Die Hände(3) |
Handgelenk 非公式の意見交換会は、休憩を挟んで3時間ほど続いた。民事長官室の隣に設けられた応接室から出た頃には、もう陽が傾き始めていた。 「総督閣下、この後ご予定はございますか?」 リュミエールは応接室の重厚な扉を手で押さえながら言った。ロイエンタールは隣室に控えていた副官を呼び、今晩の予定を確認させた。この後予定を入れないようにとは、予め民事長官から指示されていたことであるが、レッケンドルフはさも偶然のように報告した。 「本日は、この後のご予定はありません」 リュミエールはパッと顔を輝かせて、朗報をもたらせてくれたレッケンドルフにウインクした。 「では、これから夕食に行きましょう。美味しいシーフードの店があるんですよ」 ロイエンタールは不承不承に頷いた。仕事を早く終われるのなら、一刻でも早く邸に帰り、髭面の男を構って過ごしたいところではあるが、この日の客はノイエラントと総督府にとって重要な人物であると、民事長官から重々含められてた。断ることはできなかった。 二人はレッケンドルフが用意した地上車に乗り込み、ハイネセン近郊の川沿いのレストランに向かった。 「閣下、お願いがあるのですが、お聞き入れくださいますか?」 護衛の車が後ろにいるのをバックミラー越しに見ていたロイエンタールは、視線を隣の男に移した。 「お願い?」 警戒するように眉間に皺を寄せたロイエンタールに、リュミエールは慌てて手を振った。 「たいしたことではありません。これは、ロイエンタール閣下個人に対するお願いです」 「きけるものならば」 「ああ、ありがとうございます。お願いというのは他でもありません。今このときからはこちらの言葉を使っていただきたいのです」 「同盟語を?」 「ええ」 ロイエンタールはリュミエールの考えがわからずに、小首を傾げた。 「『卿』って言われるのが嫌なんです。こちらの言葉では二人称は一つだから」 リュミエールは言葉を同盟語に切り換えて言った。 「『du』が無理なら、せめて『you』と言ってほしいですからね」 そう言うと片目をつぶって見せた隣の男を、ロイエンタールはまじまじと見た。肩まで伸ばした淡い金髪に菫色の瞳、それとよく手入れされた無精髭。そう、髭といえば、単に剃らずにいるだけでは様にならず、どんな無精に見える髭であっても、しっかりと手入れがされているものなのだ。ロイエンタールがそれを知ったのは、顔中に髭を生やしたあの男と暮らしはじめてからだ。 「いけませんか?」 ロイエンタールの心がここにないことがわかったのだろうか、リュミエールはその意識を呼び戻すように声を掛けた。 「いや、別に構わない」 横顔で素っ気なく答えるこの星の最高権力者に、リュミエールは同盟語であることをいいことに、かなり砕けた言葉遣いで話し始めた。 「じゃあレストランまで時間もあるし、少し『私』の話でも聞いてもらおうかな…」 ロイエンタールが諾の返事を与える前に、リュミエールはまるで一人語りのように彼自身のことを語りはじめた。それは彼の生い立ちであり、彼の置かれていた立場の特異性についてだった。ロイエンタールはその所々に自らと重なるところを感じた。 「新エネルギー事業を軌道に乗せ、父の会社は瞬く間に大きくなった。私も駆け出しの科学者として、父にも社会にも貢献しているつもりだった。まあ、私の力なんてほんの微々たるものだったけどね」 自嘲というにはあまりに切なく笑ったリュミエールだった。 「戦況が悪化し始めた頃かな、私たち家族に対する周囲の風当たりが、急に冷たくなった。それまでは偉ぶった態度をとらない父だったから、従業員ともご近所さんともうまくやっていたんだ。それが本当に急に、掌を返したとはあのことだと思ったよ」 紫色の瞳にはその時の情景が映っているのか、ロイエンタールはぼんやりとした表情を浮かべるリュミエールを見た。 「何か、原因が?」 「ある、大ありさ。