秉燭夜遊(1) |
「卿が先週言っていたことだが・・・」 「ほう、考えたのか?! で、なんと?」 机いっぱいに広げていた資料を片付けていた手を止め、ロイエンタールは声の主、オーベルシュタインを見た。 「ああ、聞いてくれるのか?」 「もちろんだ」 ロイエンタールは先ほどまで腰掛けていた椅子にもう一度座り直した。 時刻は午後三時をいくらか過ぎた頃だった。オーベルシュタインは手元にあるインターフォン越しに使用人にお茶の用意を伝えた。ロイエンタールはここに来るようになり顔見知りになった老執事の声を聞きつつ、資料の角をそろえブリーフケースに仕舞っている。そして思わず、 「まさか、卿の家でお茶をよばれるようになろうとは、以前は想像もしなかったな」 と独りごちた。どうしてロイエンタール自身も信じられない事態になっているのか・・・・・・。それを説明するには3ヶ月ほど時間を巻き戻さなければならない。 ******************************* その日、緊急に招集された帝国軍の最高幹部を前に、皇帝ラインハルトはいつものように王者の風格を纏って現れ、常とは異なる沈痛な面持ちでもって諸将に告げた。 「軍務尚書オーベルシュタイン元帥が辞意を申し出てきた」 ここにその姿のないことを訝しんでいた面々は、一斉にざわめいた。なぜと誰もが胸に疑問を抱いたとき、それらを押し込めるように皇帝の声が響いた。 「予は彼の辞意を受けようと思う。新たに軍務尚書を定めるまでの間、統帥本部総長ロイエンタール元帥がその任にあたるように」 それだけ言うと、ラインハルトはその場を後にした。その後ろ姿を目線を下げて見送ったあと、ミッターマイヤーがロイエンタールにもの問たげな視線を投げかけた。 「卿、何か聞いていたのか?」 「何もない。卿らと同じだ」 諸将の視線が集まっていることを感じながら、ロイエンタールは答えた。 「だが、いずれ陛下からお召しがあるだろう。そうすれば何かわかるはずだ」 その時はすぐにきた。ロイエンタールが議場を退出するや否や皇帝付きの侍従武官が彼に呼びかけたのだ。ロイエンタールはその足で皇帝の間に向かうことになった。 「ロイエンタール、卿も驚いたであろうが、俺も驚いているのだ」 白い革張りのソファーに凭れ、ラインハルトは幾分砕けた口調で言った。ラインハルトは、おそらく今では最も付き合いの長くなったロイエンタールに対しては、他に目のないときには特にこのような態度をとる。 「軍務尚書の辞意の理由をお聞きしても?」 「ああ、もちろんだ」 ラインハルトは再びあの表情をした。そして至極簡潔にそれを語って聞かせた。 「悪性腫瘍……しかし、癌はとうの昔に治らぬ病ではなくなったのではありませんか?」 「そうなのだが、それも早期発見と本人の意思によるところが大のようで、彼の腫瘍はもう相当進行しているようなのだ」 「では、治る見込みは?」 「ない。俺の侍医にも見せてみたが同じ意見だった」 ラインハルトは長らく彼を悩ましてきた病を、併呑した旧同盟領の進んだ医療で克服していた。その最新の医療でもってしてもオーベルシュタインの病は治せないのだという。 「余命一年だと、どの医者も声を揃えて言った。最善の努力は尽くしてみるが、それでもニ年も保たぬだろうと」 「……」 余命宣告か……とロイエンタールは自分に置き換えて考えてみようとした。しかし、突然の死に対して覚悟をしたことは何度もあったが、あと何日と日限を切って自分の命を考えたことなどなかったので、うまくいかなかった。 「それで、後任が決まるまでの間、卿に軍務省を任せる。軍務尚書の役割もこれまでとこれからとでは大いに変わってこよう。軍務省の転換期ととらえれば良い機会であるやもしれぬ。そこをよく見極めて後任を定めてほしい。もちろん、卿がそのまま兼任し続けてくれても構わない。よく考えてくれ」 軍務省が変わる。それはすなわち軍全体の変革を意味する。ロイエンタールの思考が新しい軍の構想に染まりかけたとき、 「そうだ、ロイエンタール。