秉燭夜遊(5)




 その夜以降、二人はオーベルシュタイン邸で逢瀬を重ねた。ロイエンタールは女との付き合いをぱったりと止めた。これは別にオーベルシュタインに操立てしているわけではなく、ただ、性的に身体が満足できているからに過ぎない、というのがロイエンタールの言い分ではあったが。オーベルシュタイン邸の執事夫婦ともすっかり顔馴染みになり、この日のように主人が不在の折でも、快く邸内に迎え入れてくれた。
「今日は通院の日だったのですね」
 ラーべナルト夫人は、主人に付き添って不在の夫に代わり、客をもてなしていた。このお伽噺から抜け出したような貴公子が、主人にとって特別な人であることは、聞かずともわかっていた。その主人の大切な人は、今日は珍しく平服を纏っている。
「はい、もう間もなく戻ってくると思うのですが……」
「そう………」
 客は窓の外に目をやっている。雨が降り出したようだった。夫人がテーブルの上を調え失礼しようとしたとき、背を向けたままの客が口を開いた。
「オーベルシュタインの、彼の具合はどうなのですか?」
 足を止めた夫人に、客は向き直って言った。
「大丈夫だと彼は言うのだが、私に本当のことを言っているのかどうか、わからないから」
 ラーべナルト夫人は柔らかく微笑んだ。
「病状は少しずつ進んでいるそうです。でも、最初にお医者様に言われていたよりも、ゆっくりとであるそうです。進むのは仕方がないから、これは良い兆候だと旦那様は仰っておりました」
「そうか……」
 貴公子は腕を組み、少し何かを考えたふうに苦笑いを浮かべた。ロイエンタールはオーベルシュタインが病人であることを思うと、自分との付き合いが果たして適切であるのか悩む。まるで、命を削って情欲の焔を灯すかのようにしてオーベルシュタインはロイエンタールを抱く。それが、オーベルシュタインの身体にとって良いことであるとは思えなかった。彼も彼を慕う者たちもこうして自分を歓待してくれるが、彼や彼らにとっては、自分は決して好ましい存在ではないのではないか、と思うのだった。それを知ってか知らずか、おそらく知らぬだろうラーべナルト夫人は言う。
「それにしても今日は遅うございますね。ロイエンタール様がいらっしゃっているとご存知でしたら、飛んで帰っていらっしゃると思うのですが」
 その言葉に苦笑を浮かべ、ロイエンタールは自身の不安を微かに吐き出した。
「何かあったのだろうか?」
 検診の結果が思わしくなかったのか、と思考が悪い方向に傾きかけたとき、遠くで門扉の開く音が聞こえた。
 
 ラーべナルト夫人お手製のアプフェルシュトゥルーデルでティータイムを終えると、二人はまだ日も高いうちに寝室になだれ込んだ。死を身近に感じると、男は性欲が亢進すると聞いたことがあったが、この男もそうなのだろうか。ロイエンタールはそんなことを考えて、珍しく情事にのめり込むことができなかった。
 そんなこととは知らないオーベルシュタインは、力を失ったものをロイエンタールの胎内から引き抜くと、多幸感を顕にロイエンタールを抱き締めた。
「水は?」
「貰う」
 短いやり取りを交わし、迷いなくロイエンタールは冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。蓋を開け一口飲んでそれをオーベルシュタインに手渡した。
「今日は随分早かったのだな」
 今頃それを言うかと呆れた気持ちで、それでも律儀に返事をする。本当は彼の方も聞きたいことはあるのだが、こちらはロイエンタールからは切り出しにくい内容だった。
「これからしばらくの間忙しくなるからといって、無理矢理に休みを取らされたのだ」
「なるほど。ああ、それで……」
「それで?」
「ん? いや、それで珍しく平服だったのだなと思ったのだ」
 その珍しい装いも、今はベットの周りに散らばっている。
「君は、どんな格好をしても似合うな」
「ふん、すぐに脱がせたくせに」
 オーベルシュタインの腕が伸びてきたので、ロイエンタールはその中に収まるのように、薄くなった胸を枕に横になった。トクトクと心臓の音が聞こえる。いずれ、それもそう遠くない未来に、この心音も聞こえなくなってしまうのか、と柄にもなく思ってしまうのはさきほどまでの情事のせいか。ロイエンタールは重くなってきた目蓋と一足先に眠りについた理性のために、ぼやけた意識で知らず知らず口を開いていた。
「なあ、病院で何か言われたのか?」
「ん? いや、いつも通りだ。ああ、しかし、進行が予定よりも遅いようだ。恋人ができたと言うと、そのせいかもしれぬと言われた」
 ロイエンタールは夢うつつでオーベルシュタインの声を聞いていた。ふと額が擽ったく感じたのは、キスでもされたのだろう。
「恋人……」
「ああ。もちろん君のことだ。私が勝手にそう思っているだけだなのだから、構わぬだろう?」
「………。だが、帰りが遅いとラーべナルト夫人も言っていた」
「ああ、人と会っていたのだ」
「人と……」
「そうだ。昔の部下に偶然会ってな」
「そう…か……」
 安堵の思いからか、ロイエンタールの目蓋は更に重くなったようだった。神経が解けていくような心地よさを感じていた耳に、オーベルシュタインの声だけが流れ込む。それは、ふわふわとした意識にとても心地の良いものであるはずだった。
「ロイエンタール」
 我が名を呼ぶ声が、堪らなく甘く聞こえるのは気のせいではないはずだ。だから、それに続いた言葉をすぐには理解できなかった。
「私が死んだら、君は誰か素敵な女性と結婚するといい」
「………?」
「可愛い奥方と可愛い子等に囲まれて、幸せに過ごしてほしい」
 ロイエンタールは覚醒した。まるで氷水を浴びせられたようには、さきほどまでの眠気はどこかに吹っ飛んでしまった。
「なんだって?!」
 頭を上げ、睨みつけるようにオーベルシュタインを見た。しかし、そこにはロイエンタールが思い描いていたのとは全く異なる目があった。それは、慈愛に満ちたとでもしか言いようのない、穏やかなものだった。
「……帰る」
「ロイエンタール?!」
 慌てる声を振り切って、脱ぎ散らかした服を掻き集め身につけ、ロイエンタールは邸を飛び出した。ポケットに入れたままだった携帯端末を取り出し、タクシーを呼んだ。結局オーベルシュタインは追いかけては来なかった。たとえそうされていたとしても戻るつもりはなかったが。早足でオーベルシュタイン邸から遠ざかるロイエンタールの脇に、無人の地上車が横付けた。IDカードを翳してロイエンタールは車内の人になった。
 
