していた。白い花をたわわに付けているのは、おそらくアーモンドの木だ。そのひと枝が不自然に揺れていた。アーサーは人気のない小路へ足を踏み入れた。ここはお屋敷街の裏手に当たる一画で、人気はなくひっそり閑としていた。 揺れるその木に忍び寄ると、枝の上に一匹の大きな黒猫が、低い姿勢で何かを狙っていた。その視線の先には小さなアオダイショウががいた。おそらく、暖かい日差しを求めて日光浴をしていたヘビを見つけた猫が、好奇心でちょっかいを出して、ヘビを怒らせたのだろう。猫とヘビは睨み合って互いに一歩も引かない様子である。これだとアーサーはカメラを構えた。アーモンドの白い花を背景に、黒猫とアオダイショウの緊迫感あふれる対峙、久々に撮りたいと思わせ画だった。 カシャカシャとシャッターを切る音にも気を逸らさなかった猫が、ふと耳をひくつかせた。注意が逸れた隙をついてアオダイショウが攻撃を仕掛けた。猫も慌てて応戦しようと飛びかかり、バランスを崩して双方ともアーサーがいる小路に転がり落ちてきた。 「レーベン!」 塀の中から人の声がした。おそらく飼い主のその声に猫は気を取られたのだろう。 「レーベン? どこにいるんだ」 猫を探す人の声は猫を見つけられずにいるらしい。アーサーはその人に向かって声を掛けた。 「あの、猫ならこっちに、外に落ちてきましたよ」 中の人の足音が聞こえる。猫が落ちてきた近くの勝手口らしき鉄製の門扉がギギっと音を立てて開いた。 出てきたのはアーサーより少し年上らしい青年だった。このお屋敷の住人らしく、普段着なのだろうがかなり上品な身なりをしていた。 「こんなところに、お前、どうして?」 青年が近づくと、猫は彼に甘えるように擦り寄り、かれが抱き上げるより早くその腕の中によじ登った。 「あの木の上で、ヘビを見つけて興味を持ったみたいです。最後は怒らせてしまったみたいだけど」 あっとアーサーは気づいた。 「手を噛まれたかもしれません」 「なに?!」 ちょっとすみませんといいながら猫の前足を検めると、僅かだが噛まれたらしき傷があった。アーサーと一緒にそれを覗き込んでいた飼い主の彼は、心配そうに眉を顰めた。 「あ、でも大丈夫ですよ。傷も小さいし、毒のないヘビだから」 毒がないと聞いて青年はホッとしたようだった。 改めてアーサーはその猫を見た。大型の長毛種で黒猫には珍しいオッドアイだ。この飼い主のことがよほど好きらしく、傍から見ていて恥ずかしいくらい甘えている。 「ずいぶん可愛がられているのですね。毛並みもいいし、表情も豊かです」 「猫に表情があるのか?」 「ありますとも! 今は貴方がと〜っても大好きって顔をしています」 「そうなのか?」 青年は猫の脇の下に手を入れて目線を合わせるように猫を持ち上げた。猫は首を伸ばして鼻先を飼い主につけようとしている。ああ、いい絵だなぁと思うといても立ってもいられなくなった。 「あの! 私は動物写真家を目指していまして、この子を撮らせてほしいのです」 カメラを構えてアーサーはお願いをした。 「レーベン……猫を?」 「はい。是非! 写真は現像したら送りますので!」 「いや、郵送はいいのでポストに入れておいてくれたらいい」 婉曲的な諾の返事を聞き、アーサーは夢中なってシャッターを切った。こんなふうに動物を撮って暮らせたらどんなにいいかと夢想しながら、目の前のとてつもなく可愛らしいものを切り取ることに集中した。きっと素晴らしい写真が撮れている、アーサーは素敵な予感を感じていた。 ****************************** 「おいおい、アーサー君。私は君にスクープを撮ってこいと言ったんだよ? 何を猫なんて撮ってきているんだ? 猫以外に何でもあるだろ? 事故だって喧嘩だって不倫だっていいんだよ?」 編集長のいつもの嫌味を聞き流しながら、アーサーは今日撮った写真を見直していた。春らしい水色の空にアーモンドの白い花、猫の黒色が画面を引き締めていた。 「あら、私は素敵だと思うけど」 編集長のお気に入りルーシー女史がアーサーの肩越しにモニターを覗き込んで言った。 