Gebet(3)



 リーンハルトが重い頭を抱えて階下に行くと、人の気配がなかった。もう日もすっかり高く昇っている。皆仕事に出かけた後なのだろう。あの生意気な士官学校性はどうしたかなと、ロビーやリビングと覚しき場所を覗いてみたが、彼の姿もなかった。だだっ広い、まるで美術館のようなお屋敷をさまようように歩き回っていると、自分が何処にいるのかが分からなくなってしまった。迂闊にも庭に出てしまったのがよくなかったのかも知れない。彼は無闇に歩き回るのをやめ、立ち止まった。いい加減腹もすいてきた。足下が乾いているのを確認すると、その芝生の上に腰を下ろした。ハイネセンはフェザーンに劣らぬほどの大都会だが、ここは耳を澄ませば鳥の声が聞こえてくる。穏やかだった。目を閉じるとフェザーン大学内の中庭にいるようだった。この日は「あの日」によく似ていた。


ーーどうだった?
ーー外れ。おまえは?
ーー俺は・・・・・・当たりだった。
ーーえ? 本当に!?
ーー俺は行くよ。
ーーで、でも、クラリッサはどうするんだよ!
ーーしかたがないさ。誰かが行かなくちゃならないんだ。俺は彼女の為に戦う、この国を守るために戦争に行くんだ。


「どうしたの?」
 突然の声にリーンハルトは慌てて知らぬ間に流れていた涙をぬぐった。
「あなた、昨日ハインリッヒと一緒に来た子ね?」
 見上げると、そこには彼の祖母くらいの女性がいた。
「はい、リーンハルト・クラインベックです」
「提督の甥ごさんなんだってね」
「はい」
 ズボンに付いた枯れ草を払いながら立ち上がると、途端に腹がグーッと鳴った。さすがにバツ悪くしていると、品良く笑う声が聞こえた。
「朝ご飯がまだなのね? 良ければこちらにいらっしゃいな」
 導かれるままに歩いていく道すがら、リーンハルトはポツポツと言い訳めいたことを話した。
「まあまあ、迷子だったのね。飢え死にする前に発見できて、本当によかったこと」
 アンナというその女中頭は楽しそうにクスクスと笑っている。初めて顔を合わせたというのに、リーンハルトはなんだか懐かしい気持ちがした。
 連れて行かれたのは使用人たちが居住している空間のようだが、皆出払っているのかここもひっそり閑としていた。アンナは簡素な木製の椅子を勧め、扉の向こう厨房と覚しきところに一人入っていった。
「冷たいものしかないけど、いいかしら?」
「あ、はい」
 それでもアンナが提げてきたトレーには、湯気の立つマグカップが乗っていた。リーンハルトが黒パンをちぎりサワークリームをつけて口に放り込むのを見届けると、アンナはよいしょと彼の前に座った。そして、メガネをかけ直すと、傍らに置いてあった籠からシャツを取り出した。手には小さな道具を持っている。リーンハルトが口をもぐもぐさせながら見ていると、アンナは襟元の縫い目を手にしたその「リッパー」で一つ一つ解いていく。
「何をなさっているのですか?」
 最後の一片をコーヒーで流し込むと、リーンハルトは興味を抑えがたく訊ねてみた。アンナは作業を続けたまま、
「襟をね、付け替えるんですよ」
と教えてくれた。
「襟を?」
 何のために、という言外の気持ちを感じてアンナはフフフッと笑った。
「そんな面倒なことをするくらいなら、新しいシャツを買ったらいいのに、と思ったわね」
「はい・・・・・・、ここは、その、お金持ちでしょう?」
「まあ!」
 肩をふるわせてアンナは笑い出した。その大きな波が漸く引いたとき、彼女は仕事の手を止めてリーンハルトを見つめた。
「これはね、うちの旦那様がいつも軍服の下にお召しになっているシャツなの・・・・・・」
 手渡された白いシャツは細かなピンタックが入っていた。そしてそれは、リーンハルトが持っているシャツのイメージとは全く異なる柔らかな手触りがした。
「柔らかいでしょう? シャツはね、長く着れば着るほど体に馴染んでくるものなのよ」
 アンナは戻ってきたシャツを愛おしそうに抱きしめた。
「ゴワゴワしたシャツじゃあ着心地が悪いでしょう? これはね、大変なお仕事をなさっている旦那様にばあやができるせめてものことなのよ・・・・・・」
 しかし、襟やカフスはすぐに傷んでしまう。だから、長い着用に耐えられるようこうして時々取り替えるのだと言う。しかし、ミシンの細かな縫い目を解いていくのはアンナほどの熟練者にとっても、なかなか骨が折れる仕事のようだ。その手元をじっとのぞき込んでいると、アンナが再びシャツをリーンハルトに押しつけてきた。
「年寄りは目が悪いのよ、あなた、手伝ってちょうだい」