 その夜、ロイエンタールは夢を見た。
 それはとても古い夢だったが、懐かしさや温かさとは無縁のものだった。なぜ今になってそんな子供の頃の夢を見たのか、いや、今だからこそ見たのか。ロイエンタールは冷や汗をかいたまま動悸を抑えようと、深呼吸を繰り返した。ここはそこではないと理解はできるが、心はベッドの中にいることを拒んだ。暗闇の中シーツに包まっていると、あの男が、父親が、あの扉を開けて姿を現すのではないかと、本能が怯えるのだ。もうあの男は死んだのだ、もうあの男が自分を犯すことはないのだとわかっていても感じる恐怖ーーそんなもの、とうに克服したと思っていたのに。
 寝間着の上にガウンを羽織り庭に出た。オーディンの屋敷とは比べものにならない程の小さな庭だ。それでも、外の空気に当たったことで、ロイエンタールはいつもの冷静さを取り戻したように感じた。誰がなんのために置いたのかわからないベンチに腰掛け、自分の気持ちを整理する。青白い月の光は昼間は見えなかったものを、見たくなくて目を逸らしていたものを、白白と照らし出すようだった。
 オーベルシュタインとあの男ーー本質的には異なる二人だが、そのどこかに共通点を持っている。そのことに……図らずも今宵のあの夢で気づいてしまった。あの男は自分の姿形に母を見、オーベルシュタインは気持ちはともかく体を求めた。二人とも用があるのは外側だけで、ロイエンタールの内側を、心を求めない。あの男は結局、ロイエンタールの心が奈辺にあるのか知ろうともせず、自分の醜く歪んだ欲だけをぶつけて死んでしまった。父親の歪んだ愛情にそれでも縋りたかった幼い自分の気持ちなど、今更思い出したくはないしするつもりもない。できることならば、きれいさっぱり忘れてしまいたい。だが、オーベルシュタイン、彼は一体何を思っているのだろうか。熱い身体は激しい欲情を伝えてくるが、しかしそれだけだ。愛していると言うからそれはそうなのだろう。だが、愛しているのかと問われもしないし愛してくれとも言われない。さらには「ありがとう」の言葉に、自分の死後は結婚しろなどと言う。これではまるで、憐れみが何かでオーベルシュタインに抱かせてやっているようではないか。
「所詮は体だけか……」
 まさか、俺が博愛の精神などという清い心で身体を差し出していると思っているのだろうか? 俺の気持ちがどうであるかなど、彼にとってどうでもよいことなのだろうか? 
「俺の気持ちか・・・・・・」
 ロイエンタールにとっても、最も難解なのが自身の心だった。極限まで抑えつけられてきたものを発露するのは容易なことではなったし、求められてもいないものを差し出す勇気も彼にはなかった。今まで誰も求めなかったものだ、きっと途轍もなく価値のないものに違いないが、それでも求めて欲しいと心の奥底で幼い自分が叫び続けていた。求められて与えることができるなら、どんなにいいだろう思う。しかし、幼い日にささやかな愛のやりとりすら許されなかったロイエンタールにとって、寄せた心を拒絶されることが一番恐ろしいかった。
「オーベルシュタイン・・・・・・」
 何のつもりで彼があのようなことを言ったのかはわからない。しかし、突然突き放されたように感じたのは事実だ。残された時間が少ないことはわかっているが、しばらくは会いたくないと思った。
 主人の体を案じた使用人がブランケットを持って現れるまで、ロイエンタールは冷たい月の光を見続けていた。
 幸いにもその日からの数日間は、会いたくても会えないように予定が立て込んでいた。ロイエンタールは慚愧の思いを感じながら職務に没頭することにした。

続く


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