Gebet(2)




 早めに切り上げられた夕食後、ハインリッヒはワグナーに部屋に案内された。そこがいつか帰ってくる自分のためにロイエンタールが前々から用意させていたものだと聞き、ランベルツは嬉しくてたまらなかった。この、胸の奥からジワリと沸き起こる痺れにも似た甘い暖かさは、常にロイエンタールだけがもたらしてくれるものだった。士官学校での辛い日々も、この温もりが彼の心を癒してくれた。どんなに離れていても自分はあの方に支えられている、ハインリッヒはそう実感してきたのだった。
 部屋はシンプルではあるが全て上質なもので設えられていることは、一目瞭然だった。きっと閣下は、ここから自分の好きなように部屋を作りなさいという思いを込めてこうしてくださったのだ。自分がいない時に、閣下も自分のことを考えてくださっていた、そう思うとくすぐったいような気持ちになった。無理矢理押し込まれたに違いない二つ目のベッドがあっても、十分に余裕のある広さだった。
 ハインリッヒは意識を当座の同室者に向けた。彼は入り口に突っ立ったままだった。彼を引き込み使うベッドを決め、荷物を片づけ終わるとすることもなく気まずい空気に支配された。ワグナーが用意してくれた軽食にも手を付けることもできず、よく冷やされていたワインは汗ばかりをかいている。それでも何とか自己紹介をしあい、ハインリッヒはリーンハルトについての最低限の知識を得た。まず、彼がベルゲングリューンの姉の子であること。そして、年はハインリッヒより1つ上の21歳であり、フェザーン大学の法学部に在学中だということだ。
 ハインリッヒも自身のことを語った。彼にとってロイエンタールと出会ってから共に過ごした数年は、決して一言では言い表すことはできないものだった。だから、ついつい話に熱が入りリーンハルトの表情が先ほどとは比べものにならないほど暗く陰っていることに気づくのが遅れた。空気は先ほどとは比べものにならないほどに冷え込んでしまった。そんなハインリッヒに救いの手をさしのべたのは、軽やかにしかし控えめに扉を叩く音だった。ハインリッヒが扉を開けるとそこにはベルゲングリューンが立っていた。リーンハルトに用があってきたのだろうと早合点したハインリッヒが背後を振り返ろうとするのを、ベルゲングリューンの声が押しとどめた。
「ハインリッヒ、おまえに用があるんだ」
 リーンハルトはベッドに腰をかけうなだれている。ハインリッヒは重苦しい空気から救われるような気がして、照明を極限まで落とした廊下に出た。
「疲れているだろうに、すまんな」
 そう言って先をゆくベルゲングリューンの後を追う。Tシャツとスエットのパンツという出で立ち、髪も濡れている。就寝前だろうこの時間にわざわざ尋ねてくる理由など一つしか思い当たらなかった。ベルゲングリューンはある扉の前に立ち止まった。重厚な扉を開けると、そこは壁一面が書架になっている一室だった。パチンと小さな音を立てて明かりが灯された。すぐ傍にあるスツールに勧められるままに腰をかけると、ベルゲングリューンも近くにあった椅子に座った。
「彼のことですか?」
 叔父であるベルゲングリューンがリーンハルトの様子を伺いにきたのだと思い、ハインリッヒは訊ねてみた。
「ん、ああ、まあ・・・・・・」
 歯切れ悪く言うベルゲングリューンにハインリッヒは素直に謝った。
