秉燭夜遊(11)



 
「今日は良い天気だな」
 いつしか二人で眠ることが日常になっていたベッドからそろりと抜け出し、軍服を身に着けていたロイエンタールは何気なく思ったことを声に出した。近頃は眠っていることが多くなったオーベルシュタインに、こうして語りかけることがロイエンタールの日課になっていた。痛みを抑えるために投与された麻薬と紙一重の鎮痛剤も、もうこれ以上量を増やすことができないまでになっていた。医師いわく、もういつ息を引き取ってもおかしくない状態らしい。しかし、昏睡状態から時々意識を取り戻しては、歯の浮くような愛の言葉を口にするこの男が、このまま死んでしまうなどロイエンタールには想像できなかった。
 この日も返事を期待しないまま好き勝手に話し掛け、眠る頬にキスして出かけるはずだった。だから、
「そうか、ここからは見えないが」
との返事があったことに驚いた。慌てて枕元に駆け寄ると、いつもの何かに酩酊したような頼りない表情ではなかったことに、ロイエンタールは重ねて驚いた。
「おはよう、オーベルシュタイン。気分はどうだ?」
「おはよう。久しぶりにすっきりとした気分だ」
 微かに笑みを浮かべる表情に、知らず知らずに魅入っていたロイエンタールははっとして、窓辺に寄るとカーテンを開けた。
「どうだ? 見えるか?」
 少し頭をめぐらして、オーベルシュタインは空を見上げた。
「ああ、とても綺麗だ」
 虚ろな機械の瞳に再び意思の光が宿ったように見えた。手が届くまでに近づいていた死の影が、朝の清浄な光に融けて消える、そんな気さえする光景だった。
「オスカー、いつまでそうしているつもりだ?」
 笑いを含んだ声に突かれるまで、自分が陶然とこの光景に見とれていることにロイエンタールは気づかなかった。
「仕事があるのだろう? 軍人たるもの時間には厳格であらねばならぬ。まして君はその長だろう」
「ああ、わかったわかった」
 耳が痛い小言も懐かしいもので、なんだかすっかり以前に戻ったように思える一時だった。
「行っておいで」
「うん、行ってくるよ」
 いつものように額にキスをして、ロイエンタールはオーベルシュタイン邸を出た。垂れ込めていた厚い雲が僅かに切れ光明がさすような、そんな啓示じみた朝だった。
 
 この日、定例の元帥会議でロイエンタールは懸案だった軍縮計画についての提案を行っていた。軍が縮小するということは、その分幹部の数も減らす必要がある。それをここにいる元帥たちに呑んでもらわなければこの計画は一歩も前へは進まない。焦りは禁物だ。ロイエンタールは軍縮の必要性を様々な数値をもとに丁寧に説明していった。
「もう、限界だ……」
 最初に音を上げたのはビッテンフェルトであったが、誰も彼も同じような表情をしていた。大軍を指揮させればいずれ劣らぬ将軍たちも、軍政面にはとんと不案内だった。
「ロイエンタール、本日はそのくらいで許してやってくれ。卿の提案は非常に重要で、これからの我が国に不可欠であるということは、ここにいる皆も感じていることではあろう。しかし、皆がよく理解して検討しなければならないことでもある。本日の内容は次回までに各々よく勉強してくることにして、今日はここまでにしようではないか」
 部下の資質をよく知る皇帝の言葉に、ロイエンタールは頷かざるを得なかった。ある者は使命感に強く頷き、ある者は頭を抱えはしたが、「よく勉強して」もらうことは願ってもないことだった。
「陛下がそう仰るなら……」
 ロイエンタールは渋々の体を装って本日の分の提案を終えた。
 その時だった。
 議場の扉が細く開き、皇帝の副官の一人が姿を見せた。それを見て皇帝の後ろに控えていた主席副官シュトライト中将が扉の向こうに姿を消した。再び議場に現れたシュトライトは、重い足取りでラインハルトに歩み寄ると何事かを囁いた。
「……そうか」
 ラインハルトの表情は、先程までとは異なり明らかに翳っていた。元帥たちは何事かと我が皇帝を見守っていた。しばらくしてラインハルトは重い口を開いた。
「オーベルシュタインが亡くなった」
 一瞬騒然とした議場は、言葉をなくした人たちで静まり返っていた。
「彼には苦労ばかりをさせてしまった。彼の功績に対して何も報いることができなかった……」
 誰に対してでもなく発せられたラインハルトの言葉に、そこにいる全員が同じように項垂れた。権謀術数に長けたオーベルシュタインには、当時多くの反感を抱いたものだが、それらが偏に「今」の時代を作るために行われたことだということは、今はここにいる皆が理解していた。ラインハルトが光ならばオーベルシュタインはその影であり、恨みや憎しみといった負の感情を一身に背負い込んでいたことを誰もが理解しながらも、誰も感謝の意を示すことなどできなかった。オーベルシュタインに謝意を示すことは、すなわち自らの若気の至りを認めることであり、それができるほど彼らはまだ年を取っていなかった。
「国葬でもってオーベルシュタインを送る。シュトライト、卿がその任に当たれ」
「はっ」
「ロイエンタール」
「……あ、はい」
「卿には予の名代として弔問してもらいたいが、頼めるだろうか?」
 頼めるかではない。ラインハルトはロイエンタールとオーベルシュタインの最近の友誼を知ってそう言っているに違いなかった。
「御意に」
 ロイエンタールは立ち上がって頭を下げた。胸には言葉にはできない感謝の言葉が込み上げていた。
 