********************

 慣れない作業に没頭し、気付けばもう昼になっていた。厨房が活気づき人の出入りが激しくなるなか、リーンハルトは見知った顔を見つけた。相手も彼を捜していたようで、どうしてこんなところに、と呆れた顔をしていた。年下のハインリッヒに迷子になったとは言いにくく、また言いたくもなかったので、彼は「手伝いをしていたんだ」と現状の説明だけをした。ハインリッヒはリーンハルトの手元にあるものを見て、なぜだか少し羨ましそうな顔をした。だがすぐにその顔を引っ込めて言った。
「昼食の時間だよ。食べ終わったらワグナーさんと町へ行く。君も行くよな?」
 決して断れないような口振りに、リーンハルトはちょっと反発を覚えたが、隣でアンナが微笑んでいるので子供じみた口答えをぐっと飲み込んだ。

 町へ行く目的は、ワグナーの荷物持ちだった。いつも連れている下男の都合が悪くなったため、その助っ人を頼まれたのだ。屋敷内を見回してみると彼らより適任な者も見あたらず、一宿一飯の恩義もあるので断れない。それに、ハイネセンの町に一人で出かけるには心許なかったので、ワグナーに連れられて出かけられることはリーンハルトにとってありがたかった。
 最後に連れて行かれたところは重厚な店構えのテイラーだった。ロイエンタール家は上得意であるようで、店主はワグナーを下にも置かないふうに出迎えた。
「言っていただけましたら、こちらから伺いましたのに」
 特別な顧客だけが入れる応接室に案内されると、ワグナーはそれをやんわりと断った。
「今日は、主人の用で参ったのではないのです」
「閣下のではないので?」
「ええ」
 ワグナーは連れの若い二人を振り返ると、当人等も驚くようなことを言った。
「今日は彼らにスーツをお願いしたいのです」
 バックパッカー同然の姿で転がり込んできたリーンハルトも、制服が正装になるハインリッヒも、スーツなど持ってきているはずもなかった。ロイエンタールはそんな二人に「きちんとした格好を用意してやれ」とワグナーに命じてあったのだという。二人はともに戸惑った表情で顔を見あわせた。そんな戸惑いを知ってか知らずか、店主がメジャーを手に持って彼らに歩み寄ってきた。この見るからに高級店で、オーダースーツなどと考えるだけで恐ろしくなる。助けを求めるようにワグナーを見ると、二人の慌てようをにこにこと眺めている。
 結局、既製品(それでも十分に高級なものだが)を合わせてもらい購入することになった。ハインリッヒはダークグレー、リーンハルトは細かな縞のはいった濃紺のスーツだ。支払いを気にする二人だったが、「主人の命令」を盾に取るワグナーに勝てず、申し訳なさいっぱいで大きな荷物を受け取った。

 結局スーツだけではなく、シャツにタイ、ベルト、革靴まで一式買い揃えられ、大きな荷物と気疲れを抱えて彼らは部屋に戻ってきた。リーンハルトが総額いくらになったのか、想像するだに恐ろしいものを袋から取り出し眺めていると、同じようにしていたハインリッヒがウーンと呻いた。
「どうしたんだ?」
とリーンハルトが訊ねると、ハインリッヒはドカッとベッドにひっくり返った。
「金銭感覚が違うんだ。それは分かっているんだけど、その感覚の差を割り引いて考えてみても、これをどう捉えたらいいかわからない・・・・・・」
 ロイエンタールとつきあいの長いハインリッヒがそうならば、リーンハルトにはこれがなんだかさっぱり見当も付かなかった。付かないばかりか・・・・・・
「君はまだいいよ。君は『閣下の息子』なんだからさ、まだ理由はあるじゃないか。俺は・・・・・・勝手に押し掛けてお世話になっている上に、こんなにまでしてもらっていいんだろうか?」
 ベッドに腰掛け肩を落とす同室者に「お前も『閣下の甥』だから」とはまさか言えるはずもない。しかし、自分より混乱を極めている義理の従兄の姿を見ていると、ハインリッヒは少し落ち着きを取り戻した。
「買っていただいたものは仕方がないか。それに、そうだ。厚意は喜んで受けないと閣下の機嫌を損ねてしまうんだった!」
「何? じゃあ、どうすればいいんだよ」
「素直に喜んで、有り難く頂戴するしかないんだよ」
「本当に、それでいいのかなぁ」
 まだ動揺を抑えきれないリーンハルトを後目に、ハインリッヒはどうすればロイエンタールが喜ぶかを考え始めた。閣下を喜ばせることは従卒としてお側にあがったときから常に考え続けてきたことだ。ロイエンタールは思いがけないプレゼントを貰って無邪気に喜ぶ僕たちの姿を見たがっている。そう確信した。