「申し訳ありません。実は何も話ができず・・・・・・、なぜこちらに来たのかも聞き出せてはいないのです」
「そうか・・・・・・」
「・・・・・・」
 リーンハルトと二人でいるよりはずっとましの沈黙が、二人の間に鎮座した。妙に落ち着かない様子のベルゲングリューンに、ハインリッヒの悪戯心が刺激される。どこをどうからかってやろうかと思っていると、ベルゲングリューンが重い口を開いた。
「ハインリッヒ、実はな・・・・・・」
「はい」
 ベルゲングリューンはハインリッヒを見た。その真剣な眼差しにハインリッヒの背筋は自然に伸びた。
「その・・・結婚したんだ、1年半ほど前に」
「ええっ!? それは、おめでとうございます! それで、お相手はどういう方なのですか?」
「・・・・・・閣下だ」
「え?」
「閣下だ、ロイエンタール閣下と結婚したんだ」
「・・・・・・」
 絶句したハインリッヒにベルゲングリューンは慌てたようにその経緯を語った。
「・・・・・・ハイネセンでは同性婚は認められてはいるのだが、おまえには受け入れがたいことだとは思う・・・」
「違うんです!」
 思わず大声が出た。ベルゲングリューンもだがハインリッヒ自身も驚くほどの声だった。
「受け入れがたいとか、そんなことではありません。ただ、少し・・・とても驚いただけで・・・・・・」
 ハインリッヒは立ち上がり「おめでとうございます」といい敬礼をした。頭を上げると安堵したような表情のベルゲングリューンがいて、目があった。
「そうか、そう言ってくれるか。もっと早く伝えなければとは思っていたのだが、事が事だけに通信では言えなくてな。すまなかった」
 首を横に振るハインリッヒに照れたようにベルゲングリューンは続けた。
「『早く言ってこい』とあの人に部屋を追い出されてしまって、こんな夜分に申し訳なかった」
 ではおやすみ、と言い残してベルゲングリューンはそそくさと出て行ってしまった。照れ隠しだろうがハインリッヒとしてもそうしてもらって助かった。なぜなら、涙が次々に目からこぼれるのを見られずにすんだからだ。
「どうしてだろう? どうして涙なんか・・・・・・」
 涙だけではなかった。胸が押しつぶされるように苦しく、頭から血の気が引くように感じた。胸を抱きしめるようにその場にしゃがみこみ、流れるままにまかせていた涙が床に小さな水溜まりをつくるのを見て、ようやくハインリッヒは自分の想いに気付いた。
 最初は確かに敬愛だった。それがいったいいつからこんな想いをいだくようになったのだろう。長くお側にお仕えし、特別に自分が可愛がられていることを誇らしく思ってきた。両親を亡くした自分の後ろ盾になるために養子にまでしてくれた。自分にとって閣下が特別であるように、閣下にとっても自分が特別であることを当たり前のように感じていたから、だから、閣下を盗られてように思い苦しいのだろうか? いや、そうじゃない! 僕は閣下を好きだったんだ! 幼年学校の校長室で会った、あの時から!
「ウゥッ・・・・・・」
 はっきりと意識をすれば、涙の意味もわかってくる。嗚咽を漏らしながらハインリッヒは理解した。ハインリッヒにとって悔しいのはその相手も彼の敬愛する人物だったことだ。たとえ心の中であったとしても、貶め罵声を浴びせることはできなかった。幸せになって欲しい、そう思うのに痛む心が情けなかった。
 
