秉燭夜遊(3)



「もう、来てくれないのではないかと思っていた」
 一通り資料に目を通し終え、オーベルシュタインは言った。
「するべきことがあるからだ」
「ほう……」
 オーベルシュタインは端末を片付けるロイエンタールの手を掴んだ。その行為が不本意だと睨み返してきた二色の瞳は今日も美しかった。
「それは、先週の話の続きか?」
 今日ロイエンタールが持ち込んだ仕事など、本来はわざわざ自分の意見を聞く必要のないものだ。ロイエンタールとて託ける材料に持ってきたに過ぎないだろう。
「いや、そうであれば私は嬉しいと思っている」
 ロイエンタールはもう一方の手でオーベルシュタインの手を剥ぎ取ると、ソファーに深く座り直した。オーベルシュタインは立ち上がるとロイエンタールが座るソファーに移動した。もちろん、ロイエンタールの秀麗な眉が顰められたのは無視である。
「俺を、からかっているのではないのか?」
「そのようなくだらぬことに浪費できるほど、私に残された時間は長くない」
「そう……だな」
 他人を批判する言葉なら事欠かないだろうに、ロイエンタールの口は閉ざされたままだった。オーベルシュタインはその姿にはっきりと逡巡を見て取った。
「率直に言ってくれればいい。卿が考えていることを聞かせてくれないか?」
 義眼の瞳孔が無表情にロイエンタールを見詰める。
「分からない……どうすればいいのか……俺は…自分がどうしたいのか……」
 その漆黒の瞳孔は、まるで深淵を覗いているようだった。暗闇の中では距離感を掴めない。だから、気づいたときにはオーベルシュタインの顔が目の前に迫っていた。
「何を……」
 ソファーの背もたれに押し付けられ逃げ場をなくし、ロイエンタールは口づけをされていた。のしかかる痩身を剥がそうともがくうちに、ソファーに押し倒されていた。相手は死病を患っているからと手加減したわけではない。なぜだかわからないが、目の前の男をブチのめす気になれなかったのだ。
「ロイエンタール……」
 半白の髪を乱してロイエンタールの身体に乗り上げたオーベルシュタインが上から言う。
「私は死期のせまった病人だ。卿の気持ちが纏まるのを待ってやる時間はない。だから、ロイエンタール、一度私を受け入れてくれまいか? 卿がどうしたいかはおいおい考えていけばよかろう」
 頼む、と続けると、ロイエンタールの身体から僅かだが力が抜けた。
「卿は、ずるいな。そのような言い方をすれば俺が断らぬと、そう考えたのだろう?」
「卿が手に入るなら、いくらでもずるくなろう。卑怯な言い方をしているのは百も承知だ」
 人情の厚さと生真面目なほどの誠実さ、この極親しい者しか知らないし、発揮されないオスカー・フォン・ロイエンタールという男の我儘な美質。ああ、欲しいと心から思う。
「からかっているのではないのだな?」
 随分疑り深いが、今までの自らの行状を鑑みればそれも仕方がない。オーベルシュタインは下腹部に熱が集まっているのを感じ、それをロイエンタールに押し付けた。彼の身体が再び強張った。
「直接触らずに、このようになるのは初めてだ」
「は、初めてだと?!」
 同じ男なだけに、その意味がわかりすぎるロイエンタールは、複雑な思いを込めて己に欲情しているらしい男を見上げた。
「聞かたいことがあれば、何でも聞けばよい」
 オーベルシュタインの提案に、ロイエンタールはたまらず直截な言い方をした。
「卿は、その、経験はあるのか」
「ある」
「相手は、女か?」
「そうだ。少尉任官時、洗礼を受けた」
 ロイエンタール自身はもっと早くに童貞を捨てていたのでその経験はないが、士官学校卒業したての少尉の筆卸を推奨する上官がいたらしかった。洗礼とはそのことだろう。
「男の経験は?」
「ない。だが、私から欲しいと思ったのは君だけだ」
「…………」
「もう一度、キスをしてもいいか?」
「あ、ああ」
 なぜ諾の返事を与えてしまったのかわからない。嫌だとはっきりと感じない自分がロイエンタールは不思議だった。
 先程の勢いに任せたものとは異なり、今度のキスはひどく優しかった。オーベルシュタインが徐々に近づいてくるに従って、感覚が鋭くなっていくような気がする。そして、柔らかく唇が押し付けられたとき、柄にもなくそれだけで興奮する自分をロイエンタールは発見した。
「はっ…ダメだ。隣にフェルナーが」
 それ以上を求めそうになり、グイグイと腰を押し付けるオーベルシュタインを押しやった。名残惜しげに体を離し、オーベルシュタインはロイエンタールの手を取って引き起こした。触れてみて初めてその柔らかさを知った暗褐色の髪が乱れている。手を伸ばして整えてやりたかったが、その手はピシャリとはたき落とされた。
 二人して、気まずい時間を暫し過ごした後、オーベルシュタインはロイエンタールに語りかけた。
「軍務尚書の引き継ぎも、陛下からのご依頼の件も、もうすべて終えた。だから、このような形で君がここへ来る理由はもうない」
「そうだな」
「では、次君がここへ来るときは、そういうことだと理解してよいのだな?」
「……そう、だな」
「ロイエンタール、性急なのはわかっている。だが、私は……」
「わかっている」
 わかっているから、と、ロイエンタールはオーベルシュタインの言葉を遮った。そして、アタッシュケースを持ち立ち上がり背中で言った。
「今日はせっかくフェルナーを連れてきたんだ。積もる話もあるだろう。ゆっくり語らってくれ」
 言い終えると隣室に控えるフェルナーを呼び込んだ。自分は一人で帰るから後は好きにするがいいと言い残し、ロイエンタールは扉の向こうの人になった。
 
