秉燭夜遊(2) |
古くからオーベルシュタイン家に仕えているという老執事がコーヒーポットと焼き菓子をセッティングして下がっていった。おそらく、隣室に控えているレッケンドルフにも同じものでもてなされているはずだ。 オーベルシュタインはロイエンタールの姿を眺めた。彼にとっては何気ない仕草でコーヒーを飲んでいるに過ぎないのだろうが、午後の柔らかな光の中で見るその姿は実に絵画的だった。オーベルシュタインは身の内に小さな火が灯るように感じた。その感覚は、やはり彼の発見が間違いではないことを表していた。 「死期の迫った私にとって、これが最初で最後の望みとなろう。聞いてくれるか? ロイエンタール」 名前を呼ばれ、ロイエンタールは居住まいを正した。 「よくよく考えてみたが、私が欲しいものは一つしかなかった」 「ほほう、私欲のない卿がたった一つ求めるものか、それは貴重だな。ならば俺も全力で協力しよう」 オーベルシュタインはゆるゆると首を振った。 「卿がそのようなことせずともよい。私が欲しいのは卿なのだから」 「……」 「ロイエンタール」 「う、あ、あぁ、そうか、なるほど。俺のようになりないということか? 女にモテたいのか? まさか、俺の身体と卿の身体を取り替えたいなどと…」 混迷するロイエンタールにオーベルシュタインは静かに、もう一度問題の言葉を繰り返した。 「そのような非現実的なことを言ったのではない。今手に入れられるならば、ロイエンタール、私は卿が欲しい」 「それは、どういう意味だ」 「言葉通りだ。このまま卿を帰したくないと思うほど、私は卿に執着しているようだ」 「ああ、そういう……。俺も卿とこうして語らうのはいやじゃない。そういうのなら…」 「そうではない」 自分の求める方向へ二人の間の空気を誘導しようとするロイエンタールの言葉をピシャリと遮った。そして、最後まで口を挟まずに聞くようにと釘を刺して、オーベルシュタインはこの一週間考えたことを話し始めた。 「卿に私欲を考えろと言われ、私は愕然とした。もともと欲の薄い性質だったのか、抑圧し続けてなくしてしまったのかはわからぬが、物欲も色欲も感じたことがなかったのだ。いや、私の心を刺激するものがなかったと言ったほうが正しいかもしれぬ。しかし、唯一の例外があった。それが卿だ」 「それは!」 反駁しようと声をあげたロイエンタールを手で制した。彼の言いたいことなどオーベルシュタインにはお見通しだった。隠せない野心、飛び抜けた才幹、際立った功績、優れた容姿、そして金銀妖瞳。そのどれもが群を抜いていた。出る杭とも目の上の瘤とも言える存在であるがため、他よりも気になる存在であったと、それだけのことに過ぎないのだと言い包めたいのだ。しかし、それは違う。違うことをオーベルシュタインはよくわかっていた。 「卿がリヒテンラーデに繋がる女に子を孕ませたことがあったな」 「……」 「私はそのことを知り、激しい怒りを覚えた。卿が陛下を裏切ったからではない。なぜそのような激しい感情を抱くのか、当時は理解できず、自分でも不可解なほどに整合性に欠く判断をしてしまった」 「……」 「後顧の憂いを断つ方法など、考えるまでもなかった。あの女を殺し口を封じればよいだけのことだった。しかし、それを私はしなかった。なぜか……」 オーベルシュタインは徐ろに立ち上がりロイエンタールの前に移動した。そして、彼の手に自分の手を重ねた。 「私はあの女に嫉妬した。卿の寵愛を受け、子まで孕んだ彼女に嫉妬した。彼女の処分に私情が挟まり、殺したいと考えているのではないか、そう思うと適切な判断ができなかった」 「……」 「さらに、腹の子を、卿の子を殺すなど、私にはできなかった」 オーベルシュタインは握っている白い手を更に強く握りしめた。ロイエンタールがその手を振り払おうとしたが、オーベルシュタインはそれを許さなかった。 