 一頻り泣いた後、ハインリッヒは部屋に戻った。相変わらず冴えない顔をして同室者はベッドに横たわっている。ハインリッヒは無性にムシャクシャした気分になった。ここが士官学校の学生寮だったなら、訳もなく相手に喧嘩をふっかけていただろう。
「おい、まだ起きているんだろう?」
 上掛けを乱暴に引っ剥がすと、胸座をつかみ身体を引き起こした。そして、なみなみと注いだワイングラスをリーンハルトに突きつけた。
「つき合えよ! 飲まなきゃやってられない気分なんだ!」
 自分もグラスに口を付け、ワインを一気にあおった。食道が焼け付くような感覚にハインリッヒは噎せかえった。
「酒、飲んだことないんだろう?」
「うるさい、君も飲め!」
 震える手が差し出したグラスをリーンハルトは受け取った。せき込むハインリッヒは涙目になっていて、まるで泣いているようだった。本当にどうしたのかと見ていると、泣き笑いのような顔をしてハインリッヒが言った。
「失恋した・・・・・・。やけ酒だよ、付き合ってくれるよな・・・・・・」

 翌朝、リーンハルトは猛烈な乾きとともに目を覚ました。霞む視界に見つけたミネラルウォーターのボトルに手を伸ばし、何とか口を付ける。半分ほど飲み干して、ようやく人心地がついた。そして、見慣れぬ景色に困惑した。そして、徐々に蘇ってきた昨日の様々な出来事に頭を抱えた。
 大学の卒業を間近に控え、ある思いが抑えがたくなってきたとき、脳裏に浮かんだのは凛々しい軍服姿の叔父だった。叔父は今ノイエラントにおいて軍の要職に就いている、そう思うと居ても立ってもいられなくなり、気がつけば取り敢えず必要な荷物だけを持って宙港に立っていた。そこからは、まるで夢遊病者のように靄のかかった生活だった。なんとかハイネセン・ポリスへ降り立ち、数日ベルゲングリューン軍事総監の自宅を探し歩き、昨日ようやくこの屋敷の前にたどり着いたのだった。そして、帝国軍の双璧の一人、ロイエンタール元帥と対面し、食事をし、その屋敷内に留まっている。昨日顔を合わせたばかりのハインリッヒとか言う士官学校の生徒と同室になり、酒を飲まされ、酔いつぶれた。
 自分の置かれている状況が、自分のことなのに受け入れられなかった。そんな思いに頭を抱えているリーンハルトに、シャワールームから出てきたらしいハインリッヒが声をかけた。
「やあ、おはよう。気分はどう?」
「・・・・・・最悪だ」
 一緒に酒を飲んだはずなのに、妙に清々しい表情にハインリッヒにリーンハルトはますます頭を抱えた。実際二日酔いで頭も痛い。
「おまえ、飲まなかっただろ?」
「バレた?」
 背中を見せて頭をガシガシと拭きながらの悪びれない答えは、リーンハルトに大きな溜息をつかせた。「なんでだよ」という唸るような独り言にもハインリッヒは律儀に答えてくれる。
「君がひどい顔をしていた、放って置いたら首でも吊りかねないような顔さ。だから、酔いつぶしてしまおうと思ったんだ。その方が安心だからね」 
 ハインリッヒはシャツのボタンを留めながら振り返った。リーンハルトはバツが悪い気持ちで上目遣いで盗み見るようにその姿を見た。
「失恋したっていうのは?」
「・・・・・・なんだい、それ? ところで、朝食はどうする?」
「・・・・・・いらない」
「そう、じゃあそう言っておくよ」
 着替え終えたハインリッヒは颯爽と扉の向こう側の人になった。リーンハルトはもう一度肌触りのいいシーツに身を沈めた。そして、沈みゆく意識の中で思った。彼は意外に嘘がつけない奴だなあ、と。あんな赤く腫らした目元をして、きっと昨日は一晩泣いていたに違いない。あの時、ドアの向こう側にいたのは叔父のような気がしたが、叔父が彼の失恋と何か関わりがあるのだろうか。いろいろと考えなければならないことはあるのだが、二日酔いの頭に浮かぶのは、ただただこのままこの異常なまでに居心地のいいベッドの中で惰眠を貪りたいということだけだった。