*******************************
 
 具体的な約束をしないまま、ロイエンタールを帰したことをオーベルシュタインが後悔するのにそう時間はかからなかった。仕事を辞めてからの日々は、長いようでいて短く、また長かったが、この数日ほど時間というものが実に鈍くさいものであったかということを感じたことはなかった。
 待っていても事態が好転せぬとき、次にとるべき手段は一つ。こちらから動くことだ。幸いにも彼の親友は今宇宙にいる。女遊びさえしていなければ、あの子の行動パターンは数が知れている。
――自覚させたのは君だ。この焦燥と渇欲の責任をとってもらわねばならぬ。
 人を動かすほうが得意なオーベルシュタインであるが、このときばかりは自ら動くことにした。
 
 ロイエンタールが皇帝陛下からの気まぐれな茶話会に招かれ、執務室に戻ってきたところ、レッケンドルフに私用の携帯が何度が鳴っていたと教えられた。着信履歴を確認すると、それは自邸からのものだった。おそらくは執事が掛けたのだろうが、用件には全く心当たりがなかった。ロイエンタールがその場で携帯を耳に当てると、レッケンドルフが静かに退出していった。短い呼出音に続いて、執事の声が聞こえた。
「俺だ。どうした?」
「旦那様、お客様がいらっしゃっていますが、お約束をなさっておいででしたか?」
「客? いや、心当たりはないな。誰だ?」
「オーベルシュタイン様でございます」
「なに?!」
 ロイエンタールは携帯を取り落としそうになった。二の句を継げないでいる主人の困惑などどこ吹く風と、老練な執事は続けて言う。
「大切なお客様とお見受けいたしましたので、お食事の用意をさせております。旦那様もお早くお帰りくださいませ」
 軍人を主人に持っている執事には、オーベルシュタインという名で客がどのような地位にある人物かよくわかっているのだろう。しかし、その人物がどのような用件で邸を訪れたのかを知れば、執事もこのように歓待はしなかったに違いない。
「旦那様? どうかなさいましたか?」
「いや、わかった。できるだけ早く帰ろう」
 通話を終え、ロイエンタールはカレンダーを確認した。あれから一週間以上は経っている。何かしなければと思いながら、何をどうするんだと思考が停止し、日々の忙しさにかまけて放置し過ぎてしまったようだ。しかし、オーベルシュタインが自邸に押しかけてくるとは考えもしなかった。
――あの男を『受け入れる』のか……。
 我が身に数時間後に訪れる結末を思い描きそうになり、ロイエンタールは頭を振った。まだどうなるかなど分からない。分からないが、とにかく帰るしかない。退路を断たれたロイエンタールは、しぶしぶ帰路に着くことにした。
 