「私が陛下の許で働き始めてから、陛下の覇業の成ることに私は私の全てを注いできた。殺伐とした生活で、唯一の潤いを与えてくれたのが卿だった」 今度こそロイエンタールはオーベルシュタインの手を振り払った。 「馬鹿な! 俺は卿にとって目障りでしかなかっただろう! ことあるごとに卿に楯突き、大勢の面前で罵倒したこともあった!」 「ああ、そうだった」 オーベルシュタインはぐっと体を寄せた。 「ああ、卿は進んで私の視界に入ってきてくれた。今思えばよくわかる。私にはそれが嬉しかった」 ロイエンタールはソファーの端に身を寄せ、信じられないものを見るような目でオーベルシュタインを見た。 「ハイネセンから早々に卿を呼び戻したのも、卿の姿が近くにないことに耐えられなかったからだ」 「し、私欲が働いているじゃないか」 もちろん私欲だけで人事を変えたのではないが、それはこの場で言うことではないとオーベルシュタインは判断した。 「卿が好きだったのだ。遠くから見ているだけで十分だと思っていた。だが、最期に私も我儘がしてみたくなった。卿を私のものにしたい。そうそそのかしたのは、卿だ」 たまらずロイエンタールは立ち上がった。 「失礼する」 アタッシュケースを取ると、そのままオーベルシュタイン邸を辞退した。 レッケンドルフはバックミラー越しにロイエンタールを見た。珍しく取り乱した様子で彼の前に姿を表した彼の上司は、今は落ち着いている。西日に照らされ顔色まではわからないが、何やら考え込んでいる様子である。 「何かございましたか?」 と尋ねたが、 「いや、なにもない」 と返ってきた。たとえあったとしても言うつもりがないということだろう。今まで機嫌よくこの訪問をこなしてきただけに、この急変にレッケンドルフは緊張した。何かの前触れでなければいいが、と案じながら地上車を統帥本部に走らせた。 オーベルシュタインは飛び出していったロイエンタールを見送った。つい先程まで彼が手に取っていたカップには、まだ半分以上コーヒーが残っていた。これを飲み終えるまで彼はここにいる予定であったが、随分早く帰ってしまったものだ。それは残念ではあったが、手応えはあったので良しとしようとオーベルシュタインは思った。ロイエンタールは私を嫌ってはいない。好いてもいないかもしれないが、嫌悪感を持たれていないというのは大きい。今は思いも掛けないオーベルシュタインの告白を聞き、混乱しているだけに過ぎない。彼は一度懐に入れた者には意外に情の深い男である。これまで数年間ずっと彼を見ていたのでわかる。ここ数ヶ月の間に私をその懐に入れてしまった彼は、私のことを真剣に考えてくれるのは間違いない。私はそこにつけ込んで、彼をたとえほんのひと時であっても自分のものにする。私の知略と残された時間の全てを掛けて、この人生の最期に私は私の幸せを手に入れる。無為に死を待つしかないと思っていたが、なんと贅沢な晩年だろう。オーベルシュタインはロイエンタールのカップを手に取った。そして、その残されたコーヒーを飲み干した。 ******************************* 昇級と人事異動の季節が来て、ロイエンタールは多忙の中にも多忙を極めた。もともとロイエンタールはこの時に統帥本部の長として宇宙艦隊の再編をしようと考えていた。しかし今、軍政側として軍令側の意見を批判的に見なければならない立場にもあった。軍政と軍令。まるで、アクセルとブレーキを同時に踏み込むように一つの人格内で両立させるのは不可能なものであった。この状態にこれ以上ない難しい立場にありがらも、ロイエンタールは職務に没頭した。常に彼をサポートしているレッケンドルフから見ると、これは完全なオーバーワークの状態であった。彼の上官は心身ともに壮健で、ストレス耐性も高い。