 統帥本部の車寄せには既にシュトライトを乗せた黒塗りの地上車が停まっていた。扉を開けて立っているのはフェルナーだった。
「お供いたします」
 レッケンドルフが姿を見せないところを見ると、自分の代わりにこの男を連れて行けということなのだろう。ロイエンタールは頷いた。
 車内では誰も彼も無言だった。
 ロイエンタールは車窓の外に目を向けた。ほんの数時間前、僅かな希望を胸に眺めていた景色を、今は逆戻しに辿っていく。来るときが来るべくして来た。しかし、なんの感慨も湧いてこなかった。ただ、今日の青空のような空虚感だけがあった。
 程なくして地上車はオーベルシュタイン邸の門内に滑り込んだ。朝出たときと何も変わらない、静かな佇まいだった。地上車の音を聞きつけたのか、直ぐに扉が開き弔問客を招き入れた。シュトライトから型通りの弔意を受けていた老執事夫婦は、その背後にロイエンタールの姿を認めると、途端に沈痛な表情になった。老婦人などは両手で顔を覆いその場に崩れ落ちてしまった。ロイエンタールはその小さな体を支えるようにして、オーベルシュタインの待つ所へ向かった。
 オーベルシュタインは棺の中に横たわりリビングの中央にいた。シュトライトは跪き、三角に折ったゴールデンルーヴェをラーべナルドに手渡した。家族のいないオーベルシュタインにとって、この老執事夫婦が唯一の遺族であると、有能な陛下の高級副官は判断したのだろう。ラーべナルドはロイエンタールに視線だけで伺いをたてたが、ロイエンタールもシュトライトと同じ思いだったので、これも視線で受け取るように促した。真紅の旗はこの後オーベルシュタインの棺を覆い、帝国のすべての国民からその功績を讃えられ、労をねぎらわれるのだ。
 ロイエンタールは夫人と共に棺の側に歩み寄った。何も言わなくても夫人はオーベルシュタインの棺の覆いを開けてくれた。遺体を腐敗から守る冷気がロイエンタールの足元を冷やした。
「朝、お食事をお持ちしましたら、その時にはもう……」
 ロイエンタールが出掛けて間もなくオーベルシュタインは息を引き取ったことになる。
「そう……ならば夫人が最初に……。お辛かったでしょう」
「はい」
 貴方もとは夫人は言わないが、痛みを共有する者同士通い合うものが確かにあった。ロイエンタールはラーべナルド夫人を片腕に抱きながら、もう片方の手でオーベルシュタインの頬を撫でた。冷やされ死後硬直も始まった肉体は、今まで数え切れないほど触れてきた骨張った頬とは全く違っていた。しかし……
「なんだか、笑っているようだな」
「ええ、いい夢を見ていらっしゃるような、そんなお顔をなさっています」
 背後でフェルナーが啜り泣く声が聞こえた。
 ロイエンタールは夫人をそっと立たせて、オーベルシュタインが亡くなった部屋へ行った。朝開けた窓はまだ開け放たれていた。このきれいな空に、オーベルシュタインの魂は飛んでいったのかもしれない。いや、きっとそうだろう。この美しい空に舞い上がった彼の命は、今はあらゆる苦しみから解放されて、自由に空を飛び回ってでもいるのだろうか?
 ロイエンタールはつい先程までオーベルシュタインがいたベッドに顔をつけ、彼の残り香を胸一杯吸い込んだ。今まで流れなかった涙が白いシーツに染みを作った。次から次へ、止めどなく流れる涙が我ながら不思議だった。

続く





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