Die Hände(1)



Die rechte Hand

「痛っ!?」
 突然走った痛みに、ベルゲングリューンは右手を見た。顔を洗おうと水に浸したその甲には、無数のみみず腫が走っている。
「何だ、これは?」
 昨晩はこのような傷はなかったはずだ。目の前に翳してよくよく見ると、二三血が固まった痕も見える。
「これは………、爪の跡か」
 そう気づくと、ベルゲングリューンの脳裏に昨夜の光景が甦った。口元がだらしなく緩むのも仕方がない。彼はその手を返し、今度は掌を見た。そこには傷ひとつないが、代わりに滑らかな手触りと熱さがまだ残っているように思えた。
「閣下………」
 愛しさを声にして、自分の右手に口づけした。その爪痕は、彼の命ともいうべき人が付けた、昨夜の情事の名残だった。
「しかし、派手についたものだ」
 手袋をはめれば隠せるだろうが、デスクワークが主な軍事総監が、手袋をはめていては不自然この上ない。ベルゲングリューンは思案のつかないまま、出仕することになった。

「その手、いかがなさったのです?」
 案の定、見つかってしまった。
「いや、これは………、そう、猫に引っ掛かれてしまってな」
「猫ですか」
 軍事総監付の副官テレマン大尉が聞き返した。人の良い大尉はまるで我がことのように、眉を潜めている。そんな彼を騙すようで気がひけるが、ここはこれで押し通すしかないと腹をくくった。
「ああ。普段は俺にはなつかないんだが、珍しくじゃれてきたのでな、ついつい構いすぎてしまったようだ」
 念頭にレーベンを置いて話を作る。あの閣下と同じ目をしたふてぶてしい黒猫は、命の恩人が誰であるかも忘れ、ベルゲングリューンにはちっとも近づかない。別にそれに恨みがあるわけではないが、その恩をここで返してもらうと考え、全てをレーベンに擦り付けることにした。
「猫は気まぐれですからね」
「ああ、普段はそんなことないのにな」
「でも、そこが可愛いんですよね」
「そうだな」
 レーベンがいつの間にか別の姿に置き換わっていた。ベルゲングリューンは髭の下でわからぬほどに赤面しながら、もうこの話は終わったとばかりに、年若い副官に書類を突き出した。

 そんなやり取りを何度か繰り返して、何だか本当にこの傷が猫に付けられたような、そんな気さえしてきたときのことだった。
「猫に派手に傷を付けられたそうですね」
 そう言いながら、取り次ぎもなしに総監室に入ってきたのは、レッケンドルフだった。仕事上のことならば、きちんと手続きを踏む彼が、こんな現れ方をするとは。ベルゲングリューンはギクリとした。
「あ、ああ。レーベンにな」
「ほほう、総監には全くなつかないあのレーベンが、珍しく『じゃれてきた』そうですね」
「よく知っているな」
 ベルゲングリューンの背中にじわりと汗が滲んだ。総督府の中でのことは、何でも知っていそうなこの男のことである。どこからか話を聞き付けて、からかいに来たのだろうか? いや、それにしては大変な剣幕だ。
「可愛がられるのは結構です。小官も、もしじゃれつかれたならば、それはもう盛大に可愛がって差し上げますからね、それはいいんです」
「そうか………」
 話の行く先が見えず、ベルゲングリューンは曖昧に頷くしかなかった。
「しかし! 猫を傷つけられては困ります」
「なに?!」
「猫殿と如何様な遊びをしたのか、そのようなこと聞こうとは思いません、が! 金輪際うちの猫殿のお体に傷をつけないでいただきたいのです」
「な? なんだって?! あの人は何か怪我なさっているのか?」
 ベルゲングリューンの問いに答えず、レッケンドルフは冷ややかに彼を見据えた。そして、やれやれと大袈裟に肩をすくめてこれ見よがしに溜め息をついた。
「ご存じですか、総監。スーツの袖は軍服より短いのですよ」
「?」
「今晩閣下は人とお会いになるご予定です。ほら、経団連の次期総長に目されている、あの………」
 ああ、とベルゲングリューンは思い出した。アラン・リュミエールとか言ったあの男。閣下と同じ年だというあの男は、明らかにあの人をそういう目で見ている。
「困るんですよ。下心丸出しのリュミエール氏に、隙を見せるようなことは………。突け込まれて困るのは、総監、貴方もなのではないですか?」
 小さく首を振りながら部屋を出ていこうとするレッケンドルフを、ベルゲングリューンは呼び止めた。
「その会合、俺も連れていけ!」
 上擦った声が、昼下がりの軍事総監室に響いた。

〈続く〉



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