私と同年代や果ては親の代まで、壮丁はみんな徴兵されたのに、私はされなかった。兵役逃れを父が言い出すはずもないから、政府のお偉いさんが勝手にやったんだろう」 ロイエンタールの脳裏に、混乱に乗じて殺害した男の顔が甦った。 「卿…いや、貴方がたに恩を売ることで甘い汁を吸おうとしたんだろうな、奴らがしそうなことだ」 「ほとんど押し売りだったけどね。そのせいでこちらはすっかりコミュニティーから弾き出されたよ」 『コミュニティーから弾き出された』と、軽く発せられたこの言葉の実情が全く軽くはないことは容易に想像できた。家族がある日突然に戦争に駆り出され、宇宙のとこかで殺される。まるで人間を消費するかのような戦争という殺戮の無限ループからこぼれ落ちた者を、世間がどう扱うかということなど、陣営が異なれどロイエンタールにも容易に想像できた。いや、表面的であったとしても平等を謳っていた同盟内部でなら、その反発は帝国の比ではなかっただろう。 車窓からは暮れなずむハイネセンポリスの街が見える。ロイエンタールの隣の男は、話の内容にそぐわない穏やかな顔をしていた。その顔を見てロイエンタールは不躾だとは理解しながらも、単刀直入に疑問に思っていることを訊ねてみた。 「なるほど、貴方が苦労したということは私にも想像に難くない。だが、それだからこそ、疑問に思うことがある」 「なんです?」 「戦争中、貴方は同盟政府だけでなく同盟の国民にも不当な扱いを受けてきた訳だが、なのになぜ、今その国民のためにせずともよい苦労を自ら背負おうとするのだろう?」 リュミエールは見る人が見れば軽薄にも見える笑顔を引っ込めた。そして、ロイエンタールをじっと見ると、かなわないなと眉を下げた。 「確かに、嫌な思いもしたけどね、戦場に行かず戦死する可能性がゼロだった私は、やっぱり人から見れば恵まれていただろうしね。それに、そんな私たちに昔と変わらず優しく接してくれる人もいた。戦争中は偏見の目を向けてきた人たちの中にも、その後そのことをわざわざ謝ってくれた人もいる。私はね、恩返しをしたいんだ」 「恩返し?」 「そう、命を張って国を守ろうとしてくれた人たちのおかげで、私はこうして生きてここにいる。だから今度は、私が彼らにできることをしよう、とね」 多くの同盟国民の苦しみに比べると、私の苦労なんて大したことはないよ、とリュミエールは微笑んだ。それよりも、と彼はまぶしそうにロイエンタールを見た。 「君の方が、素晴らしいと思うな。結局のところ私は私の祖国のために尽くしているにすぎないんだけれど、君は違うからね」 話の矛先が自分に向いたことを感じ、ロイエンタールは我知らず身構えた。大抵の場合、このあとに続くのは歯の浮くような追従と底の見えたへつらいだ。しかし、リュミエールの口から出て来たのは、今までにない類いの賞賛だった。 「見ず知らずのハイネセンの人々のために、よくもここまでしてくれたと思うよ。『自由惑星同盟』に政治家はゴマンといたけれど、その誰よりも『赤の他人』でしかない君がすることの方が、何倍もこの星の人たちを幸せにしているよ」 ロイエンタールはそんなこともあるまいと思った。確かに、彼が手を下した時の反乱軍の政治家たるや、今思えば「宿り木」よりは寄生虫程度のものが多かったが、それでも民を思う政治家はいたはずだ。でなければ、そもそも『自由惑星同盟』なるものが成立するはずもないのだから。 「それは買い被りすぎだな。私は単に皇帝陛下に委された職責を果たしているにすぎない」 「甘い汁を吸おうと思えばいくらでも吸えるのに? 権力を誇示しようと思えば手段なんていくらでもある。なのに君はそれをしようとしない。君はこの星のいわば独裁者だ。なんだって好きなようにできるのに、あまりに君は・・・・・・そう、清廉だ」 まるで珍妙なものでも見つけたような顔で、リュミエールはロイエンタールを見た。 「ずっと不思議に思ってきたんだ、君はどんな人だろうって。