向日葵(1)



「おはよう」
「あら、今日は早いのね」
 休日にもかかわらず、珍しく人並みの時間に起きてきた夫に、エリフリーデは目をやった。整えられた身なりと明らかに寝不足の顔色。夫が昨晩浅い眠りしかとれていないことを彼女は知っていた。
 いつもの通りコーヒーだけの朝食をとりながら、どこか上の空のロイエンタールものとに、執事のワグナーが歩み寄った。
「旦那様・・・」
 ワグナーが耳元で囁くと、ロイエンタールが弾かれたようにエルフリーデを見た。
「いいわよ、いってらっしゃい。わたしたちは落ち着いた頃に行かせてもらうわ」
「ああ、すまない!」
 食事の途中で席を立つのはマナー違反と、厳しくしつけられているフェリックスが目を丸くして父親の姿を見た。その小さな頭をくしゃくしゃと撫でて、ロイエンタールは食堂を飛び出して行ってしまった。
 昨晩、夫の元に届いた知らせ。それは夫の親友ミッターマイヤーからで、彼の妻が産気づいたというものだった。昂ぶったミッターマイヤーの声は同じベッドで横になっていたエルフリーデの耳にもしっかり入った。
「おとうさま、どうしたの?」
「ウォルフのおじちゃまに赤ちゃんが産まれたのよ」
「ええぇ、ぼくも赤ちゃんみにいきたい」
 期待に瞳をキラキラさせたフェリックスを、エルフリーデは微笑ましく見た。
「あ」
「どうしたの?」
 エルフリーデは大きく膨らんだお腹を押さえた。
「おかあさまも、赤ちゃんうまれる?!」
 内側から元気よく蹴られて、ボコボコと形を変えるお腹を優しく撫でた。最近、本当によく動くようになった。
「おかあさまはまだよ。でも、再来月にはフェリックスもお兄様になるわね」
「うん!」
 フェリックスは満面の笑みを浮かべた。
エルフリーデは漸く静かになったお腹の子どものことを思った。性別はわからない。産まれてくるまで知りたくないと、これは夫婦共通の思いである。そして、もう一つ、これはロイエンタールだけが知らない秘密がある。それを知ったとき、夫はどんな顔をするだろう。
「ふふっ」
 お腹の中に命を抱える期間は僅か10ヶ月。この愛しい時間ももうすぐ終わる。後もう少し、この母だけが感じられる貴重な時を大切に味わおう。
「そうね、庭に向日葵が咲き始めていたわね。きれいなのを花束にして持って行きましょう」
 エルフリーデは丸いお腹を両腕で抱き締めた。


 ロイエンタールはエルツエンゲル病院の前に車を横付けし飛び出した。すれ違う医師や看護師らが病院の中を長いコンパスを活かして駆けていく人物が誰かと知ると、みな一様に驚いたように足を止めたが、そんなこと、ロイエンタールには構っていられなかった。病院の案内表示を頼りにミッターマイヤーがいる産婦人科病棟を目指すだけだ。エレベーターの扉が開くのをもどかしく待ち、ようやく目指す階にたどり着いたとき、
「ロイエンタール!」
 求める友の声が聞こえた。
「ミッターマイヤー!」
 ロイエンタールは声の元に駆け寄った。ミッターマイヤーも走る。そして、二人は抱き合った。それが、たまたまナースステーションの前であったが、今の彼らには何の影響もなかった。
「産まれた! 産まれたよ!」
「ああ、おめでとう」
「女の子だ。エヴァも赤ちゃんも元気だ」
「ああ、おめでとう!」
 諦めかけたときに授かった待望の命。ロイエンタールはミッターマイヤーの今までの人知れぬ苦悩を知っていた。だからこそ、だからこそのこの溢れる涙だった。
「なあ、会っていってくれるだろう?」
「もちろんさ」
 漸く涙を納めたミッターマイヤーが、妻子の休む病室に親友を誘った。
「ああ、しかし、はじめて娘をだっこするのが卿なのか・・・。父親としては複雑だな」
「・・・・・・馬鹿野郎」
「ゴメン、冗談だよ!」
 朗らかな笑い声が静かな廊下に響いた。


 その後、ミッターマイヤー家の長女はマリアンネと名付けられた。


 さらにその二月後−−。


 元帥を集めた定例会議のあと、いつもの通りコーヒーを飲みながらの雑談が続いていた。この日は皇帝からガトーショコラの差し入れもあり、みな長っ尻になっていた。そこへ、
「失礼いたします」
と、ロイエンタールの副官レッケンドルフが入室してきた。元帥のみのこの会に副官が立ち入ることはほとんどなく、自然と皆の視線が集まった。
「ん、わかった」
 ロイエンタールはレッケンドルフを返すと、流れるように立ち上がった。
「すまないが、これにて失礼させていただく」
 何事かと問うような視線の中、ミッターマイヤーだけが力強く頷き返した。ロイエンタールは紫紺のマントを翻して重厚な扉の向こうに消えていった。
「なんなんだ?」
 口火を切ったのは、いついかなる場合も切り込み隊長である我らが黒色槍騎兵艦隊のビッテンフェルトだった。もちろん、その矛先は一人事情を知っていそうなミッターマイヤーに向けられている。
「奥方が産気づいたのだろう」
「おお! そういえば、もうそろそろだったな。無事に産まれるとよいなあ」
とは、ロイエンタールの級友で一児の父親でもあるワーレン。
「しかし、あのロイエンタールが二児の父親か・・・・・・」
 長子フェリックス誕生に関わる一連の事件で、憲兵総監として振り回されに回されたケスラーは感慨深げにつぶやいた。
「変われば変わるものですね」
 時代の変革以上の変化だと嘆息するのは、最年少元帥のミュラーだった。
「フフフ」
 それまで黙って聞いていたミッターマイヤーが耐えきれないように笑った。
「ケスラー、『二児』ではない、奴はこれで『三児』の父親になるのだ』
「?!」
「なんだ?! ロイエンタールの奴め、性懲りもなく余所に女を作り、あまつさえ子どもまで拵えていたというのか!!」
 ビッテンフェルトの言葉は皆の気持ちを代弁するものだったらしく、ケスラーに至っては頭を抱えてしまっていた。おそらく、またあの種のやっかいごとが持ち込まれるのではと悲観しているのだ。
「あはは! 違う違う! 奥方は双子を妊娠していたのだ」
「そ、そんなことはロイエンタール元帥からは、一度もお聞きしたことはありませんが・・・」
 情報収集力では誰にも負けないミュラーが、自信が揺らぐような表情になる。
「それはそうさ。あいつは知らなかったんだからな」
 ミッターマイヤーが言うにはこうだ。
 エルフリーゼは双子を妊娠していることを、ロイエンタールに秘密にしようと企んだ。理由は、『あいつの慌てふためく姿が見たい』。そのことを、こっそり打ち明けられたミッターマイヤー夫妻は、全力でエルフリーデに協力することを約束した。
「あいつ、驚くだろうな。もしかしたら泣き出すかもしれんなぁ」
 気障で格好つけのロイエンタールが号泣する姿など、誰にも想像することはできなかった。
「なあ、卿は見舞いに行くんだろう?」
「もちろんだ」
「だったら早く行け!」
「行ってそのときの様子を俺たちに教えろ!」
「今晩、『海鷲』で待っているからな!」
 あたたかな僚友たちの声に送り出され、ミッターマイヤーは未知の驚きに遭遇しているであろう親友の元に向かった。



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