「確かにいいかもしれないけどね、うちには必要ないんだよ、こんなのは」 編集長の声は聞き流してさらに写真を確認していく。ここからは猫がメインの写真だ。やはり飼い主に抱かれて機嫌がいいのか、良い表情をしている。使い道はないとしても、いい写真を取れてアーサーは満足だった。 「ねえ、ちょっとこれ!」 ルーシー女史が突然声を上げた。彼女が指差すのは猫の飼い主の彼だ。見て見てという女史の声に編集部のメンバーが集まっていた。何事かとアーサーは面々を振り返って見ていると、彼らの顔が次第に驚きの色に染まっていった。何なんだと彼が疑問を呈する前に、編集長のため息が聞こえた。 「おい、これは……」 「ええ、髪を下ろして軍服を着ていないから一瞬誰かわからなかってけれど」 「ああ。この色の違う両目……オスカー・フォン・ロイエンタールに間違いない」 「オスカー・フォン?」 「アーサー、仮にもマスコミの端に連なっているんだ、ちっとは社会のことも知っておいてくれよ」 「そうよ、アーサー。それに彼は女の子達にはとても人気よ。この滅多にいない美男子を間近に見て何も思わなかったの!」 二人に責め立てられてアーサーは初めて飼い主の彼に注目した。確かにあまり見ないくらいの整った顔をした青年だった。 「えっと……彼はどういう人なんですか?」 アーサーは二人にガッチリと肩を掴まれた。 「彼はオスカー・フォン・ロイエンタール。我らがハイネセンの総督閣下だ!」 二人に掴まれた肩がギシッと音を立てた。 「アーサー君、これはスクープだよ!」 ****************************** 滅多に編集部になんて来ない社長が現れて、アーサーに分厚い封筒を渡してきた。 「よくやった、アーサー。君のスクープは今年の社長賞ものだ!」 編集部はこの日は朝から奇妙な活気に満ちていた。 アーサーの撮ったロイエンタール総督のプライベート写真は、今日発売の雑誌『ウーマンセブン』の巻頭を飾っていた。さらに、昨日のうちにマスコミ各社にこの情報を流しておいたので、朝から各テレビ局のワイドショーはこの話題で持ちきりだった。今も編集部のテレビは「ロイエンタール総督の素顔に迫る!」と題して、大掛かりな特集が組まれていた。 アーサーはそれを見ながら申し訳ない気持ちでいっぱいになった。こんな騒動になろうとは思ってもしなかったなどと言っても、言い訳にすらならない。まるで騙すように写真を撮られ、今まで誰も触れなかった彼のプライベートを暴かれようとしている。マスコミのターゲットに一度なって平穏な暮らしができるはずもないのだ。 頭を抱えるアーサーに、上機嫌に編集長は話し続けていた。 「編集長、お電話です」 今朝から何度も掛かってくる電話は、そのほとんどが彼の仕事を妬む同業者からのものだったので、今回もそうだろうとここにいる誰もが思った。だが、次の一声でざわめいていた編集部は一度に静まり返った。 「総督府から、副官部のレッケンドルフ准将からです」 レッケンドルフは『ウーマンセブン』の編集長に対し苦情と警告を一方的にまくしたて、通話を終えた。総督府の副官部では、優秀な総督閣下の副官たちの半数がハイネセンに存在する大小すべてのマスコミに対して今回のようなことがないように釘を指して回っていた。そして、そうでない半数の副官たちは、文書による抗議文と警告文の起案をしていた。その進捗状況を確認すると、レッケンドルフは渦中の人のもとに向かった。 レッケンドルフは今日朝からの出来事を反芻した。まだ数時間しか経っていないが、もう数日分の心労を負ったようだった。 朝登庁した瞬間、レッケンドルフは違和感を感じとった。この感覚、覚えがあった。それは女子職員たちがバレンタインデーやら閣下の誕生日らや何やらと騒ぐ日に感じた桃色がかった熱気である。見渡すと彼女たちがここかしこに数人でかたまり、こちらをうかがっている。こちらから声を掛けたほうがいいのかどうすればいいのか決めあぐねていると、一つのグループが彼の前に歩み寄ってきた。 「准将、これを見てください」 差し出された三流女性誌をペラペラとめくってみて、彼の頭は真っ白になった。