今まで遠くからロイエンタール総督閣下をお見かけすることはあったけど、君はあまりにも完璧な佇まいで同じ人間のように思えなかった。それに、私も経営者の端くれだからね、裏の知れないものに投資はできない。君は私たちを童話に出てくる魔女のように太らせて喰おうとしているのかい? それとも・・・・・聖人君子なの?」 清廉だの聖人君子だの、自分とは一番対極にあるものを持ち出され、ロイエンタールは驚きを通り越して可笑しくなってしまった。漁色家だの性格破綻者だの言われてきた自分を、知らぬこととは言えそのように思う者が現れようとは思いもしなかった。 「違う、とんでもない。俺はそんなご大層な人間じゃない」 こみ上げてきた笑いを一頻りやり過ごし、やっとそれだけのことを言った。しかし、自分を見つめる菫色の瞳が真剣なのを認め、彼が簡単には引き下がらないことを確信した。車窓の景色はもうすっかり闇に包まれている。ここが二人しかいない密室だということを自分に言い訳して、ロイエンタールは自分の「新領土総督」としての思いを語ることにした。ミッターマイヤー以外にこんなことを語って聞かせる日が来るとは、思ってもみなかった。 地上車がリュミエールお勧めのレストランに到着する頃には、リュミエールは満面の笑顔でロイエンタールの肩を抱かんばかりの上機嫌になっていた。あの戦争で失われた多くの命を思えば、するべきことは自然と決まってくると言った同い年の権力者に、彼は今まで以上の好意を持った。 「ハイネセンにはハイネセンの流儀がある。私は全力で君をサポートする、約束するよ」 一足先に地上車を降りたリュミエールは、ロイエンタールの側の扉を開けてエスコートした。差し出した手こそ取ってもらうことはなかったが、この車内で新たな関係が築かれたことを感じていた。 リュミエールが案内したレストランは、決して高級とは言えない店だった。雑多な人たちで溢れる庶民的な店内は、ランプの灯を模したライトがほんのりと暖色に照らしていた。ネクタイを締めた自分たちが浮いてしまうのではと危惧したが、食べることと呑むこと、それにおしゃべりすることに夢中な人々は、新しい客にまったく関心を持たなかった。ベルゲングリューンとレッケンドルフは、警護者用に用意されていた席に着くと、目隠し代わりの鉢植えの木々の隙間から警護対象者たちを見た。 「随分仲良くなったみたいですね」 同じようにロイエンタールたちを見ていたレッケンドルフの暢気な言葉に、ベルゲングリューンは不承不承ながらも同意せずにはいられなかった。今回の警備隊長であるアイネム中佐が迷惑顔で二人の袖を引いた。 「目立つような振る舞いはなさらないでください」 それでなくとも、無理矢理押し掛けたこの高位の警護志願者たちに迷惑を被っている警護隊長は、これ以上の邪魔をされないうに釘を刺した。本来ここにいるはずの二人の部下には、外回りの警備につかせている。春先とはいえ、まだ冷え込みの強い寒空に突然立たされることになった部下たちを思っては人知れず溜め息をついた。 「ご苦労様です」 ここまでの道すがら、そつなく打ち合わせをしておいた甲斐もあり店側との意志疎通はできている。気を利かせてテーブルにソフトドリンクとともに並べられた軽食は、シーフードをふんだんに使ってあり見ているだけで腹が鳴った。その皿をベルゲングリューンらの方に押しやりながら、アイネム中佐は言った。 「この手の店を選ぶなど、リュミエール氏は噂通りなかなかの遣り手ですね」 「どういうことだ?」 ベルゲングリューンはオイル漬けされた牡蠣を一つ口に放り込んで聞いた。 「心理学です。共同作業は連帯感を高め、仲間意識を作り出すそうです」 「共同作業?」 「はい。共同作業は人の心を打ち解けやすくするそうです。ここの料理は豪快でしてね、エビやカニがそのままドンと一つの皿に盛られてテーブルに運ばれてくるのです。