卿に来てもらったのにはもう一つ頼みがあるのだ」 と、ラインハルトが切り出した。 「どのようなことでありましょうか?」 皇帝からの頼みを断る臣下があるはずもないのだが、ロイエンタールは次にラインハルトの口から出た言葉に、反射的に否の反応をしてしまった。 「しかし陛下、それは小官が適任とは思えないのですが」 「卿がそう言うだろうとは思っていた。卿とオーベルシュタインは不仲だからな」 「はあ…」 不仲とは、随分甘い表現だなとロイエンタールは思った。確かに、ロイエンタールはオーベルシュタインを毛嫌いしていた。しかし、オーベルシュタインの方はロイエンタールを政敵と、いや、一時期はまるで彼を獅子身中の虫かのように見ていたに違いないのだ。だから、ロイエンタールだけでなく、彼の幕僚達や親友も自然とオーベルシュタインに対して敵対するような気持ちになっていた。 「でしたら、なおさら他の者にお任せなさった方がよろしいかと。軍務尚書も小官相手に謀略の裏側までを話す気にはなれまいかと存じます」 ラインハルトの頼み、それはオーベルシュタインがこれまで手がけてきた歴史の裏側で行われてきた策略や謀略の類いを、事細かに聞き取ることだった。正史には残らないからと言って、皇帝である自分までがそれを知らないままでいてはいけないと、たとえ、オーベルシュタインの独断で手を付けたことであっても、それなしに今の新銀河帝国がないのだから、なにが行われてきたのかを自分は知っておかなければならないのだと言う、ラインハルトらしい誠実さはロイエンタールにとっても好ましく見えた。だからこそ、好悪の感情を抜きにしても自分では力不足だと思うのだ。 「メックリンガーかミュラーあたりにお命じになられては?」 微かに後ろめたさを感じながらロイエンタールが僚友の名を挙げると、ラインハルトは首を振った。 「いや、卿を指名したのはオーベルシュタインなのだ」 さらに言い難そうにラインハルトは続けた。 「卿は自分に似ていると、だから卿になら、自らがしてきたことを理解できるだろうと彼は言うのだ」 ラインハルトは目の前の美丈夫を気の毒そうに眺めた。本当に理解できないことに遭遇したら、人はこんな表情になるのだなと、奇妙な得心をしながら。 「頼んだそ、ロイエンタール」 納得できないものを抱えながらも、ロイエンタールはこの「勅命」を受けるしかなかった。 そのことがあってから、ロイエンタールは多忙を極めた。彼は統帥本部と軍務省を往復して、その任にあたった。もともとロイエンタールは統帥本部総長として平時における軍部の在り方を考えていたところだったので、人事と財政を司る軍務省の長を兼ねることで、手間が省けることが多くあった。軍を恣にする危険性を常に自戒していさえすれば、この時期の帝国軍にとって望ましい体制に奇しくもなっていたとも言えなくもない。思い描いたものが、次々と現実に向けて動き出す。ロイエンタールはこの超がつくほどの忙しさの中で、トリスタンに乗って宇宙を駆っていた頃のような高揚感を感じていた。ただし、この高揚感には落とし穴もあった。それは、皇帝ラインハルトからの頼まれごとだった。 しかし、それも数回のことで、週一度のミーティングが次第に苦にならなくなってきた。オーベルシュタインの口から語られる歴史の裏側を知ることは、ロイエンタール自身の歩んできた道を振り返ることに他ならなかった。それは、新しく生まれ変わろうとしている新帝国の変革に手を付け、前だけを見据えて忙しく過ごす日々には、したくてもできないことだった。オーベルシュタインの「自分に似ている」発言に全面的に首肯することはできないが、その理路整然とした言葉はストレスなくロイエンタールに吸収され、彼が自分を指名した理由がわかるような気がした。これがもし、ミッターマイヤーであったら、彼の持ち前の正義感がオーベルシュタインの行動とその動機に共感することを拒絶しただろうし、ミュラーであったら、知ったことの重大さに押しつぶされそうになるかもしれない。