秉燭夜遊(12) |
軍楽と儀仗に送られてオーベルシュタインは旅立った。弔砲の乾いた音が澄み渡った青空に吸い込まれていった。新帝国始まって初めての国家をあげての軍葬は、厳粛に執り行われた。 それからふた月あまり。ロイエンタールは軍務省の尚書室でいつも通り仕事をこなしていた。それがあまりにもいつも通りであり、そのことがロイエンタール自身を不安にさせた。 「閣下、少しお休みになってください」 フェルナーが気を遣って声をかけるほどに、ロイエンタールは普段と変わらなかった。 「しかし、やるべきことが山積しているではないか」 「それでもです。閣下にはお休みになる時間が必要です」 ワイヤーロープの神経をここぞとばかりに発揮して、フェルナーはロイエンタールを執務室から追い出した。締め出され仕方がなく統帥本部を目指した彼の目に、あの日とよく似た青空が飛び込んできた。もう夏の始まりのような刺すような日差しも明るい青空も、ロイエンタールにはただ眩しく感じるだけだった。 初めて愛した人だと思っていた。もっと、どうにかなるかと思っていた。覚悟をする時間は意外に長く、その間彼の死後の自分を思っていた。想像もできないほどの別離の苦しみは、彼の心を切り刻み、日常の生活など到底おくれないものと思っていた。それがどうだろう。あまりにもいつもどおりだった。 ーー俺の心がおかしいのか、それとも、その程度のことだったというのだろうか…… 戦争で数え切れないほどの敵味方を殺してきた者には、たとえそれが愛しいものであったとしても、死などに感傷を抱くことなどでにないのであろうか。 統帥本部に着くとレッケンドルフが待ち構えていた。執務室のソファーに彼を座らせると、コーヒーを捧げ持ってきた。 「閣下、お味はいかがですか?」 「ん? ああ、旨い」 レッケンドルフは心の中でため息をついた。何か旨いだ。今ロイエンタールが飲んだコーヒーは、色こそ濃いが苦味も旨味も何もない、以前ロイエンタール自身がそうこき下ろした豆だった。一事が万事こうだった。表面では何一つ変わらないふうを装ってはいるが、以前とは決定的に何かが違う。その原因は、2ヶ月前に鬼籍に入ったあの人に違いなかった。 ーー閣下は強いお人だから、悲しみ方をご存知ないのかもしれない。 いつか折れてしまいそうな危うさを、ロイエンタールの佇まいに感じたレッケンドルフだった。 新しくコーヒーを淹れ直していると、電話が鳴り始めた。 「閣下、お電話が鳴っていらっしゃいます」 「あ、そうか」 ぼんやりと味のしないコーヒーを飲んでいたロイエンタールのポケットから着信音は聞こえていた。取り出して発信元を見ると、そこには見知らぬ数字が表示されていた。通話ボタンを押すと 「私はオーベルシュタイン邸の執事ラーベナルトでございます」 「……ロイエンタールだ」 「ああ、やはり! 良うございました。旦那様の通話履歴を拝見いたしまして、おそらくロイエンタール様だと思い、おかけしたのでございます」 「それで、何か私に?」 「はい。お手隙の時にこちらに来ていただきたいのです」 「何かあったのですか?」 「はい。旦那様の遺産相続のことでございます」 「遺産相続……」 「詳しくはこちらにいらっしゃったときにご説明いたします」 「わかった。だが…」 「その他のこともございます。是非一度いらしてくださいませ」 相続など辞退するといいかけたロイエンタールの言葉を遮った老執事に、わかったと返事をするしかなかった。通話を終えても何事か思案するように携帯電話の画面を見つめる上官の前に、レッケンドルフは淹れ直したコーヒーを置いた。 「行ってらっしゃいませ、閣下」 「ん?」 「今日はもうたいした御用もございません」 「しかし……」 ロイエンタールは自分の執務机を見た。そこには決して少なくはない数の書類が積まれている。 「ないのです、閣下。フェルナー少将もそうおっしゃっていたのではありませんか?」 「…………」 「車をご用意いたします。