エビの皮剥きなど、ちょうどいい感じの軽作業でしょう」 再び鉢植えの隙間を注視する二人に、アイネムは店内見取図を確認しつつ更に教えてやった。 「そうそう、これは恋愛にも応用できるそうです」 提督方も使ってみられたら、という最後の言葉は二人の耳には残念ながら入ることはなかった。より鋭い目付きで警護対象者を観察し始めた軍事総監と総督付き副官に、アイネムは頭が痛くなった。 「おい、あいつ上着を脱ぎ始めたぞ!」 「総監、さすがに警護対象者に対して『あいつ』は不味いかと。それに服を汚さないためでしょう、この手の店では当たり前の光景です」 ベルゲングリューンの慌てたような声を、アイネムがやんわりと嗜めた。すると今まで比較的落ち着いていたレッケンドルフの挙動が怪しくなってきた。 「ほらほら、閣下は貴族らしくディナーの時はきちんとした服装をなさっている方です。だ、大丈夫ですよ。それに、閣下もあの事は気になさっていました。上着を脱がれることはありませんよ!」 アイネムは警備隊らしく目だけを動かしてロイエンタールを見た。いつもと変わらぬ端整な後ろ姿に、今日はなぜか同情めいた思いを抱いた。 リュミエールは通路を挟んだ所から不穏な気配を感じつつ、目の前の魅力的な人物に意識を移した。 聞くと見るとは大違いとはこのことだった。かのヤン・ウェンリーをさえ脅かした名将としての彼も、帝国軍の双璧と称えられ黄金獅子皇帝を支える彼も、極悪な俗物に陥れられそうになった彼も、また、月毎に女を替えたという冷酷な彼も、目の前にいるオスカー・フォン・ロイエンタールという人物に結び付かなかった。それどころか、リュミエールにとっては話に聞くだけでしかなかったが、戦争とロイエンタールを結びつけることすら困難だった。リュミエールの目から見て、彼はただただ優美だった。 今も、物堅い帝国人らしくネクタイも緩めずにいるロイエンタールに、少しでも打ち解けてもらいたいと思うのは、自分と彼との間に特別な関係を築きたいという欲があるからだ。別に権力が欲しいわけではない。それどころか、彼との関係を誰に知られなくてもいい。密やかな二人だけの時間を共有できる、そんな関係がいい。ロイエンタールの人となりを僅かではあっても垣間見ることのできた今では、更にそんな思いは強くなっていた。リュミエールはロイエンタールの手のものを取り上げた。先程からどうしても割れずに四苦八苦していた大きな蟹の鋏だった。 「貸して……。ここをほら、こうすると」 慣れた手つきで殻を割ると、 「ほう、上手いものだ」 と感嘆の声が上がった。 「食べてみて、一番美味しいところだから」 リュミエールはこの店を選んで良かったと思った。ここの店主は終戦間際のあの時でさえ彼を支えてくれた、いわば家族のようなものだ。その自分のテリトリーの中にロイエンタールがいる。そのことに、リュミエールはこの上ない喜びを感じていた。 「どう?」 「ああ、美味いな」 初めは使っていたナイフとフォークはもうすでにテーブルの片隅に追いやられている。そのテーブルの上には、山積みの二人が食い散らした海老や蟹の殻ともう二本目のワインも底をつきかけていた。 「ふふっ」 酔いの回り始めたリュミエールの耳に、微かな笑い声が届いた。魅力的なオッドアイが彼を見つめていた。 「どうしたの?」 「ん? いや、別に」 「………………」 これだ、とリュミエールは頭を抱えたくなった。ロイエンタールの気まぐれな微笑みや仕草に振り回されている。それほどまでに、自分の心が囚われてしまっているのだ。ああ、今すぐにも彼をこの腕にかき抱いて、愛の言葉を囁けたらとさえ思う。 暴走し出しそうな心をもて余したリュミエールに助け船を出したのは、この店の店主で長らくの彼の友人だった。 「お、お料理は気に入っていただけましたか?」 「ああ、とても」 普段よりも幾分上擦った声で挨拶する店主は、にこやかに応えた声の主を見て狼狽えた。