Die Hände(2)



Die linke Hand

 目覚めた場所がいつもと違うことに気づいたとき、寝惚けた頭に緊張が走った。だが、ここが何処なのか、そして自分がなぜここにいるのかを思い出し、全身の力が抜け、同時に下肢に痺れを感じた。ここの部屋の主はすでに出掛けた後らしく、枕元には昨夜彼が脱ぎ捨てた夜着が几帳面に畳んで置かれていた。彼はそれを身に付けると、そろっと部屋を出た。もう働き始めている使用人たちに見つからないよう、目を配る自分を可笑しく感じる。が、栗の花の香を濃く纏う今の姿は、誰にも見せられたものではない。ロイエンタールは足早に主寝室のシャワールームを目指した。
「ん?」
 鏡な映った自分の姿に、ロイエンタールは違和感を感じた。いや、違和感はいつも感じるのだ、忌々しいヘテロクロミアに。だが今朝はそれ以上に感じるものがある。動きを止めて、鏡の中を注視すること暫し、ロイエンタールはその原因を突き止めた。左の手首が赤くなっている。
「?」
 昨日まではなかったはずだが、とまで考えて、はたとその原因に思い当たった。あの髭面の石頭が我を忘れて彼を攻めたてる、その恍惚とした表情は抱かれる側のロイエンタールにある種の優越感を抱かせた。自然とニヤリと上がった口角だが、すぐさまへの字にひん曲がり眉間に皺が刻まれた。自分が上げた嬌声が耳によみがえったのだ。あの男の自分に夢中になっている姿だけを覚えていたいのに、どうやら人の記憶というものは都合よくはできていないらしい。
 ロイエンタールはもう一度赤くなった手首を見た。掌を下に上から握られたと思われる手形がくっきりと付いていた。どうしてこんな痕が付いたのか、よくはわからない。
「しかしまあ、ギリギリセーフというところか」
 服を着れば隠れるだろう、ロイエンタールはそう思った。

「ギリギリアウトですね」
 ロイエンタールは午後の会合に備えて、軍服からスーツに着替えていた。必要ないのに手伝うと言って奥の休憩室にまで入ってきていたレッケンドルフは、ロイエンタールの左手に赤アザを見つけてしまった。
『暴漢にでも襲われたのですか?!』
と五月蝿く聞くので、
『そんな暇がないのは、卿が一番知っていよう』
と答えた。邸から総督府まで、ロイエンタールの送り迎えをしているのがレッケンドルフなのだ。
『では、お屋敷の中に、暴漢がいるようですね』
 レッケンドルフは更に立腹した。彼は捧げるように彼の主人の手を取った。
『さぞやお痛かったことでしょう。筋など傷んではいらっしゃいませんか?』
 問われてロイエンタールははたと困った。手形に気づいたのは今朝でしかなく、それがどのような経緯で付いたかなど、全く記憶にないのだ。取られた手を乱暴に取り返した。
『筋は大丈夫なようだな』
『…………ご記憶に、ないのですか?』
 絶句したレッケンドルフから左手を取り戻し、シャツを替えて今に至る。軍服の袖に上手く隠れていた赤アザは、ロイエンタールの身に沿うように誂えられたスーツの袖口から僅かに覗いてしまう。
「軍服で行かれませんか?」
 レッケンドルフの提案に、ロイエンタールは首を振った。
「この会合は非公式なものだ。ノイエラント総督としてではなく、オスカー・-フォン・ロイエンタール一個人として会う」
 そのために軍服では行けないのだ、と。
 レッケンドルフもそのことは重々承知していた。いや、彼はロイエンタール以上にこの会合の持つ様々な意味を知っていた。

 例えば、会合の相手ーーアラン・リュミエールという男のこと。彼はノイエラントで最も有力な実業界の一人で、創業者を父に持つ二代目だ。若いながらも商才と辛辣な手腕の持ち主で、ノイエラントの経団連は彼を次期総長にと期待している。また、エルスハイマー民事長官は、利己主義や独善に陥らない彼の人となりを高く評価し、総督府と彼の間にパイプを作ろうとしてる。いや、もっと直載に言えば、民事長官は彼をロイエンタールの経済的な分野での相談役として登用したい考えだ。何の見返りも期待できない、責任ばかりがのし掛かる名誉職を、今が脂の乗り始めた青年実業家が引き受けるメリットはない。
 そんな自社の利益に繋がらないにも関わらず、彼は今日のように声が掛かれば必ずやって来る。その理由をレッケンドルフはわかっていた。おそらくエルスハイマーにも。
『なぜ彼なのですか? 適任者なら他にもいるでしょう』
 エルスハイマーの意図に気づいたとき、レッケンドルフはそう訊いたことがあった。しかし、
『彼以上の適任者はいません。それは准将もお分かりでしょう?』
と切り返された。エルスハイマーは温厚そうな顔に微笑みを浮かべ、遠くを見るような目をした。
『それに、総督閣下にはよいご友人が必要かと。ミッターマイヤー閣下が遠くフェザーンの地を離れられない現状を鑑みれば、この地に新たなご関係をお築きになるのが一番です』
『それは………、小官や総監では力不足だと言うことでしょうか?』
『いえいえ、そうではありません。准将には准将でなければ果たせぬことがありますし、総監には、また特別な役割もございます。わたくしはそれらとはまた別に、友人というものも閣下の身の回りにいてもいいように思うのです』
 レッケンドルフは唸った。確かにここのところその交遊関係の狭さが、ロイエンタールの息を詰まらせている感がある。あの人は本来、何の柵も持たない自由奔放な人だったのだ。
『わかりました。それはわかるのですが、なぜその相手があの男なのでしょうか?』
 エルスハイマーはフフフッと笑って言った。
『彼は見所のある人物です。それに、彼は閣下に一方ならぬ興味を持っています。少々強引な方が閣下相手にはよろしいかと思いまして』

 あれほど閣下とベルゲングリューン総監との結婚を喜んでくれた民事長官である。二人の間に水を指すようなことはするまいとは思うのだが、と、レッケンドルフは意外に一筋縄ではいかなさそうな民事長官の、人の良さそうな顔を思い浮かべた。
 しかし、今はロイエンタールの左手だ。ロイエンタールも気になるのか、袖口をちょいちょいと引っ張っていたが、どうにもならないとわかるとさっさと上着を羽織って出掛けてしまった。
 レッケンドルフは不安を怒りに替えて、取り敢えずその怒りを今回の元凶にぶつけるために、執務室を飛び出した。

〈続く〉



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