閣下が今最もされなくてはいけないことをなさってほしいと、私も少将も思っているのです」 見上げるとそこには真実ロイエンタールを案じるような目があった。そんな顔は女にしてやれ、だから彼女の一人もいないんだと心の中だけで悪態をつきつつ、 「奴とずいぶん仲良くなったんだな」 と呟いた。 「職務上やむを得ず、です」 レッケンドルフは鞄を押し付け、ロイエンタールを執務室から追い出した。 オーベルシュタイン邸は以前と変わらずロイエンタールを迎え入れてくれた。オーベルシュタインがここにいないことが信じられないくらいだった。ラーベナルト夫妻とオーベルシュタインを偲びながら過ごしていると、来客があった。客はオーベルシュタイン家の弁護士だと言う。 カール・ラインターラーと名乗った彼は、ここにいるのがロイエンタール元帥であることに衝撃を受けた。なぜなら、彼はラーベナルト夫妻が、オーベルシュタイン氏の大切な人を呼んだと連絡があったからだった。確か彼と彼の人とは政敵ではなかったか。 「驚きました。まさか、閣下がいらっしゃるとは思いもよりませんでした」 率直に思いを語るラインターラーにラーベナルト夫人は涙を拭いながら、 「いいえ、ロイエンタール閣下は旦那様の唯一のご友人でございます」 と言った。唯一のという部分に夫人の思いが詰まっているように感じた。ロイエンタールはその後を引き継いだ。 「さすがに彼が退役するまでは、顔も見たくないと思っていた。友人と言えるようになったのは、陛下のご依頼で会うようになってからだ。二人で過ごした時間は短いが、彼は私にとっても特別な人だった」 「なるほど……」 ラインターラーは好奇心を疼かせながらも陛下が関わる事柄に首を突っ込むこともできず、職務上必要な範囲を超えないいくつかの質問をした。最後になるほどと納得した様子で頷いた。 「では、要件に入りましょう」 彼がブリーフケースから取り出したのは、オーベルシュタインの遺書だった。 「オーベルシュタイン様は毎年遺書を書き換えていらっしゃいました。これが最も新しいものです」 「毎年とは、マメなやつだ」 受け取ったには昨年の5月5日とあった。 「オーベルシュタインらしいな、すべて国に寄付か……。これになにか問題でも?」 「いえ、これに問題はございません。ただ……」 ラインターラーは夫人を見た。夫人は小さくだがしっかりと頷いた。 「ただ、ラーベナルト夫人はオーベルシュタイン様が更に新しい遺書を書いていらっしゃる姿を見たことがあるとおっしゃるのです」 懐かしいオーベルシュタインの筆跡に見入っていたロイエンタールは、サインを指でなぞりながら、口元を引き締めた。 「しかし、今年の5月はもう……」 「ええ、ですが去年の冬前に書いていらっしゃるのを見たのです」 「確かに遺書だと?」 「いいえ、はっきりとは。ですが、その時書いていらっしゃった物がどこにも見当たらないのです」 「ならば、仕方がないのでは?」 ロイエンタールはラーベナルト夫人を見つめた。もう仕方がないから諦めようという思いを伝えるように。 「いいえ、旦那様が最後に書かれたものですもの。見つけて差し上げたいのです」 「だが……」 「ロイエンタール様」 興奮した夫人の肩を抱き、老執事がロイエンタールに声をかけた。 「見つからなければ仕方がないと、妻もわかっているのです。妻は開かない引き出しがあるので、それでこのように申しているのでございます」 ラインターラーも言う。 「オーベルシュタイン様の机にロックが掛かっており、引き出しの中を確認できません。机はいつもオーベルシュタイン様がお使いだったということから、中に重要なものが入っている可能性は高いです。遺産整理の前に是非確認する必要がありますが、鍵がわからないのです。そこで、生前親しかった方に来ていただいたのです」 ロイエンタールはオーベルシュタインの私室を思い出した。 「あの机か……」 「鍵は16桁の数字とアルファベットですが、お心当たりはございませんか?」 「16桁……」 ロイエンタールは胸元を押さえた。