しかし、仕事に没頭すると、食事と睡眠をとらなくなってしまう傾向がある。レッケンドルフは以前のようにロイエンタールがワインとチーズだけの食事にならないように、常に目を光らせる必要があった。 「お食事は召し上がりましたか?」 「もうお休みになってください」 レッケンドルフにそう言われてはじめて休息を取っていないことに気づくほどでなければ、オーベルシュタインを頭から締め出すことができなかったのだ。 それでも、ふと時間が空いたときなどにあの時のことを思い出してしまう。いや、ほんの僅かな隙であっても、オーベルシュタインの影はロイエンタールの脳裏に差し込んでくる。果断に富んだ司令官として数多の戦火をくぐってきたが、この問題にはどのようにあたるべきか全く方針が立たなかった。どう応じるのが正解なのか、どうすべきなのか、どうしたいのか、答えを出すことができなかった。 忙していればいるほど、時間は駆け足で過ぎていく。仕事は概ね片付いたが、思案は全く纏まらぬまま「その日」を迎えてしまった。 「閣下、もうそろそろお出掛けなさいませんと、お約束の時間に間に合いません」 そう恐縮したようにレッケンドルフが声を掛けても、ロイエンタールの腰は重いままだった。しかし、自分の仕事量と比例して忙しくなっているだろう副官を思うと、我儘を言ってもいられない気持ちになる。このオーベルシュタイン邸訪問も、レッケンドルフがロイエンタールのスケジュールをやり繰りして捻り出したのだ。 「卿にも苦労をかけるな」 「いえ、小官の苦労など閣下の御苦労に較べれば、たいしたことではありません」 珍しいロイエンタールからの労いの言葉に、こう返したレッケンドルフの顔には、やはり疲れが滲んでいる。長らく自身に仕え、いまや阿吽の呼吸を身につけたレッケンドルフを、今のような非常時に帯同しないのはマイナスでしかないが、今彼に過重労働が原因で戦線から離脱されても困る。なので、この機会に彼の副官を休ませることにした。それに、この度はこの心配性の部下に迷惑をかけてしまった自覚もある。 「いや、卿はよくやってくれている。オーベルシュタインの所にはフェルナー少将を連れて行くから、卿はその間休んでくれ」 オーベルシュタイン軍務尚書の元で官房長を務めていたフェルナーは、今は軍務尚書としてのロイエンタールを補佐している。これまでロイエンタールに関する全てを管理してきたレッケンドルフは、一部分とはいえその職分を侵されることに難色を示していた。今もフェルナーと聞いてわずかに反応したものの、その行き先から納得したらしい。 「では、そうさせていただきます」 と、頭を下げた。休めとは言ったが、有能な副官はロイエンタールが不在の間も働き続けることはわかっていた。その肩をぽんと叩き、ロイエンタールは統帥本部を後にした。 軍務省に着くと、フェルナーが待ち構えていた。 「お珍しい。今日はあの可愛らしい番犬はお連れではないのですね」 「『可愛い番犬』? レッケンドルフのことか?」 「はい。いつも閣下のお側で小官に牙を剥いているので、失礼でしたか?」 失礼に決まっているだろうとは思っても口には出さず、代わりに小さなため息が零れ出た。 「フェルナー、俺の副官を馬鹿にするな」 「おや、小官も今はロイエンタール閣下の副官のようなものでありますが」 「……」 薄ら笑いを口元に浮かべて、フェルナーはロイエンタールの心を試すような視線を寄越してくる。ロイエンタールは今度は心の中だけだでため息をついた。最近のレッケンドルフの疲弊の一因がここにもあるのだろう。 「頼んでいたものは用意できたか?」 以前はオーベルシュタインが座っていた軍務尚書の椅子に着くと、フェルナーに尋ねた。 「はい。閣下の端末に送ってあります。小官は見ることができませんので、ご確認ください」 フェルナーに用意させていたのは、軍務省官房に所属する士官の考課表だった。