********************

 夕食の時間、新品のスーツに身を包んで二人は食堂に下りていった。帝国貴族の習慣を色濃く残すロイエンタール家では、夕食時には最低限のドレスコードを守る必要があった。だから、このときに戴いた物のお披露目をし、お礼を申し上げようと思ったのだ。
 しかし、食堂にいたのはベルゲングリューンただ一人だった。
「ど、どうしたんだ、お前たち・・・」
 軍装の上着を脱ぎベスト姿になっていたベルゲングリューンは、ネクタイまできっちりと締めた二人の姿に目を見開いて驚いた。
「これを、閣下に買っていただいたので、お礼を申し上げようと・・・・・・」
 ハインリッヒがこの日あったことを説明すると、リーンハルトもうんうんと頷いた。
「そうだったのか。だが、閣下は今日は遅くおなりだ。お礼は別の機会に申し上げるといい」
 ロイエンタールがいない分緊張感は薄らいだものの、身に馴染まない卸たての上等な衣服のために妙なよそよそしさをお互いが感じていた。だから、
「せっかくの頂き物を汚してはいけないから、着替えてきてはどうだ?」
というベルゲングリューンの提案に、二人は喜んで飛びついた。
 くつろいだ服装は心をも軽くしたようで、リーンハルトはここに来て初めてというほどよく話した。特に昼間のアンナとの遣り取りは他の二人にも考えさせられるものがあった。
「最初は身に沿わないシャツも、着ているうちに身に馴染んでくるっていわれて、なんでもそうなんじゃないかって思ったんです」
「なんでもとは?」
 ベルゲングリューンは甥っ子にそう促しながら、これは彼がハイネセンまで来た理由に触れるのではないかと身構えた。
「仕事も、生活も、なんでもです」
 そう簡単に言い終えたリーンハルトに、ハインリッヒは思い切って訊ねてみた。ベルゲングリューンの口から出るより軽い意味合いに聞こえるといいなと思いながら。
「ねえ、どうして突然ハイネセンに来ようと思ったんだい?」
 軽い口調で単刀直入に問いかけられたリーンハルトは、ちょっと目を見張ると恥ずかしそうに俯いた。
「何もかも嫌になったからかな? 死ぬほどの勇気もないから、自分にできる一番の無茶をしてみたのかもしれないけど・・・・・・」
 なんでだか自分でもわからないんだ、と口の中で言った。
「何かあったのか?」
 叔父の心底案じる声色に、甥っ子ははっきりと首を横に振った。
「何にもないよ・・・・・・、何もないのに、俺なんかがいていいのかなって・・・・・・」
 ポトリと涙が白いテーブルクロスを濡らした。
「ごめん、ちょっと疲れちゃって、先に休ませてもらいます」
 袖で荒っぽく目を擦りながら出て行くリーンハルトを見送ると、ベルゲングリューンははあっと大きく息をついた。
「大丈夫ですよ。彼は死なない、生きるためにここに来たんです。だから、きっと心配いりませんよ」
「そうだといいんだが・・・・・・」
 ハインリッヒは不安そうな目の色をしたベルゲングリューンを見た。大丈夫ですよ、ともう一度言うとリーンハルトの後を追った。
 ハインリッヒが部屋に戻ると、リーンハルトはもうベッドの中にいた。何があったのかは分からないが、きっと今彼は心の中で戦っているんだろうと思うと、何も声がかけられなかった。


<続く>


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