あの夜のことが鮮明に思い出された。 体力がめっきり衰えたオーベルシュタインは、前戯に時間をかけるようになっていた。プライドの高いロイエンタールが譫言のように挿入を懇願しても、 「君の感じる姿をもっと見たい」 と、執拗に責め立てた。柔らかくペニスを掴まれ鈴口や裏筋を指先でなぞりながら、ロイエンタールの感じるところを唇と舌で愛撫する。普段は分厚い軍服に守られた柔らかな肌を、オーベルシュタインの吐息が余さず舐め回す。軽い絶頂を何度も繰り返し、口からは意味をなさない嬌声が絶えることなくこぼれ続ける。 「パウル……もう欲しい」 「だめだ、もっと欲しくなってからあげよう」 オーベルシュタインはロイエンタールの中に潜ませた二本の指をゆっくりと広げた。 「あっ! ィヤだッ」 オーベルシュタインは暴れる白い太腿を抑えて、指を飲み込む箇所を顔を埋めた。 「あァッン!」 指の合間から舌を差し込まれ、ロイエンタールの身体は跳ね上がった。オーベルシュタインは心地よくその声を聞きながら、今度はふうっと息を吹きかけた。指で押し広げた隙間の奥まで届くように、細く、長く。 「ヤメァァッ」 内壁が力強く締め付けるが、それをオーベルシュタインの指は許さなかった。 ロイエンタールの息遣いが変わった。オーベルシュタインはようやく前戯の手を止め、すすり泣くように喘ぐ顔を見ながら正常位で挿入した。小さな叫びを上げロイエンタールが達した。 「済まない、オスカー。君が可愛いのでついやりすぎてしまう」 先程までの虚ろさを埋めるように、硬い芯を持った熱に穿かれロイエンタールは喘いた。身体の中でこれ以上ないほど膨らんでいた快感の泡がはじけ、つぶつぶと小さく砕けて身体の隅々にまで行き渡るようだった。大きな波にゆすぶられながら身体はさらなる高みに上り詰めようとする。いや、心まで腕の中の男に委ねてしまいたい。ああ、もう俺をどうにかしてしまってくれ!脊髄をえも言われぬ痺れが駆け上がり、ロイエンタールはわずかに残っていた意識を手放した。 気怠いまどろみからロイエンタールを現に引き戻したのは、微かな金属音だった。再び閉じようとする瞼を鼓舞してなんとか視界に捉えたのは、オーベルシュタインが小さな金属片を弄んでいる姿だった。それはなんだと聞く前に、ロイエンタールの目覚めに気づいたらオーベルシュタインが話しだした。 「いつも身につけていないから どうしているのかと思っていたが、上衣のボケットに入れていたのだな」 オーベルシュタインの手にはロイエンタールの認識票があった。 「君は現役なのだから、いつ如何なるときも身につけていなくてはならないはずだが」「俺は統帥本部総長だぞ」 「今は軍務尚書も兼ねている」 「うん」 「ならばなおさら模範となる振る舞いをしなければならないよ」 ロイエンタールは手を伸ばし銀の鎖のついた2枚のプレートを取り戻そうとしたが、指が思い通りに動かず叶わなかった。 「なぜ付けぬ?」 「セックスのときに邪魔だから」 「なるほど。君には端からこれを身につける習慣がなかったようだ」 ロイエンタールはオーベルシュタインの薄くなった胸に頬をピタリとつけて、甘えるようにお願いする。 「かえしてくれよ。さすがになくすとまずいんだ」 「ならばずっと首からかけていなさい」 「んー」 再び睡魔と戦い始めたロイエンタールの目の前で、オーベルシュタインはその一枚を鎖から引きちぎった。流石にこれにはロイエンタールも目が覚めた。 「おい! 何をする!」 一枚しかない認識票を好んで首からかける軍人などいない。こんなものが見つかった日には、ベルゲングリューンにしてもレッケンドルフにしても、大騒ぎになることは目に見えている。 「どうせ身につける気はないのだろう? なら、一枚私にくれてもよかろう」 「だが……」 身に着けなくても、1枚になった識別票を持っているのは不吉に過ぎる。 「一枚なのが嫌なのか? 君もそんなことを気にするのだな」 ならば、とオーベルシュタインはベッドサイドの引き出しから一枚の金属プレートを取り出した。