「忙しいようだな」
 軍服のまま食堂の席につくと、向いに座ったオーベルシュタインが声をかけてきた。抑揚のない声からは、声の主の感情を全く読み取れない。
「怒っているのか?」
 ここまで来て言葉の駆け引きなと面倒とばかりに、ロイエンタールは前置きなしに切り返した。
「怒りはしない。ただ、待つのに疲れただけだ」
「そうか……」
「そうだ」
「…………」
 それ以上会話も続かず、ひたすらシェフの心尽くしの夕食を味わうことに専念した。
 食後のコーヒーが供されると、さすがに居心地が悪くなってきた。
「この後、どうするんだ?」
 婉曲さの欠片もないロイエンタールの言いように、オーベルシュタインは平然と答えた。
「君に任せる」
「そうか……。では、このまま帰れと言えば帰るのか?」
「それは聞き入れられない」
「勝手だな」
「君ほどではない」
 ああ言えばこう言うオーベルシュタインに、ロイエンタールは思わず吹き出してしまった。一度緩んだ緊張の糸は、ロイエンタールの心を少しばかり寛大にした。
「では、部屋に来るか?」
「いいのか?」
 ここにきて初めて表情が変わったように思えた。
「病人の卿に勧めるのはよくないのかもしれないが、ひとつ酒でも振る舞おうじゃないか」
 ロイエンタールは席を立つと先に立って歩き出した。流されているなとは思ったが、それも悪くないと感じているのが我ながらおかしかった。
 初めて足を踏み入れたロイエンタールのプライベートな空間には彼の気配が濃厚に漂っていた。不躾にならない程度に部屋のここかしこを見渡していると、ロイエンタールが着替えるからしばしここで待てと言う。しばらくすると微かに水が流れる音が聞こえてきた。オーベルシュタインはその音に引かれるように次の扉を開けた。貴族の屋敷などどこもだいたい作りは同じだ。扉の向こうは思った通り寝室だった。ベットに歩み寄り、皺一つなく整えられた上掛けを剥がした。と同時にロイエンタールの匂いがフワッと鼻腔を擽った。シーツに顔を擦り付けると、さらに香りは強くなる。まるで彼に包まれているような、この香りは性感を直接刺激する。
「何をしている?!」
 いつの間に風呂から上がってきたのか、ロイエンタールがベッドの脇に立っていた。バスローブを纏い、仄かに湯気を上げている。
「向こうで待っているように言っただろう?」
「待たせすぎだ」
「すまん。つい、いつもの癖で……」
「君はいつも、軍服を脱ぐと風呂に入るのか?」
「あ、ああ」
 オーベルシュタインは何かを言ったが、枕に顔を押し付けたままだったのでよく聞き取れなかった。
「ん? 今何と言った?」
 ベッドの上に身をかがめたロイエンタールの腕を、オーベルシュタインは力一杯引き寄せた。その崩れた体勢の上に乗り上げて、動きを封じた。
「私のためだと言ってはくれないのか」
 バスローブが乱れ、胸や腿が剥き出しになっている。その胸元の合わせに手を差し込み、裸に剥こうとすると、ロイエンタールが抗議の声を上げた。
「おい! 俺に任せるのではなかったのか!」
 もっともな言い分ではあったが、今のオーベルシュタインにはそれを聞いてやる余裕はなかった。
「そう思っていた、あの時は。しかし、今は聞いてやれそうもない」
 オーベルシュタインは噛み付くように口づけをした。


続く




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