秉燭夜遊(10) |
オーベルシュタインの病状は少しずつ、しかし確実に進んでいくようだった。少しずつというのは、ロイエンタールが週の半分を共に過ごすほど、密接な時間を過ごしていたから。確実にというのは、ふと以前の姿を思い浮かべたとき、できなくなったことの多さに驚くからだった。 褥をともにしても、セックスまで至ることはほぼなくなった。だが、ロイエンタールに不満はない。薄くなった胸にすがり、足を絡めあって眠る夜はこれまでにない安息を与えてくれた。 オーベルシュタインはロイエンタールに隠し事をしなくなった。時間が合えば診察にも同行を求めた。気の毒なのは狭い診察室に建国の功臣二人を迎えた主治医であったが、以前彼の患者が恋人ができたと言っていたことを思い出して、ああなるほどと納得してくれたようだった。そこで初めてロイエンタールは、オーベルシュタインの病が単なる癌ではないことを知った。既存の治療法が効かない、近年医学界を震撼させているタイプの悪性の腫瘍であるという。 「医学が神の領域に手が届いたかと思うと、また引き離されてしまう。医学という科学を突き詰めるほどに、人智を超えた存在があるのではと思うのです」 と語る医師に、ロイエンタールはただただ最善を尽くしてくれるようにと頼むしかなかった。 病の進行とともに、オーベルシュタインの生活も少しずつ変化していった。以前は新聞や本を読むことが引退後の生活の大半を占めていたが、最近はソリビジョンを見て過ごすことが多くなったのもその一つだ。曰く、鎮痛剤の影響で細かな文字を追うことが辛くなったからだと言うことだった。 この日も夕食を終えた二人は、ソファーに思い思いの格好で座り、見るともなくソリビジョンが映し出す画面を眺めていた。 「ロイエンタール」 「ん?」 「君は海に行ったことがあるか?」 「海?」 見るとソリビジョンは青々とした海を映し出していた。 「んー、子供の頃に行ったかもしれんが、あまり記憶にないな。ああ、それと戦で何度か……しかし、あれは海だったのか湖だったのか……?」 「要するに、記憶にないということだな?」 「…………おまえは?」 「私も同じだ」 画面はすでに切り替わり、おそらくは長い休暇を楽しんでいるだろう人々の、のどかな表情がそこにあるだけだった。 「行きたいのか?」 いつの間にか肩に寄りかかっていたオーベルシュタインの頭に、囁くように訊くと、 「海など、ない」 と、その短い答えにロイエンタールは思った。確かに、フェザーンは砂漠の上に築かれた都市だ。海など極地にわずかにあるばかりだった。だいたいフェザーンの周囲には有人惑星自体がなかった。宇宙に出て、何万光年にも及ぶ航海は今のオーベルシュタインにはおそらく耐えられないだろう。 「俺も行ったことがないからどんな所かはわからないが……」 オーベルシュタインの頭にあるのは、故郷オーディンの海だろうか。きっとそうに違いない。しかし、そこまで連れて行ってやる時間はない。 「この星にも小さいながら海があるらしいぞ」 極地にまで行くにしても体力が持つかどうかの不安はある。だが、珍しく欲するものがあるらしい彼の希望を叶えてやりたいとロイエンタールは思う。 「俺も忙しい身だからな。銀河を跨いでの旅行はさすがにできない。フェザーンの海で我慢してくれるか?」 「私は行きたいなどとは一言も言っていないが……」 「なら、行かなくてもいいが?」 「……君が連れて行ってくれるのか?」 「そう言っているだろう?」 「そうか。それは、楽しみだな」 ロイエンタールは頭の中でスケジュールを確認した。この週末の休日を絡めて休みを取れば、三四日は時間が作れると思えた。そのためには、少なくともカイザーとミッターマイヤーには事情を話しておく必要があるだろう。 「今週末にでも行こう」 ドクターにも許可をもらわねばならないな、とオーベルシュタインのための予定表を僅かに書き換えた。 ****************************** 「また君は、無駄な金遣いをしたのだな」 空港に用意されたチャーター機を見て、オーベルシュタインはため息をつきながら言った。「また」ということは、常々ロイエンタールの金銭感覚に問題を感じていたということなのだろうが、この際そこにはこだわるまい。 「時間の合う便がなかったのだ。これは無駄遣いじゃない、必要な出費だ」 限られた時間を有効に使いたい。そのための出費ならばロイエンタールは惜しむつもりは全くなかった。 「これっぽっちのことで無駄遣いなどといわれるとは思わなかった。オフシーズンで便数が極端に少なかったんだ。なら、トリスタンを出したほうが良かったのか?」 大きな声で言ったつもりはなかったが、耳ざといオーベルシュタインには聞こえていたらしい。 「それは職権濫用というのだ」 と、聞こえよがしな溜息が聞こえた。 フェザーンの海はとても静かだった。まるで湖のように凪いでいた。専門家が海と湖をどう分類するのかなどロイエンタールにはわからないが、これがオーベルシュタインの望むものであればいいと思った。 「疲れていないか?」 ビーチ脇の遊歩道を歩きながら、ロイエンタールが気遣わしげに声を掛けた。大丈夫だと答えたいところだが、体は以前のように思い通りにはなってくれない。 「少し、休みたいな」 強がりも言えなくなった自分を情けなく思うが、こうして何も考えずに弱みを見せられることに、何とも言えない充足感を感じる。ロイエンタールは一瞬微妙な顔をしたが、すぐに見た人全てを蕩かすような笑みを浮べた。 「素直なのはいいことだ」 そして、支えるように自然な仕草で腰に手を回してきた。なるほど、私の恋人は相当なモテ男に違いないと、オーベルシュタインは今さながらに納得した。 休憩しようにも、二人が普段利用しているようなレストランなど一軒もなく、遊歩道にいくつかイスとテーブルを置いただけのキッチンカーが一台あるだけだった。二人はその中でも一番海に近い席につくと、ロイエンタールが軽食を求めに行った。サクサクを砂を踏む音が遠ざかり、寄せては返す波の音だけが静かに響いた。目を閉じると、その音はまるで体の中を流れる血潮の音のようにも聞こえた。 「辛いのか?」 どのくらいそうしていたのか、ロイエンタールがトレーを持って側に立っていた。トレーにはビール瓶が2本とつまみのつもりか前菜のようなものが大皿に載っていた。 「いや……なんともない」 否定したが、それでも心配そうに顔をのぞき込む姿に、重ねて大丈夫だと言って聞かせる。身体を案じる割にビールを買ってくるあたりがロイエンタールらしいとオーベルシュタインは微笑ましかった。 「何がおかしいんだ?」 笑った気配を感じたのか、ロイエンタールが張り詰めていた気を緩めてそう聞いてきた。ビールのことを言えば臍を曲げるかもしれないので、オーベルシュタインは可愛い恋人の機嫌を損ねないように別のことを言った。 「いや、おかしくはない。だが、そうだな、君のそのウエイター姿を見れば、君の幕僚たちはさぞかし驚くのだろうなと思っただけだ」 「そんなこと……」 何か思うところがあるのか、ロイエンタールは急に口をつぐんでしまった。そんな彼を横目で見ながら、オーベルシュタインは再び波の音に耳を澄ました。 「ロイエンタール」 彼がビールを1本空けた頃合いに、オーベルシュタインは視線を水平線に向けたまま口を開いた。 「君は生命がどこから知っているか?」 「生命? ………………さあ?」 「君が何を考えたかはあえて聞くまいが、私が言っているのは科学的な意味合いでだ。我々生命は地球の海から生まれたらしい」 「ああ、それなら子どもの頃に本で読んだことがある」 命。今このときにこの微妙な話題を持ち出したオーベルシュタインに、ロイエンタールはアルコールで弛緩し始めようとしていた気持ちを引き締めた。 「我々は、人間だけではなくすべての生命は、太古の昔地球の海から生まれたという。