それはオーベルシュタインのものだった。なんでも退役するときに記念に1枚貰ったのだという。それを鎖に通した。記載内容の異なる2枚のプレートは、一見そうとはわからない様子で一本の鎖につながっている。 「こんなもの、記念にもらって嬉しいのか?」 骸を識別するためのものなど、軍から抜けると同時に捨ててしまいたいものではないのか。 「常に肌身につけていたものだ。共に生き残ったという愛着もあろう。それに、この16桁の記号番号は軍人ならば決して忘れられないものだから、パスコードに使うことも多いのだ」 「ふーん。お前もパスコードにしているのか? だったら俺が持っていてはまずいのじゃないか?」 「自分の番号くらい覚えている。だが、そうだな。もし私が忘れてしまったときは、君が開けに来てくれ」 ―――君が開けに来てくれ オーベルシュタインの机の引出しからは、遺書と手紙が見つかった。遺書には震える字で、オーベルシュタイン家の財産の処理については、すべてロイエンタールに一任すると書かれていた。手紙は3通。ラーベナルト夫妻と皇帝陛下、そしてロイエンタールへのものだった。ロイエンタールはラーベナルト夫人の許可を得て、オーベルシュタインの私室でその封を切った。 ――愛するオスカー 懐かしい肉筆は忘れかけていたオーベルシュタインの声を、ロイエンタールに思い出させた。 「愛するオスカー」から書き始められた手紙は、オーベルシュタインからの最初で最後のラブレターだった。 愛するオスカー 何から書けばよいのか悩むから、まずは事務的なお願いからしておくことにする。君にオーベルシュタイン家の財産を任せる。以前は全て寄付してしまい、それで何もかも終わりにしようと考えていた。しかし、今になって、もっと有用な活用方法があるのではないかと思われてきた。残念ながら、今の私にはそれを考える時間も能力もない。病を得てから考えることが難しい。敵将をもって智勇の均衡のとれた名将と言わしめた君に頼みたい。もう一つ、ラーベナルト夫婦のことも頼む。 君には苦労ばかりをかける。私は君という存在を得て救われることばかりだった。愛する君との別れの辛さから逃れようと、命を絶とうとしたこともあった。あの時は随分君に怒られたが、君を愛する気持ちが強くなって行くとともに、私は終わりの来ることを恐ろしく思い始めたのだ。君の気持ちも考えず身勝手だったと思う。だが、杞憂だった。君が私を愛してくれていると感じれば感じるほど、心は満たされ、君のそばでこの生を終われることを幸福とさえ思えるようになった。殺伐とした人生の終わりに、このような幸福が与えられるなど、思いもしなかったことだ。君がいてくれるからだ。ありがとう。 死ねばどこに行くのか、話をしたことを覚えているか? 私は天国も地獄も信じない。命は循環している。地球の海から生まれた命は巡り巡ってここにある、私はそう思うのだ。この広い宇宙で人が偶然に出会うことなどあるのだろうか。私は必然だと思う。いや、そう思いたい。だから、私の命もまた循環する。強い想いは引き合って再び君の元へ巡ってこよう。君の屋敷に生える草木や、庭に遊ぶ鳥、迷い込んだ犬猫。願わくば君に愛されるものとして。君の子として抱きしめられる夢を見たことがある。あのように、再び君に愛されたい。 君のことを想うと穏やかで満ち足りた気持ちになる。ありがとう、オスカー。愛している。 パウル 震える乱れた文字は、思い通りにならない手で懸命に思いを綴るオーベルシュタインの姿を思わせた。 ロイエンタールは泣いていた。静かに流れるだけだった悲しみは、今は濁流のように心をかき乱している。オーベルシュタインはもういない。そのことを初めて実感した。噛み殺せない嗚咽が口か溢れ出て、その奔流に身を任せるしかなかった。 嵐が去ったあと、あの日二人で青空を見た窓から、茜色の空が照り輝くのが見えた。こんなに美しい夕日を見たことがないとロイエンタールは思った。 終わり |