その中にはもちろん官房長であるフェルナーのものもある。 「我々に何か問題でもございましたか?」 「いや、問題はない。ただ、卿らは先の軍務尚書のもとで働いてきた。上が代わるとなれば異動を希望するものもあろうかと思ってな」 「異動ですか……」 「卿も、希望があれば聞くぞ」 ロイエンタールはデータを確認すると、端末を閉じた。 「卿らのことはオーベルシュタインに訊くのが一番手っ取り早いだろう。俺に言いにくければ、元の上官に言うがいい」 付いてこいと、端末を収めたアタッシュケースを押し付けてロイエンタールは車寄せに向かって歩き出した。 車が動き出すと、オーベルシュタインを意識せざるを得なかった。自分の前には幸いにと言っていいのか迷うところではあるが、彼のことを最も近くで見てきた人物が座っていた。情報収集をするつもりでロイエンタールはフェルナーに話し掛けた。 「卿にとって、オーベルシュタインとはどんな上官だった?」 突然の問い掛けに、フェルナーはちょっと驚いたような顔をした。暫くその意図を見抜こうとするように、ロイエンタールを鋭く見つめ、やがて、自身も何か思い出すような遠い目をした。 「良い上官であったか、と聞かれるとそうだともそうでないとも言えません。不当な扱いをされたことはありませんが、何しろ、何を考えているかわからない人ですから」 「卿にもわからなかったのか」 「はい。推測はしますが、はたしてそれがあっているかどうか、答えてくれるような人ではありませんでしたので」 ロイエンタールは思い当たることがあるのか、うんうんと小さく頷いている。それを見て、フェルナーはあることを思い出した。それは、フェルナーの記憶の中にある最も不可解なオーベルシュタインの姿であった。 「そういえば、閣下がノイエラント総督でいらっしゃったとき、謀叛の噂が立ちましたが、小官はその時、オーベルシュタイン閣下はそれを機にロイエンタール閣下を排除されるのではないかと思ったのです。なんせ、ナンバー2不要論を唱える方でしたので」 「それは、俺がナンバー2などではあり得ないと、オーベルシュタインは思っていたのだろうさ。実際そうだろう?」 「それはありません。ノイエラント総督は皇帝陛下に次ぐ権力と地位であったことは間違いありません。だからこそ、その後すぐにその職は廃止になりました。今であっても、閣下とミッターマイヤー元帥はやはりナンバー2でありましょう」 もし、あのまま疑惑が大きくなり、皇帝に討伐を命ぜられたミッターマイヤーと俺が戦い、共に倒れるようなことがあれば、ナンバー2を一度に消滅させることができたのか…… 「しかし、オーベルシュタインはそれをしなかった。なぜだ?」 飛躍したロイエンタールの言葉を正確に理解し、フェルナーは答えた。 「それがわからないのです」 「推測はしたのだろう? 卿はどう考えたのだ? 教えてくれ」 オーベルシュタインの言葉を思い出しながら、フェルナーに聞いてみた。フェルナーはうーんと腕組みをして唸った。そして、 「根っからのマキャベリストですから、すべて目的ありきの行動なのです。目的があったはずなのですが、あの時ほどそれがわからなかったときはありませんでした。珍しく焦っていらっしゃるなとは思ったのですが、それだけですね、小官にわかったのは」 「フーム」 腹心とも言えるフェルナーにも、自身の気持ちを吐露することがなかった、ということだけが収穫といえた。 「何もかも一人で抱え込んで、ご自分の気持ちを吐き出す場所がなかったのではないでしょうか? 少なくとも小官はその位置にはありませんでした。病を得られた今、お気持ちを吐き出せる相手がいらっしゃるとよいのにとは思います」 「…………」 ロイエンタールはフェルナーの視線を感じながら、それは俺の役目ではないさと、心の中で密かに悪態をついた。 続く |