その人がいると予め知ってはいても、実際に会うことなど考えたこともなかった。際立つ美貌に惹き付けられる視線を、不躾に感じられてはとの気遣いが、さらに目の遣り処にに困らせた。それで、ついついいつもの激しい手振りが出てしまった。 「うちの料理は鮮度が命なんです! この魚介はみなそこの海から上がったばかりのものなんです。それで……それから……」 バタバタと両手を上下して、いかにそれが旨いかを力説する幼馴染みを、リュミエールはまあまあと落ち着かせた。 「じゃあ、あのとびきりのやつ、今日はあるかい?」 「ああ、あれか! あるよ、とびきり活きの良いのが!」 弾かれたように厨房に戻って行く店主を、ロイエンタールは酔いで霞んだ思考ながらも、不安に感じつつ見送った。 「ありゃなんだ?」 ロイエンタールが背中を向けて座るテーブルに新たに運ばれてきたものを見て、ベルゲングリューンは思わず声をあげた。その声に釣られた視線の先には水をなみなみと湛え大きなガラスのボールがあった。 「あれは…」 閣下の副官が、先程からなぶっていたメニューを開き、指で示した。 「鮮度抜群の『活け車海老』ですよ」 「活け車海老?」 「はい」 「どうやって食うんだ?」 「そりゃ、皮を剥いて食うんじゃありませんか?」 「皮を……」 アイネム中佐は二人の会話に耳を貸しつつ、ああそうかと思った。軍人なんかをしていると殺生など容易くしてしまうと思われるが、実は、そうでもない。中には生きた魚を絞めることすらできない者までいるのだ。生きた海老の皮をむく、このことに眉をひそめるこの髭面の軍事総監閣下はまさしくそのようなタイプの軍人なのだろう。 「残酷じゃないか」 「いえ、海老には痛点がないということを聞いたことがあります。海老のやつは皮をむかれても頭をもがれても痛くはないんですよ」 「頭を……、いやいや、頭をもがれたら流石に生きてはいまい」 「いやいや、しばらくは生きているのですよ。だから口の中でピクピクと動き、その歯応えと甘みがなんとも言えないということです」 「……」 眉間のしわをさらに深めたベルゲングリューンの様子に、アイネムは少し溜飲の下がる思いがした。トイレに行くと立ち上がった上官を見送り、彼は自分の職責を果たすべく、相変わらず端然とした後ろ姿に意識を戻した。 目の前に置かれたものを、ロイエンタールは見つめた。それが、決して観賞のためにここにあるわけではないのはわかっているが、かといってどう扱ってよいか見当もつかなかった。いや、分かりたくないと言うのが正直な気持ちだった。だから、身振りの激しい店主が、「まだ寝てるのかな」と言いフォークを手にしたときは、嫌な予感しかしなかった。大人しいのならそれに越したことはないのでは、とロイエンタールが口にする前に、店主は振り上げたフォークを車海老の入ったボールの縁に当てた。涼やかな玻璃の響きがしたかと思うと、途端に水面が波立ち始めた。 あっという間の出来事だった。 店主によって目を覚まさせられた活きのよい海老たちは、いっせいに暴れ始め、テーブルのここかしこに、いや、中にはテーブルを超えて通路のさらに向こうまでお邪魔をした元気者もいた。喜んだのは店に居合わせていた子供たちで、突然開催された車海老の掴み取り大会に歓声を上げた。一時は蒼白な顔色になった店主だが、主賓であるロイエンタールが苦笑を浮かべて子供たちの騒ぎを見ている様子を見て、ほっと胸を撫で下ろした。 「海老は捕らえた子らに」 声の主が誰かは知らない子供たちは、この太っ腹な紳士に口々に感謝の言葉を口にした。 「ごめんね」 騒ぎが一段落したとき、リュミエールがタオルを差し出した。 「ずぶ濡れになっちゃったね」 ロイエンタールの目の前に置かれたまま忘れられているガラスのボールには、もうほとんど水は残っていなかった。そのほとんどをロイエンタールは浴びたらしく、ワックスで固めていた前髪が崩れて目に掛かっていた。