********************

 十分に早起きをしたつもりだったが、大人の朝はもう少し早かったようだ。食堂には片づけをする男の使用人が一人いるだけだった。閣下は、というハインリッヒの独り言を拾ったのだろう、彼がそっとテラスの方を指さした。見れば窓際のソファーの背もたれからロイエンタールの後ろ姿がのぞいていた。朝日を浴びて普段は黒とも見紛う暗褐色の髪が、鳶色に光っていた。
「おはようございます、閣下」
「おはよう。早いな」
 ゆっくりしていれば良かったんだぞ、とコーヒーカップを片手にロイエンタールは微笑んだ。
「はい。ですが、せめてお見送りをと思いましたので・・・」
「そうか」
 ロイエンタールが少し身をずらした。空いたところを勧められ、ハインリッヒは恐縮しつつも腰を下ろした。そこからは、美しく整えられた裏庭が一望できた。上り始めた秋の朝日がほのぼのと照らし出す庭には、赤く染め上がった葉をハラリハラリと散らす古木があった。
「きれいですね。もうすっかり秋だ」
「フフッ、おまえは春のあの木を知らんからそういうのだ」
「春? 花が咲くのですか?」
「ああ、霞むように薄桃色の花を咲かせる。もっとも、俺も満開の時を見たことはないんだがな」
 ハインリッヒは盗み見るようにチラリと隣を窺った。庭に目を遣るロイエンタールの横顔は冴え冴えとして美しい。
「桜というものは春こそ美しい。同じ散るにしても落葉はどこか寂しいものだ」
 美しいだけではない。王侯貴族のような威厳はそのままに、そこに以前にはなかった柔和さがあるように思える。ハインリッヒの胸がキュッと小さく痛んだ。
「ご結婚なさったそうですね、おめでとうございます。その・・・・・・」
 言いよどむ気配に、プイッと顔を背けていたロイエンタールが流し目で隣に座る息子を見た。その穏やかな黒い瞳に促されるように、ハインリッヒは思い切って訊ねてみた。
「その・・・、お幸せですか?」
「幸せか・・・・・・、何が幸せなのか俺にはわからんが・・・・・・。そうだな、これがそうなのかも知れんな」
 つと白い手が伸びてきてハインリッヒの頭を優しく撫でた。
「あいつがいて、おまえがいる。よく帰ってきてくれた」
 お帰り、ハインリッヒと優しく名を呼ばれ、それまで堪えてきたものが思わず溢れてしまった。髪を撫でる手に力がこもり、ハインリッヒはロイエンタールの胸に倒れ込んだ。慌てて身を起こそうとするが、包み込む腕の暖かさが彼をそこへ留まらせた。止めどなく涙が流れ、その涙はロイエンタールの胸に吸い取られていった。
「士官学校で、何かあったのか?」
「いいえ・・・・・・何も」
 宥めるように背を叩くぎこちない仕草に、この方を困らせていると分かる。まさか、貴方を他人に盗られて悔しいのです、と言えるはずもないし、また、それが今の自分の気持ちを正直に表しているとも言い難い。いったい自分はなぜ泣いているんだろう、そう考え思いのままを口にした。
「嬉しいんです、僕も・・・・・・。帰ってくるところがあって・・・閣下が待ってくださっていて・・・・・・本当に、嬉しいんです」
「そうか」
 短いが優しい声が頭上から降ってきて、ハインリッヒは無言で頷いた。 もう暫くこうしていたい、と細腰に回した手に力が篭もりハインリッヒに少し不純な気持ちが芽生えたとき、背後から控えめな声がした。
「閣下、ハインリッヒ、これは・・・・・・?」
 ベルゲングリューンだとわかり、ハインリッヒは慌てて身を起こした。閣下を思う気持ちを知られてはいないとは思うものの、疚しさは拭えない。それに、ロイエンタールの胸元に擦り付け赤くなった目元。俯いたまま顔が上げられなかった。
「昨晩、何かあったのか?」
 『昨晩』の一番の大打撃は閣下の結婚報告だったのだが、ベルゲングリューンが言うのはそのことではないだろう。ハインリッヒは俯いた顔はそのままに背筋を伸ばした。
「彼とは少ししか話せませんでした。しかし、彼が自分にとても悲観的になっているのはわかります」
「ほう、それは?」
 ベルゲングリューンは一人掛けのソファーに座ると、身を乗り出すようにして僕を促した。
「彼は僕のことを羨ましいと何度も言いました。また、『どうせ、俺なんて』という言葉も・・・」
「自分に自信がもてない、そんなところか?」
「はい。それと、ハイネセンに来た理由も訊ねてみたのですが、『なんとなく』だとか・・・。『叔父さんに会ったら、何か変わるかも知れないと思ったのかも知れない』とも言っていましたが、具体的なことは何も聞き出せませんでした」
 ベルゲングリューンは深刻な顔で頷いた。そして「すまなかったな」と眉毛を下げた。
「せっかくの帰省だというのに、身内がとんだ迷惑をかけている」
「提督のお身内は、僕にとっても親戚のようなものです。僕は閣下の子どもですし、提督と閣下はご夫婦なのですから・・・」
 碧の目を大きく見開き、絶句するベルゲングリューンを横目に、クツクツとロイエンタールが笑っている。
「あの・・・・・・、可笑しなことを言いましたか?」
 不安そうに見上げるランベルツに、ロイエンタールははっきりと首を横に振って答えた。
「いや、可笑しくはないさ。おまえの言うとおりだ」
 そして、笑いを収めると白い指を顎に当ててた。金銀妖瞳は虚空を見据えている。何か思案をまとめている、そんな姿を二人は静かに見守った。
 
<続く>
 

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