そこには数ページに渡ってロイエンタールのオフショットが印刷されていたのだ。 ――綺麗だ、いや、可愛いかも…… 真っ先に頭に浮かんだそれらの言葉をブンブンとレッケンドルフは振り落とそうとした。落ち着けエミール、冷静になるんだと何度も自分に言い聞かせた。その間も女子職員たちの言葉が耳に入る。 「スッごくいい写真ですよね。いつもと違う雰囲気でスッごく素敵だし……、カワイイって感じ? でも、これって問題ですよね?」 そう、写真の良し悪しはおいておいて、このこちらが許可した覚えのない写真が雑誌などに載っていることが問題なのだ。 「これ、借りてもいいかい?」 「はい、あ、でも絶対に返してくださいね。もうどこも売り切れなんです」 ――これだ…… 閣下には誰もを惹きつける魅力がある。そしてそれはメディアには利益を生む存在でもあるということだ。閣下をお守りしなければと、レッケンドルフは闘志をかきたてた。 「准将! レッケンドルフ准将!」 女子職員から借りた雑誌を手に副官部に急いでいると、背後から彼を呼び止める声がした。振り返ってみると、そこには彼の部下の一人である中尉が立っていた。 「准将、ご存知ですか?」 「ああ、この雑誌のことだろう?」 レッケンドルフが『ウーマンセブン』を上げて見せると、中尉はそれだけではないのですと彼を手近なソリビジョンの前に引っ張っていった。 「これです」 中尉が電源をオンにすると、朝のワイドショーが映し出された。そこには例の写真とともに、どこから入手したのか、若かりし日のロイエンタールの写真などを使い、『素顔のロイエンタール元帥』なる特集が組まれていた。 「クソッ!」 やられた、とレッケンドルフはほぞを噛む思いだった。おそらく『ウーマンセブン』の編集部は今日の発売に合わせて予め各所に情報を流してあったのだ。レッケンドルフの闘志は今や怒りの炎に燃え上がり、今にも爆発しそうだった。その気持ちのまま彼は部下の副官たちに命令を下し、自らは『ウーマンセブン』編集長に抗議と警告という体を装った脅迫のために受話器を取ったのだった。 とりあえず、打てる手は打ち尽くした。次はこの度の騒動の大本に苦言を呈する番だ。レッケンドルフはなんとなく浮かない気分で、総督執務室への廊下を歩いていた。その途中、たまたますれ違った人物を認めてレッケンドルフはくすぶった怒りの残り火のはけ口を発見した。 「これはこれはベルゲングリューン軍事総監閣下、おはようございます」 「お、おはよう」 ベルゲングリューンは明らかに様子のおかしいレッケンドルフに、警戒心をあらわにした。しかし、その手に持つ一冊の雑誌が彼の退路を完全に絶った。 「それ、どうされたのですか! まさか、ご自分で買われたのではありますまいな?」 ベルゲングリューンは『ウーマンセブン』を持っていた。 「い、いいや、これは俺の部下が・・・・・・」 彼の部下が彼のためにわざわざ近くの売店まで走って買ってきてくれたものだが、それを言ってはいけないような気がして、ベルゲングリューンは言葉を切った。 「卿も持っているではないか」 「これは女子職員からの借り物です。総監のように嫌らしい目的で部下を使い走りさせ購入したのではありません。どうせ今の今までどこかでにやにやと閣下のお写真をご覧になっていたのでしょう!」 「なっ?!」 ベルゲングリューンは言葉を再び飲み込んだ。何を言っても火に油を注ぐだけだと理解したからだった。 「ゴホン・・・・・・、ところで卿はそのようなものを持ってどこへ行くのだ?」 「もちろん閣下のところです。閣下には此度のことを反省してもらわなければなりませんので」 「閣下はお悪くないだろう?」 ついついロイエンタールを庇うベルゲングリューンをギロリと睨み、レッケンドルフは、 「どうやら総監もわかっていらっしゃらないようですね。ついでです。一緒に来てください」 と冷たく言い放った。このままレッケンドルフ一人を向かわせるのは不安でもあったので、ベルゲングリューンは素直に従うことにした。 続く |