髪を掻き上げて、タオルを受け取ろうと手を伸ばすと、 「これ、どうしたの?!」 と、伸ばした腕を捕まれた。ロイエンタールは袖口から覗いた赤い手形を認めると、しまったと思ったが、リュミエールはその手を放さなかった。 「放せ」 「待って、これって手の痕……?」 リュミエールは手の中にある白い手首を凝視した。アルコールが回ってさらに浮き出るようにはっきりと誰かの手の痕が認められる。誰かの……誰の……? いったい誰が総督閣下の身体にこんな傷を残したというのだろうか。 リュミエールは赤い手形に重ねるように自分の手を置いてみた。しかし、どうしてみても重ならない。 「これ、どんな風になってるの?」 「貴方には関係ない」 ロイエンタールの口調が固くなったことに、リュミエールはムキになった。左手首を手の甲から包み込むように付いた左手の痕。これが付くためには……。 「おい!」 ロイエンタールの咎める声がしたような気がしたが、聞こえなかったふりをしてリュミエールは席を立ち、ロイエンタールの背後に回り込んだ。そして、逃れようとする身体に覆い被さるようにすると、自らの左手でロイエンタールの左手首を掴んだ。周囲を気にするからか、大声を立てたりはしないものの、全身で彼を拒否しているロイエンタールに、リュミエールは苛立ちを感じた。いや、ロイエンタールにではない。この彼にこのようなことを許された「男」にだった。 「誰なの? 君をこんなふうにするのは?」 背中から抱き締めたままそう訊こうとしたとき、脇腹へ鋭い痛みと、肩を掴まれる強い力を感じて床に尻餅をついた。 「痛いなあ、もう……」 口のなかで呟きながら立ち上がると、目の前に見掛けない男が立っていた。まるでロイエンタールを庇うかのように立ち塞がる男に文句の一つでもつけようとしたとき、ロイエンタールの鋭い声がした。 「ベルゲングリューン、お前、ここで何をしている!?」 たいして大きくもない声だが威厳溢れる一喝に、ベルゲングリューンと呼ばれた男は、はっと恐縮した。ベルゲングリューン……。その名と髭面を記憶にある総督府の面々と照合させてみた。 「ベルゲングリューン…軍事総監?!」 思い当たった人物が、今目の前にいるスーツ姿の男と一致することを何とか理解できたとき、ロイエンタールが再び口を開いた。 「答えろ、ベルゲングリューン。お前はここで何をしている」 「実は……、レッケンドルフと食事に参りまして……、その、シーフードの旨い店があると准将が言うものですから……」 「レッケンドルフだと……」 通路を挟んだ死角になってい席から姿を現した総督付きの高級副官は、恨めしそうにベルゲングリューンを睨んでいた。 リュミエールは聞き逃さなかった。彼にとっては不慣れな帝国語ながら、確かにロイエンタールは言ったのだ、『du』と。付き合いが長いとはいえ、普通上司と部下と関係でそのような親密な呼び掛けをするものだろうか? まるで品定めでもするかのようなリュミエールの視線に気づいたのか、ロイエンタールの小言に耳を傾けつつベルゲングリューンが視線だけを向けてきた。それは、まるで猟犬のような鋭い眼差しだった。 これは威嚇だと、リュミエールは感じた。しかし、それと同時にロイエンタールを見詰める時の熱をも感じ取ってしまった。 ーーそうか……。 分かりたくないがリュミエールにはわかってしまった、彼があの手形を付けたのだと。理由などなにもない。ただ、確信はある。 まるで、主人に従順なそぶりをみせつつも、実は獲物を盗られまいとひっそりと牙を剥くこの男に、リュミエールは「すぐに彼を奪ってみせる」と無言で宣戦布告をした。 まさか、見えぬ火花をらせているとは露も思わぬロイエンタールは、睨み合う二人を見て意外に気が合うのではないかと、二人にとっては迷惑この上ない誤解をしているのだった。 <おしまい> ロイエンタールとベルゲングリューンの手の傷がどのようにして付いたのか、は続き(4)でご覧ください。 |