ならば、その生命は一体どこから来たのだろう?」 「…………」 「科学がいくら進歩しても、生き物の中から命を取り出すことも、命を創り出すこともできぬという。我々が一つづつ抱いているものがどこから来てどこへ行くのか誰にもわからぬとは、不思議なことだとは思わないか?」 「言われてみれば、そうだな」 ロイエンタールは青い空を仰いだ。薄い大気の膜の向こうには、彼にとっては懐かしい漆黒の宇宙が広がっている。 「俺は、死ぬなら宇宙でと思っていた。艦隊勤務の軍人なら皆そう思っていたに違いない。現に多くの僚友がそうなったしな」 軍歴の大半を宇宙で過ごしてきた。漆黒の宇宙に煌めく閃光は、数多の命を奪うエネルギー砲の軌跡であり、艦の動力である核融合炉の放った断末魔であった。その光の中で肉体は元素に返り、宇宙の一部になる。 「死ねば命も身体も元素に返り何もかも宇宙に取り込まれて、それで終いだと俺は思っていた」 「潔いな。なるほど、君らしい考えだ。だが、それでは命がどこから来るのかという疑問には答えられていない」 「どこからか……」 腕組みをし眉間にシワを寄せて考え始めたロイエンタールを、オーベルシュタインは愛しく思った。彼は誠実だ。不器用なほどに生真面目であることを、彼の稀有な美貌と華やかな噂が覆い隠しているだけに過ぎない。 「私見だが聞いてくれるか、ロイエンタール?」 「ああ」 オーベルシュタインは目を閉じ、そこに太古の昔の海を描いた。 「私は命は循環しているのではないかと思うのだ。地球という星とともに生まれた命が、姿形を変えているだけに過ぎないのでは、と」 「質量保存の法則のようなものか……」 「敏い恋人を持つと、話が楽で助かる」 肉体から離れでた命が、出自の多様な元素を結びつけ再び何かの形を持つ……。そうかもしれないと、そうであればいいと、ロイエンタールは思った。 「私の命もどこからかここに辿り着いて、さらにこれからどこかへ行こうとしている。死とは、その程度のものなのだ」 オーベルシュタインはそう思うことで自らの死を受け入れようとしているのだろうか。 「そうか……。だが、寂しいな」 ロイエンタールの脳裏には、旅立つオーベルシュタインの姿が思い浮かんだ。自分のことなど顧みず自由な空へ飛び立つ姿が。それを見上げることしかできない自分は、まるで置いていかれるようだった。ロイエンタールはこのとき初めて、見送る者の辛さを自覚した。もう間もなくやってくるそのときに、自分は耐えられるだろうか、そう思うと心が凍りつくようだった。 「ロイエンタール」 オーベルシュタインの痩せた手が、いつの間にかきつく握り締めていたロイエンタールの手を優しく包んだ。 「寂しい、確かに寂しい。だが、私は君に出会えたことをこの上なく幸せに思う。私のせいで君に辛い思いをさせてしまうとしたら、謝る」 「いや、俺も……。別れの寂しさが幸せの代価なのだとしたら、俺はそれを甘んじて受けるよ」 波の音だけが二人を包んでいる。その単調な繰り返しは、いま二人が永遠の時の流れの中にいることを実感させた。 「ロイエンタール」 「ん?」 「君はこれを偶然と思うか? それとも必然だと思うか?」 「…………」 話題の飛躍は、最近特にに多くなった。オーベルシュタインの脳内に起こったショートカットのようなものだと医師が話していた症状だろう。こんなときはただ彼の語りたいように語らせてやることが一番だと、ロイエンタールは経験則で感じていた。 「私は必然だと思う」 「そうか」 「そうだ。いずれ君にもわかる」 それだけ言うと、オーベルシュタインはロイエンタールの肩を支えに立ち上がった。 「海に来たかったわけではないが、こうして君と二人で出かけられてよかった。せっかくの旅だ。残りの時間は楽しく過ごそう」 そう言われて、ロイエンタールは今までまるで遺言を聞くような気持ちでいたことに気づいた。 「そうだな、そうしよう」 二人は浜辺を後にした。太陽はすでに水平線に沈もうとしていた。 続く |