特に、グリューネワルト大公妃やジークフリード・キルヒアイスに関わる秘事については、ロイエンタールでさえ持て余すほどだった。 「陛下にお伝えするか否かは、卿に任せる」 そう言われると、ロイエンタールの両肩がずしりと重くなった。しかし、オーベルシュタインはこれほどのものを一人で背負ってきたのかと思うと、目の前の男に畏敬の念を覚えた。 このときの全宇宙を見回しても、突出した秀でた頭脳の持ち主が2人寄っているので、ここ数年の『反省会』も3ヶ月もすればひと通り終わってしまった。それでも、忙しい合間を縫ってロイエンタールがオーベルシュタインを尋ねるのは、死を間近に控えた男に興味を覚えたからだ。 この3ヶ月間、オーベルシュタインの話を聞けば聞くほど強まった疑念がある。それは、オーベルシュタインという人間の一生は、全て他者に捧げられたものだったのではないか、というものだった。そういう思いがあるから、ついついロイエンタールは、 「卿はまるで殉教者だな」 と零してしまった。その言葉が、地球教を始め宗教や盲信といったもの嫌悪感を抱いているオーベルシュタインの神経を逆撫でしたらしく、ここ暫く聞かなかった絶対零度の声でロイエンタールに詰め寄った。 「『殉教者』とはどういうことだ。卿は私の信念を狂信者どもの盲信する偶像と同じだというのか」 「そういう意味で言ったのではない」 「では、どういう意味で言ったのだ?」 ロイエンタールは話が長引くことを予想して、掛けていたソファーに深く座り直した。 「卿の信念を偶像とは言っていない。しかし、その信念のために、卿は卿の人生の全てを捧げてきたように思ったのだ。卿は卿の信念を貫き通し、掲げた理想を現実のものに成し終えた。それは、卿を歴史上の人物とみなして評価すれば、素晴らしい生涯を送ったことになろうが、私人としてはどうだったのかな、と。そんなふうに思ったに過ぎない。俺の勝手な感慨だと思ってくれ」 「私人として、か……」 「ああ。この3ヶ月ほど、いわば卿の半生を振り返ってきたわけだが、どうも禁欲的というか、何というか……」 「率直に言ってくれて構わない」 「ならば言うが、卿の理想は卿だけの理想ではなく、いわば我ら皆のものだったろう? そう考えれば、卿は人の為に尽くしても、自らのために生きてはこなかったのではないか?」 「私のような仕事をするものが、私利私欲で動けば、誰も私に従わなかっただろう。無私であるからこそ策謀は行えるのだ」 「それはそうもしれないが……」 滅私奉公の鑑を前に、ロイエンタールは言葉が詰まった。なぜなら、ロイエンタールにとってはどんな職務も戦役も、私と切り離して考えることなどなかったからだ。 「………卿と話していると、俺は自分が私利私欲の塊のような気がするぞ」 「実際、そうだろう」 抑揚のない声でいわれて、ロイエンタールも苦笑いした。そんな自分の生き方を反省することはないが、こうも真正面から言われると、さすがにグサリとくるものがある。 「だが、私には卿が羨ましくもあった」 「それだ!!」 ロイエンタールはオーベルシュタインの言葉を捕えて立ち直った。 「卿はやり残したことはないのか? 陛下や国のためではなく私人オーベルシュタインとして」 「やり残したこと?」 「そうだ」 オーベルシュタインは義眼を細めてロイエンタールを見た。続きを話せということだと理解してロイエンタールは語った。 「卿は俺を羨ましいと言った。それは則ち私欲を満たしたい思いがあるということにほかならないのではないか? 卿には、あまり時間が残されていないのだろう? ならば、残りの時間は自分の為に使ってみればよかろうと、そう思ったのだ」 「私のために、私の時間を……」 未知のものに遭遇したような表情を見て、ロイエンタールは彼らしいアドバイスをした。 「そうだな。酒でも女でも、手に入れたいものを考えてみればどうだ?」 「では何か、考えてみよう」 これが、先週の出来事である。 続く |